第6話 晩涼

「私、このサラダ大好きです」


 茉莉香が茹で上がったジャガイモをさいの目に切りながら言う。


 茉莉香は由里の自宅のキッチンにいる。


 梅雨の合間の晴れた夕暮れ。夏の日はまだ明るく、二人は会話をしながら作業をしていた。



「よかったわ。気に入ってくれて」


 由里がサラダ菜、トレヴィス、アンティーブ、トマト、パプリカ、オリーブ、バジル、ツナ、アンチョビをボウルで混ぜ合わせながら笑う。


「だって、これだけでも立派なご馳走ですもの。暑さで食欲のない日も、これならいくらでも食べられます!」


 茉莉香が刻んだジャガイモを、由里の持つボウルに加える。


 二人は、今、ニース風サラダを作っている。“ニース風”の決まった定義はないが、たまごやアンチョビ、ジャガイモなどが加わった、ボリュームのあるサラダとされている。


「サラダにかけるヴィネグレットソースを作るわね」

 

 マスタード、はちみつ、ワインビネガー、バルサミコ酢、白ワイン、オリーブ油を混ぜ合わせ、塩コショウで味を調える。


「味見していいですか?」


 茉莉香がソースの入った器に、スプーンの先を入れる。

 舌に乗せた瞬間。


「美味しい! 爽やかで深みがあって……。酸味に奥行きがありますね!」


 と、声をあげた。


 由里が、バケットを斜めに薄くスライスしながら、


「これにポークリエットやアボガドのディップを塗っていただきましょう」


 と、言った。


 リエットは、フランスの伝統的な保存食で、小さくカットした肉を煮崩れるまで煮込み、容器に入れて保存したものだ。


 今夜は瑞枝の歓迎会だ。由里と茉莉香は、二人でその支度をしている。


「瑞枝さんはいい方ね。茉莉香ちゃんが紹介してくれて助かったわ」


「ええ。仕事も一生懸命覚えてくれて……本当にいい人です」


「洋梨のコンポートを作ってあるの。それと白桃のゼリー。茉莉香ちゃんも杏子のクラフティーを焼いてきてくれたから、デザートは完璧ね」


「母と一緒に焼いたんです。由里さんのお母様に習ったケーキだって言っていました」


 茉莉香の母親は、由里の母親の主催する料理教室に通っている。


「ワインも用意したわ。イタリア産の発泡酒よ。アルコール度数も低くて飲みやすいの」


「まぁ」


 茉莉香が笑う。


「茉莉香ちゃんと、こうやってお料理を作ると楽しいわ」


「私もです!」


 茉莉香の笑顔は屈託がない。


(本当に……)


 茉莉香と過ごす時間は心が休まる。

 娘も大分成長したが、お喋りの相手としては、まだ物足りない。

 ママ友や旧友たちには、何かと気を遣う。


 優しい笑顔、楽しい話題。そして、ちょっとしたユーモア……。

 茉莉香との会話は、ひと時の安らぎをもたらす。 


「茉莉香ちゃんの出発ももうすぐね」


「はい」


 茉莉香が彩りよく盛り付けたサラダに、櫛型くしがたに切ったゆでたまごをトッピングしている。


(それにしても……)


 なんとも危なっかしい二人だと思う。

 茉莉香と夏樹のことだ。


 茉莉香を置いて、夏樹が三年も留学するという。


(長すぎるわ)


 いくら茉莉香が辛抱強くても、三年も約束らしい約束もなく、一人にされるのだ。その心労は察するに余りある。


 もし、夏樹がもう少し器用に振舞えたなら、茉莉香の不安も和らぐのだろうが、彼の誠実さゆえにそれが出来ないのかもしれない。


 余りにも純粋で不器用な二人。それゆえの危うさ。

 由里は危惧せずにはいられない。


 だが、目の前の茉莉香は天からの祝福が降り注いでいるかのように佇んでいる。

 

 約束された祝福。

 

 夏樹を信じているのだろう。


(でも、それじゃ足りないわ誰かの手助けが必要よ!)


 由里は思う。


 茉莉香がバケットを並べたトレーと、サラダにラップをかける。バケットを食卓へ運び、サラダを冷蔵庫に入れた。客が揃うにはまだ間がある。


 冷蔵庫には、チーズ、生ハム、パテを乗せたトレーがあり、コンロの上の鍋には、ホタテと香味野菜のスープが入っている。スープは食べる直前に温め直せばいい。


「そろそろメインディッシュに取り掛かりましょう。“鴨肉のオレンジソース”を作るわよ。お客様が見えるころに完成させたいの」


 今日は、もう一人沙也加を招待している。会の趣旨を考えると、沙也加よりも亘を呼ぶべきだろうが、茉莉香と沙也加の壮行会を兼ねると考えれば、問題はない。



 鴨肉の脂身に切り身を入れて塩を振る。オレンジの薄皮をむき、果肉とジュースに分けた。フライパンにオリーブ油を薄く敷き、皮がカリっとするように肉の両面をゆっくりと焼いていく。

 焼きあがった鴨を取り出したフライパンにグラニュー糖を入れ、煮詰めてカラメル状にする。さらにワインビネガー、オレンジジュースと果肉、白ワイン、フォンドボーを加えて半量になるまで煮詰め、厚切りにした鴨にかける。


「いい香り!」


 鴨の焼ける匂いが香ばしく、オレンジの爽やかさが食欲を誘う。




「こんばんは!」


 インターフォン越しに瑞枝の声が響く。


「あら! 丁度いいタイミングね」


 間もなく沙也加も来るだろう。


「今日は楽しみましょうね」


 由里が言うと、


「はい! 私、瑞枝さんを迎えに行きます」


 茉莉香が足早に玄関へ向かった。


「今日はお招きありがとうございます」


 茉莉香に連れられた瑞枝が、緊張気味に頭を下げる。


「いらっしゃい瑞枝さん。来てくださって嬉しいわ。ゆっくりしていってね」


 外を見ると、夕風が庭の木々を揺らしている。

 間もなく宵闇が訪れ、夏の夜が始まるのだ。


「楽しい夜になりそうだわ」


 由里はひとり呟いた。


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