第5話 留学の準備

 留学の準備は滞りなく進んでいた。

 

 父は喜んで賛成してくれた。

 沙也加が一緒ということもあるだろうが、何よりも行った先に夏樹がいないということが一番だろう。


「何をそんなに心配しているのかしら」


 自分たちは春休みのときも、父の言いつけをきちんと守ったのだ。

 もう少し信用してもらえないだろうか。



 滞在中の宿泊先も決まった。沙也加の父親の会社社員の出張用の宿泊用のアパートだ。


「私も使ったことがあるけど、なかなかいいところよ!」


 沙也加が言う。

 賃料を払うと申し出たところ、提示された金額は適正とは程遠い安価だ。


「悪いわ。沙也加ちゃん」


「いいの。いいの。パパは茉莉香ちゃんが一緒なのが嬉しいの」


 沙也加は臆病で慎重で、決して無理をするような娘ではない。


「お父さんって、みんなこうなのかしら?」


 茉莉香は父の顔を思い浮かべる。

 普段は優しいのに、夏樹の話が出た途端に表情がこわばるのだ。 

 

 とにかく、もっとも頭を悩ます問題の一つが解決したことはありがたい。


「私、パリに行ったら、いろいろな芸術や文化に触れたいわ。バレエに演劇にオペラに美術館!」


 沙也加は歴史芸術文化コースに進んだ。舞台芸術や映画、絵画などの理解を深めるクラスだ。


「茉莉香ちゃんも一緒に行くわよね?」


「ええ!」


 フランスの文化や芸術に触れることは、きっと自分にとってもプラスになるはずだ。


「それから美味しいものもたくさん食べましょうね!」


「ええ!」


 フランス人の生活に触れることもプラスになるはずだ。

 心配なのは……。


「でも、太っちゃうかしら……」


 沙也加が小声で言う。


「大……丈……夫よ……?」


 茉莉香が躊躇いがちに言う。

 この件に関しては、肯定も否定も、励ましすら迂闊うかつにはできない。


「そうよね! もし、太ったら日本で調整するわ」


 沙也加が一人で解決策を見つけてくれたことに、茉莉香は安堵する。


「パリを離れて旅行もしましょう」


「それもいいわ!」


 茉莉香の提案に沙也加が同意する。


「じゃぁ、二人でプランを出し合いましょうね」


 もちろん勉強はきちんとする。だが、今回は時間があるのだ。

 いろいろと楽しむこともできるだろう。

 計画を立てるだけでワクワクする。






「……それにしても……」


 沙也加がため息をまじりに言う。


「夏樹さん。また、留学しちゃうのね」


「ええ。でも、まだ決まっていないし、一年以上先のことよ」


「でも、今度は長いわ。三年よ」


 そして、声を潜めて、


「ついて行くの?」


 と、言った。


「まだ……そんなこと」


 茉莉香が口ごもる。


「それに……その後のことは話し合ったの?」


「……」


 そうだった。

 確かにフランス留学の話はしてくれた。

 だが、その後の話はしていない。

 あの旧古河庭園を訪れた日、聞くことができなかった。


「いろいろと事情がある人だから」


「事情って、“お金” の話でしょ!?」


 沙也加にしては、はっきりとした口ぶりだった。


「う……ん。でも、それだけじゃなく、いろいろあるみたい」


 夏樹は自分とのことを真剣に考えてくれている。

 ……きっと。

 だが、約束の言葉がない以上、不安は拭えない。

 なすすべもなく待つしかないのだろうか?


「でも、きっと、考えてくれているわ」


 茉莉香は笑顔で言った。

 今は信じるしかない。


「そうね。ごめんね。夏樹さんは真面目な人だから、きっと軽々しく言えないのね」


「ううん。いつも心配してくれてありがとう。うれしいわ」


 沙也加の言葉は、忘れようとしている不安を呼び起こす。

 だが同時に、その気遣いが心を温かくするのだ。


「沙也加ちゃん。いつもありがとう」


「ううん。私、茉莉香ちゃんには幸せになって欲しいの」


 二人は互いに微笑みあった。



 


 茉莉香は留学の準備が整ったことを亘に報告をした。


「それはよかったね」


「はい」


 少し躊躇ためらってから、亘に質問をする。

 ずっと気がかりだったことだ。


「亘さんは、翻訳のお仕事もしていたんですよね」


「うん。研究室で助手のころからやっていたよ」


「……それだけではなかったのですよね?」


「他の仕事をやりながらだね。翻訳の仕事だけをしていたわけではないよ」


 翻訳を仕事として成立させることは難しい。この仕事を副業として行っている者は少なくないのだ。

 口に出さなくとも、夏樹は自分のことを考えてくれているだろう。


(私も夏樹さんを助けたい。支えになりたい)


 そんな茉莉香の気持ちを察したように、亘が言った。


「茉莉香ちゃんは、今できることを精一杯するのがいいと思うんだ」


「今のお仕事ですか?」


「うん」


 亘が優しい笑顔を浮かべている。


「まず今は、読者に喜んでもらえること。編集者の信頼を得ることを大切にしよう」


「はい」


「きっと、茉莉香ちゃんはいい仕事ができるようになるよ。だから、今は、仕事をしながら、勉強をして備えよう。先のことは、その時考えればいい」


「はい」


 茉莉香は、亘の言葉が心に静かにしみ込んでくるのを感じた。

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