1-2 引退
──私、バーチャル配信者の
大型居住艦『兵庫』の地上一階。
『皆さん今日もおはようございます!名は体を表す、勧善無血です!』
特徴的な、元気で少しハスキーな声。雑談をする時の落ち着いた話し方、ゲーム配信をする時の子供のようなはしゃぎっぷり、お悩み相談の時の聖職者のような慈悲深い言葉、一転してクールになる歌配信。
もう、聴くことはできないのだ。
すべてが過去のものになってしまう。
世界は二回目の大航海時代。
そして史上最大のバーチャル配信者時代だった。
静奈は友人の宅へとお邪魔している。
部屋に入る前に、消毒剤を含んだスプレーを両側の壁から吹き付けられる。もうもうと舞い上がる白煙に顔をしかめる。
しばらく経つと、扉の上に「入室可能」の赤い文字が点灯する。
ロックの外れる音がした。
静奈が扉をスライドさせると、白色が目立つ部屋が姿を現した。いくつかの機器と真っ白な布団が敷かれた大きめのベッドが置かれていた。
「玲、どうしよう。推しが引退した」
ベッドには静奈の友人である
「病人を前にして最初に出てくる言葉がそれなのか」
「いつものことだからもう慣れたよ」
玲は呆れたように、読んでいた本から顔を上げる。呆れの中に、安堵したような笑顔が浮かんでいた。額の左側三分の一が、火傷の跡に覆われていた。
「辛い工場勤務も、嫌みな監督も、安い賃金も、全部無血ちゃんがいてくれたから頑張れたのに……」
だんだんと声量が小さくなっていく静奈を見て、玲は呆れたように息を吐く。予想できたことだ、と表情で伝えていた。玲はベッドの近くに置かれた椅子を指差す。座れと無言で伝えていた。
「疲れたんだろう。配信者なんて大変な職業、ずっと続けていられることのほうが不思議なんだ。艦営のVが当たり前のこの時代に個人のVが生き残ることがどれだけ大変なのか、君のほうが詳しいはずだ」
玲の病衣から覗く細い左腕には点滴が繋がっており、その後ろには大小様々な機器が置かれていた。玲のバイタルが安定していることを示しているようだったが、静奈が見てもよく分からなかった。
「玲も結構観てたじゃん。悲しくないの?」
言いながら玲の目の前に端末の画面を近づける。玲は目を細める。
「近いな、もう少し離してもらえないか。ただでさえ身体のあちこちが壊れているんだ。これで目も悪くなったら何も残らない」
きつい内容のジョークだったが、本人はさっぱりとした笑みを浮かべていた。
玲の身体についての話題は、深刻には取り扱わない。それが二人の間の暗黙の了解だった。
端末の画面にはバーチャル配信者の勧善無血が引退を表明したことを示すネットニュースが表示されている。
完全無欠は一年前から動画サイトで活動を始めたバーチャル配信者だ。バーチャル配信者とは、二次元のキャラクターを自分の見た目とし、そのキャラクターになりきって配信をする人たちを総称する言葉だ。略してVと呼ばれることが一般的だ。動画サイトのサーバーは超大型居住艦『東京』の内部にあり、世界中の艦民のコミュニティによって管理されている。
勧善無血は兵庫出身だと自称している。兵庫から東京へと渡り、そこで見事成功した人物だ。歌やトークはもちろん、お悩み相談や自己啓発まで様々な配信を行い、人気を獲得していた。
完全無欠の配信によって東京を夢見る若者が増えるようになった。いわゆる「東京ドリーム」は船全体の活動を活性化させたが、同時に船外への人材の流出も問題となった。
「見てこれ。『他艦からの圧力か?』なんて言われてる。確かに東京指向を目指す若者が増えるのは、地方艦にとっては厄介だもんね。特に兵庫からの人材流出が多いらしいし。もしかして兵庫の艦庁が……?」
途中で静奈の口に玲の指が添えられる。玲が身を乗り出して静奈の耳元に口を寄せた。静奈の言葉が止まる。
玲との物理的な距離が一気に縮まる。
「あまり憶測でものを語らないほうがいい。どこで誰が聞いているか分からないだろう?」
玲の布団の上には『一九八四年』と書かれた文庫本が置かれていた。
「あり得ないって思ってる?」
玲は元の位置に戻った。
「あり得なくはない。可能性はあるし、本当にそうかもしれない。だが、事実だったとしてもそうじゃなかったとしても、君は下手な発言をするべきではない」
玲は慎重だ。いつも悪いことが起こる可能性から検討する。玲は高校を卒業してすぐ半艦営の居住艦整備会社に就職した。だが十七歳の時に、事故で玲は高所から転落してしまった。さらに悪いことに、配管から漏れた有害な溶剤を額に浴びてしまった。現場の監督の不手際が原因だった。
事故以来ずっと、整備会社と艦から支払われる医療費によって日々の生活を維持している。
静奈は納得して姿勢を正す。
「もしもの話をしてもいいかな」
「構わないよ」
「もし、私が、勧善無血を探しに東京へ行くって言ったらどうする?」
「頭を打ってしまったのか、かわいそうに。どうだ、私の隣で寝るかい?」
玲は心配そうな目を向けて、自分が寝ているすぐ横を軽く叩いた。
「冗談、冗談だって。また今度隣で寝かせてよ」
しばらく苦笑した後、玲は真剣な表情で静奈と向き合った。
「その顔は冗談を言うときの顔じゃない」
「私が病気で入院していたとき、励ましてくれた人が二人いるんだよ。一人は完全無欠ちゃん。毎日配信を続けて、一日も絶やすことなく私を励ましてくれた。グッズもたくさん買った。応援のコメントも毎日のように送ってたし、投げ銭もした。これまでの配信は全部録画してる。自分用の切り抜き動画は沢山持ってる」
「何回か聞いたことがある」
「もう一人は玲。病室に迷い込んできた私を受け入れてくれた。十四歳で何もかもが不安だった私に、面白い話を沢山聞かせてくれた」
「分かった、分かった。それはもっと聞いた」
恥ずかしくて聞いていられないようだった。
「で、何が言いたい?」
「玲には東京のお土産を持ってきてあげたいと思ってるんだ。あ、聞かないでね。届けてからのお楽しみだから」
かつて鉄道や高速道路によって日本中が繋がっていた。だが現在はあらゆる都市が世界の海に散らばっている。
移動手段は空と海だけだ。そもそも他の艦に移動しようという人間がほとんどいない。居住艦は互いに移動し続けており、自分の望むタイミングで行ったり来たりすることが出来ない。
居住艦同士の間を行き来する航空機は確かに存在するが、航空機は需要が限られているために便は少なく、しかも高価だ。
残るは貨物船だが、こちらは旅行客を乗せるための船ではない。
さらに、航空会社と海運会社は「人は空、貨物は海」という契約を交わして競合することを避けているため、特別に乗せて貰うこともできない。
「東京へはどうやって行くつもりだ。飛行機は高いぞ」
「それはこれから考える。全部これから考えるよ。何か埒が開いたら連絡するね」
何か言いたそうにしている玲の額に静奈はキスを落とした。その後の反応を見ることなく、静奈は部屋を出る。退室時のスプレーは必要ないようだった。
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