第25話 marica

 茉莉香は大学卒業後、大学院に進学し、日本で夏樹を待つことにした。

 自身も、自分の道を歩む努力をしなくてはならない。


 そんな茉莉香に新しい仕事が加わった。

 義孝にフランス語を教えることだ。

 les quatre saisonsの終業後、亘が事務仕事や在庫のチェックで店に残る日。教える日は不定期だ。

 語学留学をしたあと、本格的にフランスの大学に入学するという。


「ママにはまだ内緒なんだ」


 義孝が緊張した面持ちで言う。

 さすがの義孝も玲子が怖いらしい。

 茉莉香には、その気持ちが痛いほど理解できた。


「大丈夫よ。義孝君が真剣に考えていることを伝えれば……」


 玲子が義孝の願いを受け入れてくれることを願わずにはいられない。


 義孝は優秀な生徒だった。


(私が教える必要はないんじゃないかしら?)


 だが、義孝に、


「茉莉香の教え方はわかりやすくていいな♪」


 そう言われると悪い気はしない。


 それに……。

 亘の下で教養を身に着けた義孝は、最高の話し相手だった。

 以前のような、ちぐはぐさは、今や見られない。

 知性と情緒がバランスよく織りなし、茉莉香の知らないことは、わかりやすく話す。

 年下でありながら、茉莉香が刺激を受けることも多かった。


(これならば、いますぐ海外にいっても十分勉強についていけるんじゃないかしら?)



 ……しかも……母親譲りだろうか?


 モデルのようなスラリとした肢体から繰りだされる洗練された仕草。

 浅黒い肌に、彫りの深い顔立ち、笑顔からこぼれる白い歯。知性溢れる話術。

 渡欧すれば、どこぞのアジアの王族ル プランスに間違われるかもしれない。


 ふと、義孝が、

 

 “外国で仕事をするかもしれない”


 と、言っていた言葉が思い出される。


 気になるのは……。

 夏樹にその話をしたときに、あまり良い顔をしなかったことだ。


(亘さんのところで一緒に勉強していて何かあったのかしら?)


 だが、考え直す。


(気のせいだわ)


 義孝は中学生。

 子ども相手に大人げない態度をとるなど、考えられない。


(それに……)


 留学期間が重なれば、きっと義孝に気を配ってくれるはずだ。

 

 茉莉香と義孝のフランス語の授業は続けられた。


 





 年が明け三月になり、夏樹は大学を卒業した。

 パリの大学への修士留学も決まり、樋渡の事務所で働きながら、日本の建築士の筆記試験を受験した。


 そして、八月が終わろうとするある午後、夏樹と茉莉香は由里の家へ招待された。


「いらっしゃい。亘さんも来ているのよ」


 二人が招き入れられた居間では、すでに亘がソファーで待っていた。

 由里がその隣に座り、茉莉香と夏樹が並んで、その向かいに座った。

 


「夏樹クンは、もうすぐ出発ね」


「はい」


「建築士の筆記試験は?」


「合格しました。でも、秋に実技試験があるので、一時帰国しなくちゃいけないんです」


「それは大変ね。体に気をつけてね」


「ありがとうございます」


「じゃあ、私はお茶を淹れてくるから。待っていてね」


 由里が席を立った。


「茉莉香ちゃんは大学院へ?」


 亘が尋ねる。


「はい。もっと勉強しようと思って」


「いいことだと思うよ。知識が多いほど、翻訳には役に立つはずだからね」


「ありがとうございます」


 由里がポットとカップを持って戻ってくると、三人の目の前でお茶を淹れ始めた。

 こぽこぽと音を立て、茶がカップを満たしていく。

 湯気が周りをほんのりと温かくし、心が和むようだ。


 水色は深い赤色せきしょくで、で水面が微かに揺れている。

 茉莉香は由里が茶を入れ終わるのを見守った。

 楽しく、待ち遠しい時間が過ぎていく。


「どうぞ。召し上がれ」


「いただきます」


 三人が口を付けた瞬間、


「あれ?」


 最初に声をあげたのは、夏樹だった。


「初めて飲む味ですね」


 亘がそれに続く。


「はじめに柑橘の香りがして……」


 夏樹が言うと、


「しばらくして、フローラルの香りが……」


 茉莉香が言う。


「ベースの茶葉は、渋みが少なくて軽やかですね」


 亘が言った。


 淹れた直後は、柑橘の爽やかな香りが立ち、やがて花香が薄っすらと現れる。

 二つの芳香は時間が経つにつれ混ざり合い、最後は花の香りに移り変わるのだ。

 茶葉の味は軽やかで癖がない。香りを損なうことなく、見事調和している。



 感想を交換しあう三人を由里が笑顔で見つめている。


「三人ともさすがね。これは新しいお茶なの。主人が開発したのよ。こんどパリでles quatre saisonsが開店するから。フランスではね。香水のようなフレーバーティーが人気なのよ」


「まぁ!」


 茉莉香が感嘆の声をあげると、


「どうりで前川さんが忙しいはずだ」


 亘が納得したように言う。

 前川氏は、新しい茶葉の開発のために奔走していたのだ。


「つい最近聞いたのよ。もっと早くに言ってくれればいいのに。心配して損しちゃったわ」


 由里は不満を口にするが、表情は幸せそうに見える。


「でも、このお花の香りは何かしら?」


 茉莉香は確かめながら、ゆっくりと飲んだ。


「ふふ」


 由里が微笑みながら、


茉莉香ジャスミンよ」


「まぁ!」


 自分と同じ名前なのだ。

 驚かずにはいられない。


「若い女性が変わっていく様子をイメージして作ったの。爽やかな柑橘の香りから、優美な花の香りに変化するの。茉莉香ちゃんみたいに」


「まぁ……」


「だからね。このお茶の名前は、“maricaマリカ“って言うのよ」


 茉莉香は喜びを表す言葉が見つからなかった。

 そっと夏樹の手をとると、それは優しく握り返された。


 楚々とした芳香。

 上品な余韻を残す香りは、女性が成熟し、花開く姿を思い起こさせる。


「フランス支店開店と同時に売り出すのだけれど、今日は特別よ。夏樹クン。パリに行っても、les quatre saisonsはあるし、このお茶を買うこともできるの。頑張ってお勉強して、早く茉莉香ちゃんを迎えに来てね」


「はい!」


 夏樹が力強く頷くと、茉莉香は目の奥が熱くなるのを感じた。











 ………………………………………………………………………………

 第三章は今回で終わります。


 今回は、茉莉香の留学生活を中心に描いてみました。

 茉莉香の進路にとって、充実したものとなり、

 夏樹との絆も深まりました。


 これから、二人の夢は、恋はどうなるのか?


 お楽しみにしていただければ、幸いに思います。

 お待ちしておりますので、お時間のある時に

 お立ち寄りください。

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