第21話 オペラ座の夜

 オペラ座に向かう昼下がり、沙也加と茉莉香はファッションチェックに余念がなかった。


「でも、通常の公演ではそれほど着飾らなくてもいいみたいよ」


「そうね。これで良さそうね」


 茉莉香は、ライムグリーンの綿のワンピース。沙也加は水色のスーツだ。


「夏樹さんがお見えになりました」


 シャルロットが声をかける。


「やぁ!」


 居間で三人は顔を合わせた。

 夏樹は、普段のシャツとパンツに、ジャケットを羽織っている。


「あとはクロエね」


 アパートの前に車が止まり、クロエの来訪が告げられた。


「まぁ! 素敵!」


 クロエはネイビーのミディアムドレスを着ている。ジョーゼット生地のドレーブが美しい。


 髪も整え、普段とは別人のようだ。


「まぁ! 二人とも、もっとお洒落しないと!」


「え……でも、ドレスアップしなくても……」


 茉莉香と沙也加が顔を見合わせる。


「それはね。席によるの。今日は正装しないとだめよ」


 そして、夏樹を見ると。


「なに? その恰好! それにスニーカー?」


 汚いものを見るような目だ。


「ジャケットは着てるよ。現場に行くときのやつだよ」


「工事現場とオペラ座を一緒にするなんて……!」


 クロエが呆れて言うと、夏樹が憮然とした。

 茉莉香が二人を見てはらはらとする。


「ちょっと待っていてね」


 クロエが電話を架け、何か用を言いつけている。

 相手は青山のようだ。

 間もなく青山が、大きなトランクを二つ抱えてやって来た。


「突然困りますよ……」


 半ばあきらめたように言う。


 トランクを開けると、ドレスにスーツが現れた。

 

 クロエは、その中の一つを手に取ると、


「沙也加はこれ!」


 クリーム色にグレーの柄が入った膝下丈のドレスを差し出す。

 腰にリボンがついていて、沙也加によく合う可愛らしいデザインだ。


「わぁ! 綺麗な色! 仕立てもすごくいい」


 沙也加は上機嫌だ。


「茉莉香は……これ!」


 色は濃緑色。総レースでミディアム丈。襞が控えめに入ったデザインだ。襟元はリボンタイで、襟元から肩の上部、袖にかけて、肌が微かに透けて見える。


「ちょっと透けているわ……」


 茉莉香が恥ずかしそうに言う。


「大丈夫よ! 肩だけだから。あと、背中も少しね。それに、茉莉香はそれぐらい着ても似合うわよ。ヒールの靴も用意したわ」

 

「それから〜! 夏樹はこれ!」


 ダークグレーのスーツだ。生地に微かな光沢がある。それに、淡いラベンー色のシャツに、濃紺のネクタイ。


「これ……高そうだな……。それに、こんなの着るの嫌だ!」


 夏樹が抵抗を試みる。


「大丈夫よ。今日だけのレンタルだから。Jeune Ⅴentから今あるのを、持ってこさせたの。それに、正装した茉莉香に恥をかかせないで!」


 了承するしかない。


 それぞれが、着替える為に自室に入って行った。

 夏樹は洗面所で着替えた。


 茉莉香はクロエの用意したドレスに着替えた。

 鏡の中の自分に、思わずため息をつく。

 

(私じゃない見たい!)


 夏樹から贈られた、ネックレスとブレスレットを着け、部屋を出た。


 

「茉莉香ちゃん! すごくよく似合うわ!」


「沙也加ちゃんこそ!」


 互いの姿を見、茉莉香と沙也加が褒め合った。


「茉莉香も沙也加も良く似合うわ! そうだ!茉莉香は、アップにしましょう! 私がやるわ」


 そう言ってクロエは、茉莉香の髪を編み込みでまとめ上げた。

 後ろを緑のリボンで留めてある。


「高く結い上げてもいいけど、茉莉香はこの方が似合うわ」




 ―― 自分に向けられた視線に気づく――



 夏樹だ。




 眩しそうに自分を見つめている。

 時折、彼はこんな視線を茉莉香に向ける。


「あらー! 惚れなおしちゃった? でも、あなたも素敵よ! 思ったよりも似合って安心したわ。もともと顔立ちが端正だものね」


 茉莉香が夏樹を見る。

 上質のダークグレーのスーツを着た夏樹は、初めて会う人のようだ。

 茉莉香は、ハイヒールを履いても、まだ夏樹が自分よりも余裕で背が高いことに気づく。スーツの仕立ての良さが、細身でバランスのよい体格を露わにしている。

 少年のように思っていた夏樹が、ひどく大人に見えた。


「ほら! ぼっとしてないで、エスコート!」


 クロエの言葉を疎ましがりながら、夏樹が渋々腕を差し出すと、茉莉香がそっと細い腕を添えた。


 青山の運転する車で、パリオペラ座ガルニエ宮に向かう。


 パリオペラ座ガルニエ宮は、公募で採用されたガルニエの案により、十九世紀の後半に建設されたネオ・バロック様式の劇場だ。

 

 通常ガルニエ宮ではバレエの公演が主だが、今日のようにオペラが上映されることもある。


 一歩踏み入れれば、大階段、シャンデリア、大広間……。夢の世界が広がる。


「やっぱり正装してきてよかったみたい。確かに元の座席の人たちとは服装が違うわ」


 沙也加が周囲を見渡しながら言う。


 夏樹に手をとられ、観客席につくと、開幕を知らせる鐘が鳴り響いた。


「いよいよ前奏曲よ!」


 沙也加が興奮気味に囁き、茉莉香が頷く。

 気持ちが否応なしに高まるのを感じた。


 舞台は華やかな舞踏会のシーンからはじまる。着飾った上流階級の男女の合唱のあと、ソリストたちが美声を響かせる。


 やがて、歌姫の独唱に観客たちは酔いしれる。

 茉莉香も引き込まれるように舞台を見つめ、聞き惚れていた。

 

 ふと、気づくと、夏樹が自分を見つめている。

 

 恍惚とした表情を見られていたことを恥ずかしく思う。

 


 ソプラノのアリアは、高く澄み、甘く美しい。

 夢の国に迷い込んだように……。







「すごくよかったわね。アリアのところでは涙が出そうだったわ」


 興奮した沙也加が、うっとりとしたように言う。


「近くにいいレストランがあるのよ。そこへ行きましょう」


「賛成!」


 クロエと沙也加はすっかり意気投合していた。




 茉莉香と夏樹は、クロエと沙也加の後ろを歩く。


「こんなに高いヒール初めてだわ」


 歩きづらそうにしていると、夏樹がそっと支える。

 不自由を感じさせない、自然なサポートだ。

 茉莉香は守られているのを感じながら、身をまかせた。


 だが歩みは遅く、次第に前の二人と距離ができ始める。


「素敵だったわね。オペラもだけど、ガルニエ宮も」


「ああ。ガルニエ宮は、歴史主義って言ってね、バロック様式の他に、ローマ式、ルネサンス洋式をも取り入れているんだ」


「それで、あんなに豪華絢爛なのね」


「……まぁ、そうだけどね……」

 

 言葉の歯切れが悪い。


「?」


 満足していないのだろうか? あの素晴らしいガルニエ宮に。


「歴史主義はね、その時代の個性を見失っているって……いうか……。技術は発達しているけど……」


 茉莉香には、夏樹が何を言おうとしているのかがわからない。


「いや……素晴らしい建築物だよ」


 と、夏樹が言い直す。

 


 夏樹はいつも遠くをみている。

 

 


 その瞳は、茉莉香をいつも不安な気持ちにさせる。

 夏樹が手の届かないところに、行ってしまいそうな気がするのだ。


「俺……俺だけの世界を作っていきたい。時代の空気を感じて、新しいものを……この、あらゆる時代が混在するこの街で!」


「夏樹さんだけの……」


 茉莉香が言葉をなぞる。


 夏樹が歩みを止めた。


 

 

 そして、茉莉香を正面から見据えて言った。




「だから、茉莉香ちゃん。待っていて欲しいんだ。フランスで資格をとって、仕事に就くまで……」




「はい!」




 夏樹が具体的な話をしてくれたのは初めてのことだった。

 茉莉香は、胸に熱い喜びが込み上げるのを感じる。

 この思いがあれば、きっと待つことができるはずだ。


 借り物の服を着て、自分たちはここに立っている。

 おとぎ話の夢のように、日が明ければそれは終わる。

 だが、この気持ちだけは真実として残るのだ。


 胸の高鳴りを抑え、静かにうなずく。

 

 夏樹がそっと肩を抱くと、茉莉香は身を寄せた。










「ねぇ。クロエ。こんなところで隠れているなんて……」


 クロエと沙也加は、少し先の曲がり角で、遅れて歩く二人を待ち伏せしていた。


「脅かしてやりましょう」


 クロエがクスクスと笑う。


「そんな……」


 沙也加にはクロエの考えていることが理解できない。

 いつも親切なのに、なぜ、こんなことをするのだろうか?


「だって! 私、他人のキューピットになんかならないわよ。そんなお人よしじゃないの。それにシャルロットを失業させるわけにはいかないでしょ?」


 沙也加は、二人の邪魔をすることが後ろめたかった。

 楽しく食事をすることで機嫌を直して欲しい……。

 そう願うだけだ。

 

 

 

 

 

 

「クロエ……」

 

 沙也加は、いつの間にかクロエの上着の裾を握っていた。

 

「なに? どうかしたの?」

 

「人が……」

 

 沙也加がおずおずと言うと、

 

「ああ。ガルニエ宮から出てきた人ね。きっと上階の席の人たちよ。あそこは出るのに時間がかかるの」

 

 クロエが笑った。

 

 振り返ると、観劇帰りの人の群れが、列をなしてやって来る。

 今夜の舞台について語り合っているのだろうか。

  

 誰もが温かく、満ち足りた顔をしているように見えた。

 

 その流れは仕事帰りの人々と合流し、市の中心へと向かって行った。

 街灯が人々を照らし、暗闇を知らない街へと導いていく。

 

 

 パリの夜は、まだ始まったばかりなのだ。


 







 



 


 






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