第4話 プティ・マトレス 

 ある日曜日、茉莉香は瑞絵に仕事の引継ぎを始めた。

 できれば、決められたことをするだけではなく、仕事に興味を持ってもらいたいと思う。


(そこまでお願いするのは行き過ぎかしら……)


 茉莉香は危ぶむが、それは杞憂に終わる。


「紅茶って奥が深いのね! 今まで知らなかったわ! 面白そう!」


 瑞枝は旺盛な好奇心で、知識を深めることを求めた。


「これから説明するけれど、後で読んでおいてくださいね。とても分かりやすく書いてあるの」


 由里の執筆した『あなたと紅茶』と、茉莉香の作成したマニュアルを瑞枝に渡し、話し始める。


「les quatre saisonsでは、ダージリンは最高等級の茶葉をお出ししているの。農園ごとに個性があるけれど、キャッスルトン農園は日本人に人気があるわ。タルボ農園は、イギリスやドイツで好まれているけれど、農園の規模が大きいために、品質が安定しているからお客様におすすめしやすいわ……。マーガレットホープ農園は、バランスがとれた味わいが特徴で、近年人気が急上昇中の茶葉なの」


 茉莉香は、マーガレットホープ農園の名前の由来を話す。

 1930年代、農園主の娘だったマーガレットが結婚のためイギリスに帰国するが、その途中に病気で亡くなってしまう。


 農園主の父はそれを悲しみ、マーガレットの「いつか農園に帰りたい」という希望をこめ、マーガレットホープと名付けたという。


「マーガレットは茶園を離れることを、とても悲しんでいたのですって」


「悲しいお話ね。でも、ドラマチックだわ。“マーガレットマーガレット・の希望ホープ” なんて。素敵な名前。きっと他にもお茶に込められた思いがたくさんあるのでしょうね」


「ええ。現代でも、インドから輸送されるだけでも大変なことよ。たくさんの人の手を経て、遠い国から運ばれてくるの」


 そして、たくさんの思いとともに……。


 les quatre saisonsの茶葉は、社長の前川氏自ら現地へ買い付けにおもむく。その苦労は茉莉香の想像をはるかに超えるに違いない。

 そして、その一部はこのカフェで由里に引き継がれる。現在、店長を亘が担っているが、ここの女主人あるじは変わらずに由里なのだ。


 自分もそれを引き継ぎたい。

 そして、短期間とはいえ、ここで働く瑞枝にも伝えたいのだ。


「初めから詰め込み過ぎても疲れてしまうわよね。まだ、瑞枝さんが働くまでは間があるから……。少し休憩しましょう」


 と、茉莉香が気遣うと、


「ううん! すごく楽しい! それに浅見さんの説明はわかりやすくて面白いわ!」


「まっ!」


 茉莉香が小さく笑う。

 無用な心配だった。瑞枝は熱心にメモをとっている。

 

 茉莉香は話を続けた。


「あと、同じ農園でも、中国種や、品種改良で作られたクローナル種があるの」


 オカイティ農園、フグリ農園、サングマ農園、セリボン農園、リシーハット農園……。

 それぞれの農園の特徴を説明する。



「もし、お客様に “飲みやすいものを” と、言われたら、アッサムやフレーバーティーをおすすめすると無難ね」


「あら?」

 

 瑞枝が不思議そうな顔をする。

 無理もない。これだけ時間をかけてダージリンの魅力を語った後なのだ。


「個性が強いお茶でしょ? 好き嫌いが分かれやすいの。実は、私も苦手なのよ」


 と、笑うと、


「まあ! でも、好みは人それぞれよね」


 瑞枝も笑う。


 ウヴァ、ニルギリ、ヌワラエリヤ、ディンブラ、キャンディ……。

 それぞれの特徴。適した飲み方。

 ストレートに、アイスに、ミルクに……。

 茉莉香の説明を、瑞枝は熱心にメモを取りながら聞いていた。


 これならば、客に質問をされても充分な対応ができるだろう。

 茉莉香は、瑞枝が仕事に深い関心を持っていることを喜んだ。

 自分の都合で仕事を休むのだ。やはり責任感のある者に任せたい。


 危惧していた接客も問題はなかった。

 瑞絵の声は、はしゃぐとアニメ声になるが、それが無ければ美声と言える。

 機転が利く性格で、店の雰囲気をいち早く察知したようだ。


「瑞絵さんは笑顔が素敵だから、無理に明るく振舞わなくても大丈夫ですよ。ここのお店は落ち着いたお客様が多いから、少し抑え気味の方が丁度いいの」


「わかったわ!」

 

 瑞絵が笑顔でこたえる。


「それから、SNSには投稿しないでくださいね。ここは馴染みの方が主流なの」

 

 瑞絵が茉莉香の代わりを務めてくれることで、夏休みの語学留学にも心置きなく行くことができる。

 茉莉香は、ようやく安堵することができた。

 







 

「今日は、ここまでにしましょう。次は、お茶の淹れ方を説明するわ。疲れたでしょ? お茶とお菓子をいただきましょう」


 茉莉香が用意した菓子をつまみながら、二人はお喋りを始めた。

 茉莉香は、他愛もないことで楽しそうに笑っている。


「浅見さんて……」


「えっ?」


 言いかけた言葉を瑞枝は吞み込む。

 目の前の茉莉香は、いつもと変わらない茉莉香だ。


 可愛らしくて、優しくて、シャイで、弱々しくさえ見える。

 風にそよぐ一輪の花のような佇まい。


 だが、引継ぎのときの姿は、さながら小さな女主人プティ・マトレスのようだった。


(どちらが本当の浅見さんなのかしら?)


 じっと見つめると視線が合い、微笑みかけられる。

 そして瑞枝は、お返しのように笑顔を向けるのだった。




 

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