第15話 誰が決めたの?
「ねぇ。そんなに硬くならないで。私たち、同い年なのよ」
茉莉香は、当然クロエに会いたいと思っていたが、沙也加もクロエの小説のファンなので同様だ。しかも、芸術・文化コースを選択しているのだから、今日のことは、千載一遇のチャンスと言えるだろう。
いくら緊張しているとはいえ、このまま黙っているわけにはいかない。
「あのクロエさんは……」
茉莉香が言いかけると、
「クロエでいいわ。私も、茉莉香って呼ぶから」
そして、沙也加の方に向くと。
「あなたもね。沙也加」
輝くような笑顔で言う。
沙也加はその一言で今にも倒れそうだ。
「あ、あの。クロエ。あなたは、エコール・デ・ボザールで美術の勉強をしているのですよね?」
エコール・デ・ボザールは、は十七世紀パリに設立されたフランスの高等美術学校だ。
「ええ」
クロエが親しみ深い笑顔で応える。
魅力的な微笑みだ。
「父は文芸評論家。母は文芸誌の編集長をしているわ。私自身は、子どもの頃から絵を描いていて、コンテストで入賞したことが何回かあるの」
すごい……。
芸術一家の生まれなのだ。
自分とは全然違うのだと、茉莉香は思う。
「では、どういった経緯で小説を書かれたのですか?」
クロエがクスクスと笑い始めた。
「あら、あなた。私の小説読んでいるんでしょ? だったらわからない? 恋よ! 恋!」
「やっぱり、実体験だったと言うのは本当なんですね!」
突如、沙也加が会話に加わってきた。
沙也加は朝からの緊張と、クロエに会った興奮のために、気持ちが高ぶったのだろう。
普段の彼女からは考えられないような、不躾な質問に茉莉香はひやりとした。
「そうよ」
茉莉香は案じたが、クロエが気を悪くした様子は見られない。
彼女はソファーに浅く腰掛けた。話を聞き洩らさまいとするかのように、体を少し前に傾けて、こちらを向いている。笑みを湛え、瞳には親しげな表情が浮かんでいる。
リラックスした姿勢で座り、話しかけやすい雰囲気を醸し出していた。
恐らく、これが普段からの彼女の人の話を聞く態度なのだろう。
「じゃあ……」
茉莉香が口ごもる。
(沙也加ちゃんのことをあれこれ言えないわ)
茉莉香も気になるのだ。
小説では、二人は……。
恋人は最後まで妻を忘れられなかったのだ。
「別れたわ」
戸惑う茉莉香の気持ちを汲み取ったのか、あるいはこのような質問には、すでに慣れているのか、クロエはあっさりと答えた。
「だって、当然よ! 私、その人にとって、一番の存在じゃなきゃ嫌なの!」
その潔い在りように、茉莉香と沙也加が憧憬の眼差しを注いだ。
「かっこいい……」
沙也加が小声でつぶやく。
「私ね。あなたに会えてうれしいわ。茉莉香」
「えっ?」
クロエの言葉には、深い心情がこもっていた。
「あなた。翻訳を一部直したいって言ってきたでしょ?」
「はい」
エッセイに登場する、名前の似た人物二人を、名字と名前で区別するように、編集部を通してクロエから許可をとっていたのだ。
エッセイは、クロエの日常を描いたものだから、同じような名前が複数あったとしても、不思議ではない。
だが変更した方が、読者を混乱させないうえに、文章の魅力を損なうことを防げると判断したのだ。
「フランス人にとっては、耳慣れた名前でも、日本人は戸惑うかもしれないわよね。そういう心配りができて、誠実な人だと思ったの」
「……そんな……」
茉莉香が口ごもると、
「あら? 謙遜? 日本人ってみんなそうなの?」
クロエが面白そうに笑った。
茉莉香と沙也加の緊張感は次第に解け、話が弾む。
「学業と執筆はどうやって両立していますか?」
「新作を発表する予定はありますか? あるならいつ頃ですか? どのような作品ですか?」
「影響を受けた作家や作品はありますか?」
夢見まで見た、憧れのクロエとの対面だ。
聞きたいことは山ほどある。
次から次へと質問が続き、絶えることはない。
クロエの答えは的確で、それでいてユーモアに満ちている。
話術も巧みで、二人の心を惹きつけてやまない。
茉莉香と沙也加は、目の前に現れたスターに夢中になっていた。
一時間ほどたっただろうか……
「すみません。もう、部屋を閉める時間です。休みなんで、いつもより早いんです」
青山がやって来た。
「まぁ、そんな時間が経っていたなんて……。お休みの日にありがとうございました」
クロエと過ごす時間はあまりにも楽しく、つい時の経つのを忘れてしまった。
茉莉香と沙也加が礼を言う。
せっかく会えたのに……
もう別れの時間だ。
後ろ髪を引かれる思いで、茉莉香が部屋を立ち去ろうとすると、
「ねぇ。茉莉香」
クロエに呼び止められ、振り返る。
「連絡先教えてくれない?」
「!」
思いもよらぬ提案だ。
「えっ!?」
「茉莉香がパリにいる間に、もう少しゆっくり話しましょう」
「はい!」
また会えるのだ!
なんという幸運だろう!
茉莉香は、いそいそとスマホを取り出し、クロエと連絡先の交換をした。
「いいなぁ。茉莉香ちゃん。クロエとまた会えるのね。でも、私、一度会えただけでも、幸せだわ」
「あら、沙也加ちゃんだって、また機会があるかもしれないわよ?」
「そうだといいわね」
沙也加が屈託なく笑う。
「それにしても、クロエってかっこいいわね! “私が一番じゃなきゃ嫌!”なんて」
沙也加がうっとりしたように言う。
「……」
「茉莉香ちゃん? どうかした」
沙也加が茉莉香の様子をうかがう。
「ううん。素敵な人よね。クロエ」
クロエは自分が想像していたよりも、はるかに魅力的な女性だった。
王族のような風格を備えながら、自分のように名もない人間の話を熱心に聞こうとする態度。そして細やかな気配り。
すべてが融合した、奥深い人間性の持ち主なのだ。
そんな彼女であるからこそ、あの小説が書けたのだろう。
自分と同い年の女学生。
だが、二人の現状はあまりにもかけ離れている。
――クロエの小説を翻訳したい――
「嫌だわ! 私ったら!」
突拍子もない思いつきに、ぎょっとする。
クロエの小説は格調高い文芸作品だ。
自分の実力では到底及ばない。
ひとり慌てふためく茉莉香を、沙也加が不思議そうに眺めている。
「茉莉香ちゃんどうかした?」
「ううん。ちょっと興奮しちゃった」
我に返った茉莉香が曖昧に笑う。
「うん。わかるわ。私もだから……ねぇ。茉莉香ちゃん。クロエの小説翻訳できるといいわね」
まるで自分の気持ちを言い当てたようだ。沙也加は、どこか人の気持ちに聡いところがある。
だが、沙也加は屈託なく続ける。
「だって、茉莉香ちゃんのエッセイの翻訳。すごく素敵だったもの。作品のイメージにぴったりだったわ」
「ええ。私もそうなればと……。でも、私では無理だわ」
「あら? なぜ? 誰が決めたの?」
「誰って……」
茉莉香は言いかけて、考え込んだ。
そうだ。
誰だろう?
――自分だ――
自分で決めているのだ。
自分で限界を設けて、決めているのだ。
それは、自分の実力を鑑みてのものでもあるが、あるいは、小さなプライドを守るための予防線かもしれない。
(でも……やっぱり)
今の自分では無理だ。
何よりも実力。そして、経験が足りないのだ。
だが、……もし、実力をつけたとしたら? 経験を積んだら?
あるいは、その可能性が生まれるかもしれない。だが、それには厳しい精進が伴う。
心に、迷いと、それを振り払おうとする力が交差する。
「茉莉香ちゃん。今日はシャルロットが、カスレを作ってくれるって言っていたわ」
沙也加の言葉に茉莉香は我に返り、現実に引き戻された。
「まぁ。それは楽しみね。なんだかお腹すいちゃったわ」
カスレは、フランスの代表的な家庭料理のひとつで、白いんげん豆と肉の煮込み料理だ。
緊張感から解放されると、忘れていた空腹感が戻ってきた。
今頃は、シャルロットが二人の夕食を備えているころだろう。
二人は、アパートへの帰路を急いだ。
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