第17話 ぬくもり

 茉莉香は、いつものようにシャルロットの用意した朝食を沙也加と食べていた。


  ―― ピンポーン ――


 インターフォンが鳴った。


「あら、お客様です。こんなに朝早く誰かしら」


 シャルロットが玄関へ向かう。

 戻ってきた彼女が連れてきたのは、青山だった。


「浅見さん。あの……クロエが来ませんでしたか?」


 寝ていないのだろうか? 青山の顔には疲労の色がうかがえる。


「いいえ」


 突然の訪問に茉莉香が訝り、沙也加が不安そうに様子を伺っている。


「そうですか……。実は、彼女が姿を消しまして」


「えっ!」


 茉莉香と沙也加が同時に驚きの声をあげた。


「昨日、クロエが原稿を書いている出版社から連絡があって、Jeune Ventに来ていないかって聞かれたんです。今、あっちは大騒ぎですよ」


「まぁ!」


 何かあったのだろうか? 事情はどうあれ心配だ。


「それで……どうも、彼女が最後に会ったのが、浅見さんらしいんですよ」


「!」


 茉莉香は、別れ際の様子を思い起こす。


「何か変わった様子はありませんでしたか?」


「いいえ。特に……楽しくお話をして別れました」


「茉莉香さんのおっしゃる通りです! クロエさんは茉莉香さんをここまで送ってらっしゃいましたが、これといって変わった様子はありませんでしたよ!」


 シャルロットが茉莉香をかばうように、素早く会話に入り込んできた。


「そうかー。じゃあ、いつものあれか……」


「いつもの?」


「ええ。締め切り間際になると 『人に煩わさずに執筆に集中したい!』 って姿をくらますことが……」


「そうなんですか?」


「はい。彼女は現在、小説は書いていませんが、コラムやエッセイの連載を持っていて……でも、今まで原稿を落としたことはないので、いずれ戻ってくるでしょう」


 青山が力なく言う。


 “執筆に集中したい” という気持ちはわかるが、編集者たちの気苦労も十分すぎるほど理解できる。

 初めて青山にあった日に、彼が、“少し変わっている”と、言っていたことを思い出した。


 いずれは戻ってくるだろう。心配はないはずだ。

 クロエが締め切りを落とすとは考えづらい。

 彼女と数回会っただけだが、信頼できる人間であるという確信があった。


 だが、何かが引っかかる。

 もやもやと心に霧がかかったようでスッキリとしない。


「あの……お願いがあるんです……」


 青山が遠慮がちに話し始める。


「なんでしょう?」


 自分に何かできることがあるのだろうか?

 あるのならば、手伝いたいと思う。


「……すみません。浅見さん。しばらく部屋を出ないでくれませんか?」


「なぜ?」


 思いもよらぬ依頼だ。


「彼女がいずれ戻ってくるとしても、何時いつマスコミに嗅ぎつかれるかわかりません。あなたが外出中に彼らに巻き込まれる可能性もがあります。白石さんも。その方が安全です」


 

 “マスコミ”



 苦い記憶が蘇る。

 高校生活最後の一年間。

 彼らを恐れて、家で息をひそめた日々。

 

 動悸が高まり、指先が冷たくなる。


 “フラッシュバック”

 

 そんな言葉を思い出す。


 順調に進む翻訳の仕事、語学留学。そして夏樹との出会い……。

 充実した日々は、辛い過去を忘れさせていた。

 だが、それは、あまりにも容易に自分の前に現れる。

 

 目の前が薄暗くなり、視界が狭くなった。


「茉莉香ちゃん!」


 沙也加が駆け寄ってきた。

 茉莉香を案じている。


 そして、そっと茉莉香の手をとると、


「大丈夫?」


 と、言った。


 柔らかく温かい、沙也加の白い手にくるまれる。

 ふっくらとやさしい沙也加の手のひら。


 指先から沙也加の体温が伝わり、体を巡った後、


 茉莉香の心に流れ込んだ。


「茉莉香ちゃん! 深呼吸!」


「う……うん……」


「こうよ! こう! まずは、息を吸って。すぅーー」


 沙也加の白く丸い頬が膨らんでいく。


(深呼吸って、頬っぺたじゃなくて、肺でするんじゃないかしら……)


 なんだか、滑稽でさえある。


 それでも、言われるがまま、茉莉香はゆっくりと息を吸い込んだ。


「吸ったわね? あとはゆっくり吐いて! 悪いものが出ていくのをイメージしてね!」


 ふぅー……


 ゆっくりと息を吐く。

 沙也加が体の前で、両腕を広げたり閉じたりする。

 自分を思って必死なのだろうが、なんだかユーモラスだ。


「……もう一回……吸ってぇ〜。 今度は、いいものが入ってくるのよ〜」


 すぅーっと息を吸う。


「吐いてぇ〜……悪いものを吐き出すのよ〜」



 沙也加に言われるままに繰り返した。


 鼓動が緩やかになり、呼吸が静かに整っていく。

 

「よかったぁ。顔色がもとに戻ったわ。真っ青だったから……」


「ありがとう。沙也加ちゃん。大丈夫よ」


 そして、ほほ笑むと、沙也加もほっとしたように笑い返した。


 茉莉香は頬を、そっと指で頬を撫でた。

 沙也加のぬくもりが残っている。   


 あの時、マスコミがいじめの件を嗅ぎつけることを恐れていたのは、自分だけではなかったのだ。沙也加も、そして他のクラスメイトたちも……。


(私ったら……。自分のことばかり……)


 申し訳なさとともに、沙也加への感謝が込み上げてくる。




「お嬢様方。この人の言うことを聞かれた方がいいと思います!」


 シャルロットの一言で、茉莉香と沙也加の自宅待機が決まった。





「あー! つまんない!」


 沙也加が呟く。


「ごめんなさい」


「ううん。茉莉香ちゃんのせいじゃないわ。でも、クロエ大丈夫かしら?」


「ええ。青山さんの話の様子では、大丈夫そうね」


 だが、茉莉香の気は晴れなかった。

 クロエのことが頭から離れない。


「お嬢様! アンジェリーナのモンブランを買ってきましたよ!」


「うわぁー! ありがとうシャルロット! ……でも、動かないで食べていると太っちゃいそう……」


「いただきましょう。沙也加ちゃん。あとで、また街を周ればいいわ。それが一番の運動よ」


「そうね!」


 二人は、シャルロットの用意したお茶を飲みながら、おやつを食べた。





 

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