第24話 一人の人間

 十月のある日曜日、夏樹は茉莉香の実家を訪れた。

 駅まで迎えに来た茉莉香と共に道を歩く。

 

 この辺りは、先祖から譲り受けた土地に、家屋敷を構える人々の住む地域だ。

 いわゆる高級住宅街だが、広くは知られていない。


 周囲を見渡す。


 築浅の邸宅の間に、古めかしい日本家屋が点在している。

 どの家も敷地が広く取られ、家と家の間隔が広い。

 自然が残る地域で、駅の周辺でさえ、住居以外の建物はあまり見かけられない。それでいて目立たぬ路地に、洒落たレストランがひっそりと建っている。


(今どきこんなところがあるんだな)


 訪れるたびに思う。



 「この辺の人たちは、買い物はどうしているの?」 以前、茉莉香に聞いたことがある。

 「近くに、もうひとつ鉄道の路線が通っていて、そちらの方は賑やかなのよ」と、答えが返ってきた。


 それでも、こちらの方が格式は高いだろうと夏樹はふんだ。



「こっちから行きましょう。近道よ」


 茉莉香に誘われ、脇道へ入っていく。

 緑の生垣が続く小道を抜けたところに、茉莉香の家があった。


「十年前、祖父が亡くなった時に建て替えたの」


 斜面の緩やかな屋根が組み合わされた、二階建ての家。

 出窓にはカーテンがかけられている。その中ひとつが茉莉香の部屋なのだ。


「いらっしゃい」


 茉莉香の母親に迎えられる。



 居間のソファーでは、すでに人が座って待っている。

 茉莉香の父親 浅見耕平あさみこうへいだ。

 丁寧にアイロンがかけられた、白いシャツが眩しい。

 品格のある態度。責任を背負い果たしてきた人間の姿が、そこにあった。


「よく来たね」


 そう言って、夏樹に自分の前に座るように勧めた。

 今までの茉莉香への対応から連想される人物像とは、大きく印象が違う。

 初めてパリで一瞥した時の、紳士的で穏やかな人間がそこにいた。


 茉莉香の母親が、テーブルの上にお茶を置き、夏樹が礼を言う。


「今日は……お願いに参りました」


 父親は黙っている。

 母娘がこちらを不安そうに見守っている。

 茉莉香は母親に似たのだろう。若々しく、茉莉香と二人並ぶと、“姉妹のようだ“ と、言っても、それほど大げさなお世辞にはならないほどだ。


「茉莉香さんと、お付き合いをさせて頂きたいのです」


 正式にとか、結婚を前提にという言葉は口にできない。

 だが、まず自分の存在を認めてもらいたいのだ。


 耕平は黙したままだ。


 だが、やがて……


「君は偉いね。努力家だ」


 と、言った。


「……」

 

 鼓動が高まり、息が詰まりそうだ。

 無理もない。

 自分は、今、値踏みをされているのだから。


「それで……卒業はしたのかい?」


 冷静な口調で尋ねられる。

 責める様子もないが、かといって、容認する素振りも見せない。

 あくまでも中立の立場をとり、判断を保留にするということだろう。


 今まで、何度も人からジャッジを下される場面があった。

 だが、今、この時ほど緊張したことがあるだろうか?


「いいえ」


 まだ四年生だ。卒業には間がある。


「まだ卒業していないんだね?」


「はい」


 そう答える以外に出来ることはない。


 そして、


「日本で建築士の資格を取ると聞いているが、試験は合格したのかい?」


「いいえ」


 試験に合格するも何も、自分には、まだ受験資格はないのだ。

 まずは、卒業しなくてはならない。


「まだなんだね?」


「はい」


 父親は質問を続けた。


「留学すると聞いているが、もう許可が下りたのかい?」


「いいえ」


 まだ申請中なのだ。

 感触は悪くないが、正式には決定していない。


「まだ決まっていないのかい? それではフランスの資格もまだとれないね」


「はい」


 穏やかで落ち着いた口調だ。


「仕事は? どこかあてがあるのかい?」


「いいえ」


 これから留学しようというのだ。

 仕事などあるはずもない。


「仕事もないのだね?」


「はい」


 “はい” 

 

 “いいえ” 

 

 それだけを繰り返す。


 他に何もできることがないのだ。


 夏樹は、自分の無力さを深く感じた。


「そうか……」


 と、だけ言って、父親はため息をついた。


「つまり……今の君には、何一つ確実なものはないんだね。卒業もしていない。資格もない。仕事もない……」


 ついでに言うと、借金がある。


 だからこそ、茉莉香に約束ができなかったのだ。


「……」


 夏樹は言葉もなくうつむいた。

 茉莉香と彼女の母親が、はらはらした様子でこちらを見守っている。


「それじゃあ、認めるだの、許可だのはできないな」


 耕平は、夏樹にとって絶望的な言葉をさらりと言った。


「……」


 口にできる言葉がない。


 その時、質問者の口調が少し打ち解けたものに変わった。


「だが……茉莉香もすでに成人だ。君もね。二人が会うことは止めたりはしないよ」


「!」


 夏樹が顔を勢いよく上げると、母娘が色めき立つ。


「節度ある付き合いを心掛けてくれないかな? 意味はわかるよね?」


 初めて笑顔を向けられる。


「よかったわね! 夏樹さん!」


 茉莉香が無邪気に喜び、母親も同様だ。


 認められたと受け取っていいものだろうか?

 耕平の笑顔の真意を探ろうとする。



「北山君」

 

 名前を呼ばれる。

 

「……まあ、正式にというならば、それらがすべてすんでからだね。資格を取り、仕事を得てから……。私は当然のことだと思うが、君はどうだい?」



「はい!」


「いろいろと失礼な質問をしてしまったことを許してほしい」

 

 耕平が丁寧に頭を下げた。


 責務を果たした、品格のある態度。良識を持ち、それを実践してきた人物。

 それは、一瞥しただけでわかるものなのだ。

 パリで初めて会った日から、見も知らぬ彼に憧れてきたのかもしれない。

 そして、自分を一人の人間として認めてもらいたいのではないか。

 だからこそ、これほどの緊張を強いられたのだ。


「夏樹さん!」


 茉莉香が笑顔で呼びかけられる。

 夏樹も、それに笑顔でこたえた。



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