第11話 あしあと

 茉莉香と、沙也加は語学学校に通い始めた。

 二人にとっては、負担にならない課題だが、やはり真剣に取り組まなくてはならない。

 放課後に、カフェや美術館に立ち寄りはするが、遅くても六時には戻って、シャルロットの作った夕飯を食べることになる。

 

 シャルロットは、パリのいろいろな名店に行っては、美味しいお菓子やパンを用意しておいてくれる。


 二人は復習が終わると、リビングでお茶をしながらそれを食べた。


「これが食べたかったの」


 沙也加がうっとりしながら言う。


「ええ、このパン。このピスタチオの風味がたまわないわ!」


 茉莉香が歓声をあげる。

 パリで行列ができることで知られる人気のパン屋で買ってきたものだ。



「シャルロットが並んで買って置いてくれたのね」


「ええ。感謝しなくちゃ」


 キッチンの棚には、二人の好きそうなパンやお菓子が置いてある。

 ある日は、のカヌレが置かれ、その次の日には、マドレーヌが置いてあった。

 

「これなら、美味しいものを食べに外出する必要はないわね」


 沙也加が満足そうに言う。


「そうね。美術館ぐらいでいいわね」

 

 茉莉香も同意する。


 夕飯も美味しいし、朝ごはんも美味しい。

 朝と夕方だけではなく、お弁当も作ってくれた。

 何を食べても美味しいし、食べ飽きない。


「今日の食事は何かしら?」


 二人は心待ちをするようになる。 


 今朝は、ル・グルニエ・ア・パン・アベスのバゲットが出た。

 

 外食は認められているが、ランチは弁当を持たされるし、その必要は感じられなかった。


 劇場も八月は休業しているし、二人が夜遅くまで外出する理由は見つからない。

 

 学校から帰った二人が、棚にまっすぐ向かう姿を見て、シャルロットが満足げな笑みを浮かべていることを、当人たちは気づく術もなかった。

 

 

 それでも茉莉香と沙也加は、学校の合間にルーブル美術館やオルセー美術館に度々足を運んだ。

 なんといっても、沙也加は芸術関係の仕事に就くつもりなのだ。


 モンマルトルの丘からパリの眺望を楽しみ、カルチェラタンの学生街を歩きながら、本屋をのぞいて歩いた。

 休みの日には、ブローニュの森の散策をする。


 二人は、そんな風に毎日を過ごしていた。




 ある日、茉莉香は


「沙也加ちゃん。今日は、一人で行きたいところがあるの」


 沙也加は一瞬、目をしばたたかせて茉莉香を見たが、


「そっか……そうね。行ってらっしゃい」


 あっさりと受け止め、そして温かく送り出してくれた。


「お夕飯までには戻るんでしょ?」


「ええ」


「今日のおやつは、茉莉香ちゃんが戻ってきてから一緒に……ね」


「ええ」




 沙也加は気の合う楽しい友人だ。

 だが、それだけではない。

 大事な時に気持ちが通じ合うのだ。

 茉莉香は、沙也加のさりげない優しさに感謝する。


 


 人混みを縫うように、茉莉香は足早に歩く。

 目的地はカルチェラタンだ。

 細い小道を抜け、学生で賑わうカフェに入る。

 

 そこで大柄な青年が待っていた。


「お呼び出しして申し訳ございませんでした」


 茉莉香は丁寧に礼を言って、微笑みかけた。


「あ、いいえ……」


 青年は言いかけて、見る見る間に、顔を赤らめていく。

 そして、うつむいて、もじもじとしはじめた。


「どうかしましたか?」


 茉莉香が気遣うと、青年は、


「か、かわいい……」

 

 と、だけ言った。


「まぁ!」


 思わず茉莉香も頬を染める。


 二人は揃って言葉を失ったが、茉莉香はこの内気な青年に好意を持った。

 そして、相手も同様であると直感する。


「はじめまして。浅見茉莉香と申します」


「あ、の……僕は、シモン。シモン・ルメールです」


 大柄な体のせいで体温が高いのだろうか。ひどく汗をかいて、しきりに汗をタオルで拭っている。

 冷房で汗がひくのには、まだ時間がかかりそうだ。

 彼にとっては、難儀しているようだが、茉莉香には微笑ましくさえ見える。


「大丈夫ですか? もう一杯冷たいものを注文してはいかがですか?」


「は、はい……」


 そう言って、シモンと名乗る青年は、ミネラルウォーターを注文した。


(なんだか将太さんに似ているような気がするわ)


 夏樹の幼馴染の顔が思い浮かぶ。

 おとなしく、内気な青年。


 そして考えた。

 

 夏樹は彼のような人物でないと、ぶつかってしまうのかもしれない。


 茉莉香は、夏樹と同級生だったフランス人学生と交際している語学学校の学生から、シモンの連絡先を聞いたのだ。


「夏樹さんがお世話になったみたいで……」


 茉莉香が言うと、


「とんでもない。僕こそ! いじめられていたのを助けられたんだ」


「まぁ! いじめ?」


 大学生のすることだろうか?


「でも、夏樹も大変だったんだ」


 シモンが言いかけて、口ごもるが、茉莉香は自分の勘が当たったことを知った。


 やはり……。

 夏樹は人間関係がうまくいっていなかったのだ。


「でも、彼は負けていなかった。誰よりも熱心に勉強していたよ」


「そうですか」


 夏樹は何も言ってくれなかった。

 いや、言えなかったのだろう。

 自分に心配をかけまいとしていたのだ。


 茉莉香は夏樹の強さと、自分に対する優しさを思う。


「会ってすぐにわかったよ。彼には大切な人がいるって。そういうことって、なんとなくわかるんだよ。言葉にしなくてもね」


 シモンがしどろもどろに言う。


「あなたは、そういうことが分かる人なのね」


 茉莉香が言うと、


「そんな……」


 シモンが照れて頭をかく。


「ありがとう。夏樹さんと一緒にいてくれて。夏樹さんの力になってくれて……」


 この内気な青年が、唯一、気難しい夏樹の友人でいてくれたのだ。

 負けず嫌いの激しい気性。

 学校でも、バイト先でも彼をライバル視する人間は少なくなかったろう。

 

 夏樹自身も警戒心が強く、人に心を開くことが少ない。

 そんな彼が、唯一本音を語れる相手が、シモンだけだったのではないか?


「そんな……彼には、僕なんて必要はないんだ」


 シモンが慌てて言う。


「いいえ。私にはわかります。あなたがいてくれたから、夏樹さんは誰も知り合いのいない国で頑張れたの。だから、本当にありがとうございました」


 茉莉香は深々と頭を下げた。


 誰でも、支えてくれる人間がいなければ生きてはいけない。

 しかも、ここは誰も頼ることのできない異国の地なのだ。



 シモンが照れながら、茉莉香を見る。

 二人は目が合うと、同時に微笑んだ。



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