第8話 がくもんのすすめ

「こんにちは」


 夏樹がles quatre saisonsを訪れるのは、久しぶりだった。


「いらっしゃい。ひさしぶりだね」


「あ、はい……」


 夏樹は卒制の準備、樋渡建築事務所のバイトで多忙だった。


「今日は何にする?」


「タルボ農園のダージリン春摘みをお願いします」


「君は春摘みが好きだね」


「ええ。日本人には人気ですよね」


「うん。風味が少し緑茶に似ているからね」


 夏樹は、店内をぐるりと見回す。

 茉莉香は当然いない。


 自分も忙しいし、茉莉香の事ばかり考えているわけにはいかない。

 だが、こうして懐かしみに来てしまう。

 

「はい。タルボ農園だよ」

 

 亘がカップとポットを置いていく。


(やっぱり美味いな)


 新芽のような香りと、渋みを味わう。


 以前、将太にせがまれて一口飲ませたら、


 「味がしない」

 

 と、不満を言われた。


 味そのものよりも香りや風味を味わうものなのだ。

 しっかりした味の茶を好む者には物足りないだろう。


「まぁ、そこがいいんだけどな。好みじゃなきゃ仕方ない」


 青々しく爽やかな口当たり、口に含んだ瞬間に広がる軽やかさ。

 それは一瞬で消えていくが、記憶の奥深いところに残るのだ。


「人の好き嫌いもそんなものかもしれないな」


 春摘の香りのように、儚く掴みどころのないもの。

 あらわれては、一瞬で正体を隠し、人を突き動かすもの……。


「そう言えば……」


 茉莉香に、自分のどこが好きか聞いたことがなかった。


「聞いてみようか?」


 やめておく方が賢明だろう。

 質問を受け、固まった茉莉香の姿が目に浮かぶ。

 いや、逆に、笑顔で答えを並べ立てられたら、それはそれで、いたたまれない。


 夏樹はあることに気づいた。


(思考が堂々巡りをしている)


 人の好き嫌いを慮るなど無駄なことだ。

 世の中は、そんなもので回っているわけではない。


 退屈なせいだろう。

 茉莉香もいないし、することもない。

 

 時間を持て余した夏樹は、今まで気になっていたことを、亘に質問してみようかという気になる。


 そして、それを実行した。


「岸田さん。岸田さんの専門って、実際のところ何なんですか?」


「中世文化……だね」


 不躾な質問をした自覚はあった。

 だが、意外にも、答えはあっさりと返ってきた。

 

(よくわからない人だな。よほど人間ができているのか、あるいは鈍感なのか……)

 

 一瞬拍子抜けしたが、態勢を整え、さらに質問を続ける。


「西洋の?」


「うん。メインは文学だけど、思想も含まれるね……」


(西洋思想か……)

 

 亘の言葉に、夏樹は考え込んだ。


「どうかした?」


 亘が様子を伺っている。

 

「あ……いえ。俺、一年間留学していたじゃないですか。その……西洋思想について、少しは知識があった方がいいと思って、自分でも、いろいろ読んでみたんですけどね……」


「どうだった?」


「言い回しが独特で……それに、当たり前のことを言っているように感じられました」


 それを生業にする人間に対し、失礼な物言いだと思うが、ひとまずは率直に言ってみる。


「はは。そんなものだよ」


 亘が、笑いながら言う。

 そのような反応は、慣れていると言う様子だ。


 目の前の亘は悠然と構えている。

 表面的な態度だけではないだろう。彼はいつも変わらない。いつも穏やかで、親切だ。

 押しつけがましいところがなく、気が付くと、いつの間にか手を差し伸べてくれる。

 彼の好意は、いつも負担を感じることがなく、自然に受けることができた。


 ただ、なぜ、赤の他人である自分たちの力になってくれるのか?

 それは理解できずにいる。


「確かにね。でも、君が当たり前と思っていることも、先人たちが築いたものであるかもしれないんだよ」


「へぇ……そういうものですか」


(この人とこんな風に話すのは初めてだな)

 

 夏樹は、亘と深い話をすることを避けてきた。

 良い人間であることには間違いなさそうだが、得体のしれない部分があり、そこに触れてはいけないような気がしていたからだ。


「君の言う通り、言い回しは独特だね。知識がないと本を読みこなすのは難しいだろう」


 亘が穏やかに言う。


「そう言えば、建築家は、いろいろな知識が必要だって聞くね。芸術や美術や、哲学も……」


「はい」


 夏樹が常々、恩師や同胞から言われてきたことだ。

 形有るもの建築のために、形無いもの思想の力を借りなくてはならないとは、面倒なことだと思う。

 それでも、自分なりにその手の本を読んでみたが、結果は芳しくなかった。

 一応、理解をしたつもりだが、


(で? だから、どうだというのだ?)


 と、いうのが正直な感想だ。

 何の役に立つかが、さっぱりわからない。

 

 亘は少し考えた後、


「じゃあ、今度、勉強会に来るかい?」


 と、言った。


「勉強会?」


 何事か? と、夏樹は思う。


「そんな大げさなものじゃないんだ。生徒は一人で、そこに君が加わるだけだ。話を聞くだけだよ。試しにどうかい?」


 亘の言葉に、夏樹が考え込む。


(……本当に気軽に行ってもいいものだろうか?)


 やはり、亘という人間は理解できない。

 浮世離れしていて、掴みどころがない人物に見える。

 深い教養があることは間違いないだろう。

 育ちがよく、人柄もよい。温厚で辛抱強い性格のようだ。

 茉莉香が信頼し、慕うのも当然だろう。半面、由里が、時折、邪険な態度をとることも理解できなくもない。

 

 何を考えているかわからない人間に対する、世間の対応とはそんなものだ。

 

 夏樹の心に疑念が忍び寄る。


 亘は屈託ない様子で、話を受けようが、断ろうが、気分を害すことはなさそうだ。


 だが……


 彼からは、何かが学べそうな気がする……。

 根拠はないが、そう思えた。


「よろしくお願いします」


 “試しに” と、言っているのだ。

 嫌なら次から行かなければいい。それだけのことだ。

 それに、もう一人いるという。


 こうして、二人の間に約束がとりつけられた。







 勉強会は、日曜日の les quatre saisonsで行われる。


 夏樹は、入居者用のインターホンを鳴らし、亘の案内で店内に入った。


 テーブルには、すでに少年がついていた。

 中学生ぐらいだろう。


「義孝君。北山夏樹君だよ。今日は、試しに一緒に勉強するんだ」


 少年が立つと夏樹に向かって、頭を下げた。

 浅黒い肌、目鼻立ちのはっきりとした顔立ち、背がすらりと高い。

 賢そうだが、どこか生意気な感じがする。

 緊張を強いられるタイプだ。


 そして亘は、夏樹に向かうと


「この子は岩下義孝君だよ」


「よろしく……」


 夏樹が、ぼそりと言って頭を下げる。


「北山さんって、茉莉香の彼氏だよね」


 自分を知っている。

 茉莉香と付き合っていることもだ。

 何よりも、なんで茉莉香のことを呼び捨てなんだ!?


 夏樹は問い詰めたいのを、じっと堪える。

 だが、後で、彼が何者かを突き止めると決意した。

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