第9話 兄弟子
「義孝君。年上の人に対してそういう態度はいけないよ」
亘がたしなめる。
「最近落ち着いてきたと思ったのに、今日はおかしいよ」
そして、夏樹の方を向くと、話をはじめる。
「僕の専攻は中世文化で、文学が主だけど、思想も含んでいるんだ。西洋思想の基本はギリシャ哲学なのは知っているよね? 中世よりも前の古代思想だ。専門外だけど、簡単になら説明できるから、そこから始めるよ」
亘は言った。
「本を一冊読むんじゃなくて、著作の一部分を抜粋してテキストにするよ」
「はい……」
「ギリシャ哲学はね、ソクラテスやプラトンの登場が大きな分岐点となるんだ。まずはソクラテスの前の時代から……ざっとだよ。義孝君にとっては、おさらいになってしまうけど、いいよね?」
「はい」
義孝少年が即答する。
夏樹は、義孝が不満を言うことを覚悟したが、意外にも、彼は抵抗することなく容認した。
亘がある学者と、書物の名を告げた。
夏樹も読んだことのある本だ。
「まずは、著作の書かれた時代背景と、著者の経歴からだね……」
古代。人々は、神話を離れ、世界の成り立ちを自ら探ることを試みた。
それは、小アジアの海辺の商業都市を起源とする。
長い……長い旅路の始まりだ。
思想の生まれる背景。経緯。
これにより、著作が時代の要請によって生まれたことが分かる。
そして著者の経歴。
解説は細部にまでわたり、思想家の姿がリアルに浮かび上がる。
それは偉大でありながらも、自分の同じ血と肉と情熱をもち、研究に打ち込んだ一人の人間の姿だった。
夏樹にとって遠い存在であった彼らが、ぐっと接近してくるのを感じる。
そして亘は語る。
誰のために、そして、何のために執筆されたのか。
やがて講義は本題へ入っていく。
テキストを読みながら解説をするのだ。
亘は文章の言葉ひとつひとつを読み解いていく。
作品に忠実な解釈、緻密な分析、それでいて亘ならではの考察があった。
平易な言葉で語りながらも、格調高く、それでいて強い個性を持つ。
(ざっとだなんて……とんでもない!)
夏樹は思わず身震いをした。
ダージリン。
重厚でありながら果実の爽やかさを持つ。
奥行き深く、風味豊かな芳醇な香り。
亘の講義は最高等級の夏摘みを思わせる。
理解したつもりでいたことが、亘の一言一言で壊れていく。
自分は何もわかっていなかったのだ。
今、それを思い知らされる。
亘のことを理解できないと思っていた。それは当然のことだったのだ。
(俺の理解の範疇を超えた人間だったってことだな……)
自分は初めて、亘という人間の片鱗を見たのかもしれない。
(それにしても……これで専門外だからな)
専門を理解するために、付随して得た知識ということだろう。
本業となったら……。
想像すら出来ない、底無しの力量を垣間見る。
亘の講義は平易な言葉で続けられ、初めての夏樹でも、難なく理解できた。
恐らく高度な内容を自分たちのレベルに合わせているのだろう。
いや……。
(自分たち?)
違う。
(俺だ! 俺に合わせているんだ!)
亘は、この場で最もレベルの低い “自分” に合わせている。
隣の少年よりも、自分に向けて配慮がなされているのだ。
亘らしい心配りというところだろう。
少年に目をやると、恐ろしいほど集中している。
目を輝かせ、飢えた狼のように、亘の言葉を喰らい尽くす勢いだ。
少し前までの高慢な態度は微塵もない。
夏樹の視線に気づくと、一瞬、侮ったような笑みを浮かべた。
思わず夏樹も見つめ返し、互いの視線がぶつかり合う。
(こいつのレベルはどれだけなんだ?)
少年の知力を測ろうとするが、出来るはずもない。
「今日は、ここまでにしよう……」
いつの間にか二時間が経っていた。
夏樹は疲れを感じた。
だが、それが心地よい。
少年を見ると、ケロリとした顔をしている。
夏樹の方を向いて、
「疲れた?」
と、言った。
その態度は、明らかに自分を侮っている。
腹立たしい気持ちは表さない。
この場の空気を乱すわけにはいかないのだ。
だが、亘はそれを見逃さなかった。
「義孝君。この人は、やらなくてはいけないことが沢山あるんだ。君みたいに好きなことができる時間が少ないんだよ。この人はね。限られた時間で勉強しているんだよ」
静かにたしなめると、
「すみません」
少年が俊生にも謝罪する。
「ひとまずお茶にしよう。スコーンがあるんだ。食べるよね?」
亘がアッサムティーを淹れてきた。
「ミルクがあるから、必要ならどうぞ」
「僕ミルク!」
少年は、カップにミルクをなみなみと注いでいたが、夏樹の視線に気づくと、気まずそうな顔をした。
少しぐらいなら質問してもいいはずだ。
なにから聞くべきだろうか?
「茉莉香ちゃんと親しいの?」
まずはこの程度からだろう。
「僕が “茉莉香”って呼んでいるのが気になるの?」
答えになっていないことに苛立つが、実際に聞きたいことではある。
「僕なんかよりも、気にしなきゃいけない相手は、他にいるはずだよ。恋人を一年もひとりぼっちにしておいたんだから」
少年が意味ありげに笑う。
茉莉香を置いて留学した自分を責めているのだろうか?
「義孝君! おかしなことを言うんじゃない。どうしたんだい? 今日は、本当に変だよ。北山君も、この子の言うことを気にしちゃいけない。少し思い込みが激しいんだ」
亘も気難しい少年を持て余しているように見える。
少年の言葉に根拠はなさそうだ。
(俺もおとなげないな。こんな子どもの言葉を気にするなんて……)
冷静にならなくてはいけない。相手は子どもなのだ。
だが……。
やはり
何がと言うわけではないが、とにかく癇に障るのだ。
「どうだった?」
亘が夏樹に尋ねる。
表現が適切だろうかと、少し迷ったが、
「面白かったです」
と、言う。
ここまで好奇心を掻き立てられたのは、久しぶりのことだ。
興奮で体が熱くなる。
「“面白かった”か……それは、よかった」
亘が嬉しそうにうなずく。
「あ、今日の講義に使ったテキストをコピーしてもいいですか? 家でも読んでみたいんです」
義孝の侮るような笑みが頭から離れない。
あんな子どもに負けたままでは、
「ああ。そうだね。書斎にコピー機があるから、君が帰るまでに渡すよ。でも、無理はしないほうがいい。少しずつでいいんだ」
「あの……彼は、彼は、ずっと、ここで……」
スコーンを頬張る義孝を横目で見ながら言う。
どう見ても中学生だ。
こんな高度な講義を受け続けていたとは信じがたい。
「うん」
亘がこたえる。
「義孝君はles quatre saisonsでしばらく預かっていたんだ」
ここはいつから託児所になったというのか?
しかも、こんなに大きな、生意気そうな子どもを!
「よかったら、これからもどうかな?」
亘の言葉が、夏樹の思索を破る。
「いいんですか?」
こんな素晴らしい提案を誰が断るだろうか!
「うん。専門的にとはいかないけれど、基本的なものは身に付くと思うよ。あとは自分で時間のあるときに、好きな本を読めばいい。留学まで、まだ一年以上あるし……君ならできるはずだ」
亘の講義は、すべてに通じる基礎中の基礎というところだろう。
「ありがとうございます!」
それにしても……あの少年は何者か?
いずれわかるだろう。
彼はこれから自分の兄弟子となるのだ。
※ ご興味があればご参考までに……。
フランスの高校では哲学が必修科目です。
バカロレア試験にも出題され、中等教育の重要な部分を占めています。
哲学の授業に教科書はなく、講師は、必要な引用文の抜粋だけを配布し、準備した内容を口頭で説明するのが基本的な形です。
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