第16話 ミントジュレップの憂い

 ある放課後、茉莉香はアパートで、その日の復習をしていると、


「お嬢様。お客様がお見えです」


 シャルロットから来客を告げられる。


「こんにちは。茉莉香。ディナーを一緒にと思って」


 玄関にクロエが立っていた。


「シャルロットさん。茉莉香さんにパリの街を案内してさしあげたいのですが、許可をいただけますか?」


 シャルロットは少し迷っていたが、クロエを信じてもよいと判断したようだ。


「現地に詳しい方がご一緒なら……でも、十一時までに戻ってくださいね。それが守られなければ、茉莉香さんのお父様に連絡します」


「まあ!?」


 茉莉香は、シャルロットが自分の父親とも繋がっていたことに驚いた。

 沙也加の父親と、自分の父親がタックを組んだのだろう。


「わかりました。お約束します」


 クロエがこたえる。

 

 二人は、暮れようとするパリへ繰り出した。


「どこへ?」


「うん。どこかビストロで食事をして、そのあとカクテルバーへ行きましょう。大丈夫。品のいいお店よ」


 クロエが笑った。


「それにしても……十一時って……日本人ってみんなそうなの?」


「いいえ。……違うと思うわ……」


 茉莉香が恥ずかしそうに言う。


 まずはエッフェル塔近くのビストロへ行く。

 細い路地を突き抜けたところに店はあった。

 

 風情溢れる老舗しにせの店だ。

 フランボワーズレッドのひさしに、壁、窓枠。

 オレンジ色の灯りが、ガラス越しに周囲を照らす。


 テーブルに案内された。


「茉莉香は何が食べたい?」


「今日はお任せします」


「じゃあ、田舎風パテとレンズマメのスープ、子牛のクリーム煮、魚介のフリカッセ……こんなものかしら?」


 注文をすませると、メニューを閉じた。


 料理は、オーソドックスで庶民的な味わいだ。


「美味しいですね!」


「そう言ってくれると嬉しいわ」


 人気があるのだろう。店は満席だ。

 仕事帰りの勤め人、学生、観光客……。

 様々な人々が話し、笑いさざめく。


「ねぇ。茉莉香。あなた、恋人は?」


「……はい……います」


 少しはにかんで答える。


「そのペンダントをくれた人?」


 クロエが茉莉香のエメラルドのペンダントを見ながら言う。


「ええ。どうしてわかったの?」


「そういうものってね、小さいほど自己主張するのよ。とくにそれ、あなたものすごく似合っている。くれた人は、あなたのことをよく知っていて、好きなのね。それに、とても趣味がいい人ね」


「そんなことまでわかってしまうの?」


「私は、作家よ」


 茉莉香が驚く顔を見て、クロエが笑う。


「その人とは、なにか約束を?」


 クロエの言葉に、茉莉香の食事の手が止まった。


「あらら……」


 クロエが申し訳なさそうな顔をする。


「ごめんなさい。余計なこと言ってしまったかしら?」


「いいえ。でも、彼、何も言ってくれなくて……きっと、事情があるんです。それなのに、私ったら……」


「私ったら?」


 クロエは俄然興味を持ったようだ。

 身を乗り出して話を聞こうとする。


「人前で駄々をこねてしまって」


「人前で!?」


 茉莉香は旧古河庭園での騒動を話した。


「まぁ! なんてこと!」


 クロエが声を立てて笑う。

 

 笑って、笑って、椅子から転げ落ちそうになった。

 賑やかな店でもその姿は目立ち、客たちがちらちらとこちらを伺っている。

 茉莉香はどこかに隠れたいような気持になった。


「そんな……笑うなんて」


 あんまりだと思う。


「ごめんなさい。おかしくて……あはは。笑いが止まらない。あはは……」


 クロエはまだ笑っている。

 

 だが、笑いが止まると、静かな、少し考え込むような表情になった。


「クロエ?」


 茉莉香がのぞき込んだ。


「あ、ごめんなさい。なんか、うらやましくて」


「え?」


「あなたは、自分の気持ちを正直に伝えて、彼はそれを受け入れてくれたのよね……」


 茉莉香は、クロエの小説を思い出した。

 小説では主人公ヒロインが、最後まで気持ちを伝えられずに終わっている。

 彼女の悲しみに茉莉香は共感し、涙を流したのだ。

 

 だが、茉莉香がクロエの心情について思い巡らす時間はなかった。


「もう終わった話だわ。そうだ! カクテルバーに行きましょう!」


 と、言って茉莉香を店から連れ出したからだ。



 カクテルバーは一軒目の店から、それほど離れていなかった。

 棚に色鮮やかな酒やグラスが並ぶ。薄暗いが内装は洗練されている。


「素敵なお店ね! 私、こんなところはじめてよ!」


 茉莉香があたりを見回しながら言った。

 自分が急に大人になったような気がする。

 そわそわする気持ちを抑え、勧められた席に落ち着いた素振りで座った。


 客たちがちらちらと見ては、何かささやき合っている。

 クロエが有名人であることを、茉莉香はあらためて知った。


「やぁ! クロエ!」


 通りすがりに、気軽に挨拶をしてくる者もいる。


「はーい! アダム!」


 クロエも挨拶を返す。


 アダムと呼ばれた青年は、彼と同じ年頃の青年たちが座るテーブルに向かう。彼らはすでにどこかで飲んできたようで、かなり酔っていた。


「知り合いなの?」


 茉莉香が、恐る恐る聞く。


「ごめんなさいね。驚かせちゃって。学校の友だちよ」


「そうなの……」


 彼らは酔って悪ふざけをしている。この品のあるバーには不釣り合いに見えた。


「ふっ……」


 クロエが苦笑する。


「どうかしたの?」


 茉莉香はクロエの様子がおかしいことに気づいた。


「うん。あの人たち、しょうもないなって思って」


「?」


「彼らの多くはね、芸術を生活に結びつて考えていないの。ひたすら自分の創作を追求し続けて、その日に食べるものに困っても、気にしないで過ごすの。そして、どうしようもない年齢になってから、生活について真剣に考えるようになるのよ」


 美術学校に通う芸術家の卵たちには、よくある話だと言う。


「そんな……」


 才能ある若者たちの不安定過ぎる現状が、茉莉香にはショックだった。

 

 そして、


「じゃあ、クロエ。あなたは幸せね。もう、人生の目的が見つかったのだもの」


 と、言った。


「私が幸せ? じゃあ、彼らが不幸なの?」


 クロエの皮肉な口調に茉莉香が戸惑う。


「彼らは、自分の好きなように人生を生きているのよ。それのどこが不幸なの?」


「……」


 確かに目の前の彼らは、活気に満ちて幸せそうに見える。

 クロエは何が言いたいのだろうか? 茉莉香は困惑した。


「ごめんなさい。ちょっと変よね。私」


 いつもの口調に戻る。

 

「いいえ。少し疲れているんじゃないかしら?」


 茉莉香が優しく声をかけた。


 クロエがウエイターを呼んだ。


「私はミントジュレップ。この人は……そうね。ピーチフィズがいいかしら?」


「ええ」


 茉莉香は、ここでもクロエに任せることにした。


 ウエイターがガムシロップをとフレッシュミントをグラスに入れ、バースプーンの先で軽くたたいた。


 ミントの爽やかな香りが、夏の暑さを忘れさせる。


 “ミントジュレップ!”


 主人公ヒロインの好きなカクテルだ。

 彼女はミントジュレップを愛し、様々な場面で飲む。

 デートの時も……。


(小説の一場面を見ているようだわ!)


 クロエの横顔を見ながら、茉莉香はワクワクとした気持ちになる。

 愛読書の好きなシーンが再現されているのだ。


 ふと……恋を失った主人公と、少し前のクロエの不可解な言動が重なった。


 ウエイターがバーボンを注ぎ、クラッシュアイスとソーダを入れながらステアをしている。

 カシャカシャと音を立てて、ミントの葉がグラスの中で踊った。


 最後に山のようにクラッシュアイスを盛り、グラスのふちにミントの葉を飾る。


「お待たせいたしました」


 ウエイターがグラスを置く。

 茉莉香のピーチフィズも間もなくきた。

 どちらも夏に相応しい爽やかなフレーバーだ。


「きれい……」

 

 桃色のグラスに見とれる。


「ふふ。気をとりなしましょう」


 そう言って、クロエがグラスを目の下の辺りにあげた。鮮やかなミントの緑。

 グラスの向こうに、クロエの瞳が見える。

 深い海の底のような藍色。

 見つめられると、引き込まれそうだ。



 ―― カシャリ ――



 クラッシュアイスが溶けて崩れる音がする。

   

 一瞬、藍色の瞳に陰りのようなものを見た気がした。


「乾杯!」


 クロエの声が陽気に響く。


「か……乾杯……!」


 つられるように、茉莉香もグラスを軽く上げた。


(気のせいだったのだわ。機嫌も戻ったみたい)


 いつもと変わらぬクロエに、茉莉香は、ほっと胸をなでおろした。


「ねぇ。聞かせてよ。あなたと彼のこと」


 クロエが微笑みを浮かべて言う。


「初めて出会ったのが、このパリなんです。それで……日本で偶然再会して……」


「まぁ! 旅先で出会うなんて、素敵ね!」


 旅先で一度会っただけに人間に、再び会えるなんて……。

 なんて素晴らしい偶然だろう。

 茉莉香の唇に小さな微笑みが浮かび、声が弾む。


「私がアルバイトしているお店に、彼がお客さんとして来たんです……」


「……そう……偶然……ねぇ……?」


 クロエが興味深げに話を聞き、時折、不思議そうな顔をしては、何かを考え込んでいる。

 作家としての好奇心だろうか?


「彼は、紅茶がとても好きで……特に、ダージリンの春摘みが……若葉のような風味が好きだって……」


 茉莉香は夏樹が春摘を飲む姿を思い浮かべる。

 儚い香気をいつくしむ姿を……。

 慌ただしい日々を送る夏樹が、一瞬見せる表情だ。


「いつも前を向いて生きているんです。私、あの人と一緒だと勇気づけられて……」


(私、喋り過ぎかしら?)


 自分一人が話し続けることを気遣うが、クロエはいつもの笑みを浮かべて聞いている。


 今まで茉莉香は年齢の近い人間と、恋の話をあまりしていないので、クロエとの会話が新鮮に感じられた。



 だが、話はよいことばかりではない。


「約束がないのよね?」


「ええ」


 クロエの問いに茉莉香が答える。


「それで、また留学してしまうのよね」


「ええ」


「離ればなれは辛いわね」


「ええ」


「でも、愛し合っているのよね……」

 

 そして、少し躊躇ためらってから、


「でも、あのメイドは何? 彼女は何を心配しているの?」


「それは……その……」


 茉莉香が口ごもる。


「十一時までに帰れって……もう、あなた二十歳でしょ? いつもそうなの? 恋人と会うときはどうしているの?」


 茉莉香は、すでに二十一で歳ある。


 クロエにはシャルロットの存在が、どうしても気になるらしい。

 当然の疑問だと思う。

 茉莉香は、顔を赤らめて俯いた。


「ええぇぇ!! まさか!!」


 クロエが茉莉香の現状を察し、驚きの声をあげる。


「あの人、いろいろ事情があるんです。それが解決するまでは……たぶん……」


 茉莉香が消え入りそうな声で言うと、


「そう。きっと、それが彼の誠意なのね」


 クロエが慰めるように言った。


「あなたの恋人は大変ね」


 茉莉香は、クロエが旧古河庭園で駄々をこねた話を、蒸し返そうとしているのかと思い、恥ずかしくなった。


 だが、クロエは手を伸ばすと、


  

 そっと茉莉香の髪を触れ、




「あなた、とても綺麗よ。とても。……それなのに……」




 と、言った。


「もう一杯飲まない? 今度は、もっと弱いのにしましょう。私は大切なあなたを時間までに送り届けなくちゃいけないのだから」


 そして、ウエイターに注文をする。


「シンデレラをお願い!」


 ウエイターは笑顔でうなずくと、オレンジをスクイーザーで絞り始めた。

 オレンジジュースとレモンジュース、そしてパインジュースの、三種類のジュースを混ぜ合わせて作ったノンアルコールのカクテルで、グリム童話のシンデレラがイメージされている。

 お酒の飲めない女性も、舞踏会の夢に酔いしれることができる魔法のカクテルだ。


「ありがとう! 私、あなたとこんな風に話せて嬉しいわ」

 

 茉莉香が親しみを込めて言う。


 クロエ・ミシェーレ。

 パリの文壇に突如現れた新星。

 手の届かない憧れの存在。

 

 だが、自分と同い年の若い女性なのだ。


 十一時には戻らなくてはならない。その時は近づいている。

 二人は残された短い時間、静かに語り合った。





 


 


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