第13話 これから大切な話をしよう-2
由里は夏樹にくるりと向き直ると、耳元でこそこそと話し始めた。
「!」
あまりにもダイレクトな内容に、ぎょっとする。
いきなりやって来て、この話題とは……。
いや、この話をするために乗り込んできたのだ。
前々から気になっていたのだろう。
確かに大切なことだ。その心情は理解できる。
相談した方がいいのかもしれない。
彼女は信用できそうだ。
しばらく考えた後、思い切って答えることにした。
「そうですねぇ。親方の仕事を辞めてから、大学受験までの生活費と、予備校の授業料、それから、大学の学費と生活費……あ、無利子です」
夏樹が言いかけると、
「由里さん!!!!」
事情を察した亘が、血相を変えて止めに入る。
「失礼ですよ!!」
「あら! 何言っているの! 大切な話よ! あなたなんかにわからないわ! 黙ってらっしゃい!」
ピシャリとはねつけた。
そして、夏樹に向き直ると
「それは大変ね」
と、言った。
「はい。国立なのと、あと、給付型の奨学金を受けていますが、厳しいです。ですが、最近、親方に通帳を見せられて……」
「通帳?」
「はい。親方のところでは、一年半くらい働いていたのですけれど、強制的に給料天引きされていたんです」
「どのくらい……?」
夏樹は、そっと由里に耳打ちする。
「まぁ! 結構な金額ね。でも、それじゃ、働いていた頃、生活が大変だったんじゃない?」
「はい。でも、親方が昼飯を食わせてくれていたし、夜も家に呼んでくれることもあって……それほど必要も感じなくて……」
先輩たちの中には、“宵越しの金は持たない” と、言わんばかりに貰った金を、あっという間に使ってしまう者も少なくはなかった。
親方が強制的に給料天引きをしなかったら、自分もそうなっていたかもしれない。ありがたい心遣いだったと思う。
「まぁー! なんていい子なの?」
由里が感極まったように言う。
「でも、奨学金とバイトのお金でカバーできる部分は、限られていて……やっぱり、厳しいですね。これからまた、留学するとしたら……余計に……」
一人前になるのには時間がかかる。独り立ちしても成功するとは限らない。しかも、借金まであるのだ。
由里は頭の中で何かを計算しているようだ。
しばらく考え込んだ後、
「確かにかなりの額ね。でもね、頑張って働けば、返せない金額じゃないわよね? きっとあなたなら返せるはずよ?」
「でも……」
夏樹が言葉に詰まる。
そして、由里は言った。
「どうするの?
茉莉香ちゃんのこと?」
由里が詰め寄る。
目には真剣な光が宿り、もう逃げることはできない。
由里は、自分がここにいることを知って、乗り込んできたのだ。
「そりゃー苦労はするかもしれないけれど、若いときに背負えば、解決する時間はあるのよ。茉莉香ちゃんも働くわ」
由里が諭すように言う。
「でも……茉莉香ちゃんには、負担をかけたくないんです」
お嬢様育ちの茉莉香に、金銭的な苦労をかけたくない。
もし、茉莉香が翻訳の仕事をするのならば、彼女が納得できる仕事をして欲しいと思う。茉莉香が仕事を選べる環境を作ってやりたい。
「まー! なんていい子なの? 大丈夫! les quatre saisonsは、今度パリにもできるし! 茉莉香ちゃんはフランス語が堪能だから、大事な戦力になるわ! 慣れた職場なら負担は少ないはずよ。翻訳の仕事をしながらでもできるわ。私も配慮する。あなたが日本で仕事をするのならば、ここで働けばいいし!」
由里の声は、次第に高く鋭くなる。
「お金は時間をかければ、いつか返せるわ。でも、茉莉香ちゃんを手放せば、もう戻ってこないのよ!」
「由里さん!!」
亘が何とか話をやめさせようとするが、由里はそれを意にもかけない。
義孝までも、表情を強張らせ、固唾を呑んで見守っている。
夏樹が沈黙している。
その時間は長く、いつまでも続くようだった。
家族がいない。そんなことは気にかけたこともない。むしろ気楽だった。
借金。いずれ返せるはずだ。
将来。何とかなるだろう。
自分は今まで気ままに生きてきた。いや、そうせざるを得なかったのだ。
だが、茉莉香と会ってから、自分の境遇が、不利な条件として重くのしかかってくる。
そんな自分に何が言えるのか?
言葉も無く俯く。
だが……
「まずは、フランスで資格をとって、仕事に就いて
……そうしたら……
……申し込みたい」
と、言った。
夏樹が口にできる、精一杯の言葉だった。
それを聞いた由里が、満足そうにうなずく。
そして、今度は母親のように優しく語りかけた。
「その言葉を聞けて安心したわ。いつか茉莉香ちゃんにも言ってあげなさい」
「……はい」
「私もね。主人が二十代で独立したとき、苦労したわ。子どもも小さかったし。……でもね、愛した人が誠実ならば、それも耐えられるの。大丈夫よ。茉莉香ちゃんは、あなたが思っているよりも、ずっとしっかりしているわ」
「はい」
「あなたが誠実な人なのは、わかっているわ。茉莉香ちゃんにも伝わっていると思うの。でもね。言葉が足りない。気持ちや行動だけじゃなくてね、茉莉香ちゃんの心の負担を軽くするためには言葉も必要なの。」
肩の荷が下りたような気がする。
はじめて、自分の気持ちを言葉にすることができたのだ。
由里は、亘と義孝の方へ向き直ると、
「そこの二人! 今日、耳にしたことは、誰にも言っちゃダメよ! 忘れなさい!」
かん口令を敷く。
あっけにとられた亘が、反射的にうなずき、義孝が、
「わかってるよ!」
威勢よく返事をした。
由里がそれを見て、うれしそうにうなずいた。
「さあ! お茶にしましょう!」
お茶の準備を済ませた義孝が、夏樹のそばに近づいてくると、
「お前、すっげーいい奴じゃん!」
と、言って立ち去って行く。
―― 一瞬、――
義孝が少年らしい晴れやかな笑顔を浮かべ、
夏樹はそれを見たような気がした。
やがて、憂いを帯びた大人の微笑みが現れ、
不機嫌な子どもの顔になった。
(なんて口の利き方をするんだ!)
やはり生意気な子どもなのだ。
だが、夏樹は知った。
義孝もまた、茉莉香を慕い案じていたことを……。
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