第23話 決意
新学期の始まる直前に、茉莉香と沙也加はパリを発とうとしていた。
夏樹はすでに帰国している。
「お嬢様方のお世話をできて光栄でした」
シャルロットがバラ色の頬を輝かせて言う。
「こちらこそ、すっかりお世話になってしまって」
感謝の気持ちを込めて礼を言う茉莉香に、沙也加がそっと耳元で囁く。
「あの分だと、たぶんパパから特別ボーナスが出ているわよ」
何に対するボーナスなのだろう?
茉莉香は深く考えないことにした。
シャルロットに見送られ、アパートを出ようとすると、青山の車にのったクロエが待っていた。
「空港まで送るわ」
四人は空港に着くと、カフェでお茶をしながらパリ滞在での思い出話をする。
クロエは茉莉香にとって遠い憧れの存在だ。
こんな時間が持てるなんて、ここを訪れるまでは予想さえしないことだった。
二度と会えないかもしれない。
この時間がいっそう貴重に思える。
やがて、クロエがためらった後、質問をしてきた。
「ねぇ。茉莉香……こんなこと聞いてごめんなさい。あなたは昔、何かつらいことがあったの?」
「……」
とっさの質問に茉莉香が戸惑い、沙也加がそれを気遣う表情をする。
「……そっか……それを乗り越えたのね?」
「ええ」
落ち着きを取り戻した茉莉香が静かに答える。
「あなたを見ていると、私も希望が持てるわ。きっと時間が解決してくれるって思えるの。――それに、あなたは彼と出会えたし……」
クロエが笑うと、茉莉香が顔を赤らめた。
「私は当分仕事に専念するわ。編集者から新作を書けって催促されているの。恋はおあずけね」
「そんな……」
言いかけて、茉莉香言葉を吞み込んだ。
クロエは魅力的な女性だ。遠からず出会いがあるだろう。
自分が慰めるなど、おこがましいというものだ。
そんな茉莉香を見て、
「やっぱり、あなたは素敵ね。茉莉香」
と、言った。
「今度は、あなたのように、素直に自分の気持ちを伝えるわ」
はにかんだように笑う。
仄かな光を放つ柔らかな微笑み。
茉莉香は、はじめてクロエの素顔を見たような気がした。
目が合い、ほほ笑みあう。
言葉はないが心は通じ合っている。
そんな気がした。
「あ、大変! もう。行かなくちゃ」
瞬く間に時間が過ぎていく。
二人が席を立つと、
「じゃあ」
クロエが別れの挨拶をする。
茉莉香と沙也加が搭乗口に向かって歩き始めたとき、背後から声がした。
「茉莉香……」
呼びかけに振り返ると、
「待っているから」
クロエが口元に軽く笑みを浮かべている。
それは、茉莉香のよく知る、作家クロエ・ミシェーレの顔だった。
何のことかしら……
クロエの言葉が茉莉香の心に沁み込んでいく。
新学期が始まり、茉莉香の日常が戻ってきた。
学校へ行き、les quatre saisonsでバイトをし、翻訳の仕事をする。
夏樹は、修士留学の申請をしている。
感触は良さそうだ。
ある日、茉莉香に荷物が届いた。
「まぁ! クロエの新作だわ!」
送り主は著者本人だ。
本以外には、簡単な挨拶文が添付されているだけだった。
クロエらしいと言えば、らしいが、妙な気もする。
さっそく開いて読みはじめる。
新作は、より深みを増し、斬新さが光るものだった。
彼女は決して現状で満足するような人間ではないのだ。
「……一気に読んじゃったわ……」
ほっと、溜息をつく。
もっとたくさんの日本人に読んでもらいたいと思う。
だが、日本では、未だ版権を取得した出版社が無い。
「私もクロエの小説を翻訳してみたい……でも……」
クロエの作品は、若い女性ファンが多いとはいえ、立派な文芸作品だ。
「私では……」
明らかに実力が足りない。
その時、茉莉香は別れ際の言葉を思い出した。
“待っているわ”
「えっ……?」
まさか……
「でも……」
茉莉香は、無言で送られてきた、贈り物の意味を探ろうとする。
「でも……でも……もしかしたら……いつか……」
努力を重ねれば、そんな日も来るかもしれない。
茉莉香は孤独に過ごした日々に思いを馳せる。
あのとき、自分を慰め、励ましたのは、数々の書物だったのではないか?
それらが困難に耐えさせ、新しい出会いを受け入れる力を与えてくれたのだ。
夏樹をイタリアへ送ったあの日、自分も誰かの力になりたいと思った。
それができるかもしれない。
自分の愛する書物の力で!
クロエ・ミシェーレ。
突如文壇に現れた新星。若き女王。文学界のサラブレッド。
同い年でありながら、その存在は自分とはあまりにもかけ離れている。
瞬いては消えていく明けの明星のように、手の届かないもの。
だがそれは、夜の終わりを告げ、人を光へと導くのだ。
「いいえ! きっと。私が、翻訳するわ!」
茉莉香は、本を抱きしめ、自分に誓った。
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