第3話 サテンドールのメイドさん

 茉莉香の翻訳のクラスが本格的に始まった。


 まずは、文法の知識を基礎から徹底的に身につけ直すことから始める。

 このクラスの学生たちは、長年フランス語を学んできた者ばかりだが、さらに磨きをかけるためだ。

 また、語彙力、リーディング力の強化にも励む。


「なんだか、中学生に戻った気分だわ」


 瑞枝がぼそりと言う。

 低い声も可愛らしい。


「でも、初めてフランス語を習った頃を思い出せて懐かしいわ」


 茉莉香が笑う。


「ねぇ。浅見さん。夏休みにパリに語学留学に行くの?」


「ええ。今準備をしているところ」


「いいなぁ。いろいろな経験をすることは、翻訳にはきっと役にたつわ! インプットが大事なのよ。私も、在学中に絶対行くつもり! 交換留学にチャレンジしてみようかしら?」


 交換留学の審査は厳しい。基本的に一つの受け入れ大学に一人の定員だ。

 夏樹がぎりぎりまで留学のことを黙っていたことも仕方のないことだったのかもしれない。


 パリで初めてあった日から、夏樹はすでにパリ行きを決めていたのだろう。

 ずっと先の未来を見つめて努力を重ねていたのだ。


「そうね。駒田さんならきっと交換留学生に選ばれるわ」


 瑞枝の熱意に、茉莉香の気持ちも励まされる。


「やってみるわ!」


 瑞枝も嬉しそうだ。


「じゃあ、準備は万端ね」


「ええ……」


「あら、なにか?」


 茉莉香が表情を曇らせたことに瑞枝が気づいた。


「実は、アルバイトをしているのだけど、私が抜けてしまうと……」


 茉莉香がぽつりと漏らす。


「ええ!? たかがバイトでしょ?」


 瑞枝があきれたように言う。


 だが、茉莉香にとってles quatre saisonsは自分の家のような存在だ。

 亘も米三も快諾してくれた。由里も手伝いに来ると言う。

 だが……。


「うーん。浅見さんて、なんかなぁ……」


 瑞枝がじれったそうに茉莉香を見た。







「おはようございます!」


 les quatre saisonsに出勤した茉莉香が挨拶をする。


「おはよう。茉莉香ちゃん。あれ? お友だちと一緒?」


 亘が瑞枝に目を留める。


「ええ……あの……。私が留学している間ここでアルバイトをしたいって……」


 茉莉香が遠慮がちに言う。


「はじめまして。駒田瑞枝です。よろしくお願いします」


 瑞枝が可愛らしい声で挨拶をする。


「明るいし、礼儀正しくていいなぁ。茉莉香ちゃんのピンチヒッターがいると助かるよ」


 亘がほっとした表情を見せた。


 やはり、自分が抜けることが負担になっていたのだ。亘が、無理をして休暇を許してくれたことがわかる。


 瑞枝は、自分から茉莉香の代わりにバイトをしたいと言ってきたのだ。


「あのね。映画をいろいろ見ていると、お金がかかっちゃうの」


 瑞枝はそう言った。

 レンタルなどを利用して、費用の節約ができないものだろうかと思うが、自分の代わりがいるならば、茉莉香にとっても店にとっても悪い話ではない。


「じゃあ、仕事が始まるまでいろいろ茶葉の勉強をしてくれると助かるな。あ、研修代も払うよ。制服は……新しく作り直した方がいいかな……?」


 亘が遠慮がちに言葉を選んでいる。

 瑞枝は茉莉香よりも小柄で、そして……胸元が豊かだった。


「由里さんの許可をとらなくていはいけないけど、きっと気に入ってくれるよ。制服の話をその時にしよう」


「はい! こんなにたくさん茶葉があるなんて、凄く素敵!」


 瑞枝は棚にずらりと並んだ茶缶を見回す。


「最初は覚えるのが大変だけどね」


 亘が笑った。


「ここの棚にあるのがダージリン。農園ごとに、春摘み、夏摘み、秋摘みってあるんだ。こちらがアッサム。ミルクティーにしても美味しい。……。あ、茉莉香ちゃん。マニュアル持ってきて」


 茉莉香が未希のために作ったマニュアルを持ってきた。


「これは、かなり君の役に立つはずだよ」


 だが、瑞枝は亘が言い終わるか終わらないかのうちに、


「あ、このキャピタル農園の夏摘みと、マーガレットホープ農園の春摘み。グランデール農園の秋摘み五十グラムずつ買って帰ります。……それから……」


「ちょ、ちょっと待って! どれも高価なものばかりだよ!」


 亘がぎょっとしたように言う。

 女子大生が大量に買込むような品物ではない。

 客たちは少しずつ試しながら、自分の好きな茶葉を見つけていくのだ。

 そして、それがこの店での楽しみの一つでもある。


「あら、だって、せっかくこんな素敵なお店で働くのだもの。お茶のことをよく知りたいわ!」


 茉莉香は、瑞枝の金欠の理由を理解した。興味が湧くと迷うことなく金を注ぎ込んでしまうせいなのだ。


「ちょっと待っていて!」


 茉莉香は貯蔵庫に入ると、秤と小さな薄布の束を持って戻って来た。


 そして、電子計量器で三グラムずつ量っては、包んでポットの形のシールで留める。

 この布は、les quatre saisonsのティーバックに使われるナイロン製の布だ。

 ガーゼ状で張りと光沢がある。

 このカフェでは、自宅で試飲する客のために置いてあるものだ。


 包んだ布に付箋を貼り、農園名と茶葉の種類を書いていく。


「包一つが一杯分よ。あと……フレーバーティーも入れるわね。これからの季節だと果実の風味が人気なの。こうすれば少しずつたくさん飲めるわ」


 仕上げに菓子の化粧箱を持ってくると、仕切りの上に綺麗に並べて入れた。


「浅見さん……すごいわね」


 瑞枝は、整然と並んだ茶葉の包に見とれる。


「あと、これが淹れ方を書いたリーフレット。茶葉ごとに抽出時間が違うから気を付けてね。沸騰したてのお湯180mlで、お湯を注ぐ前にポットを温めて、それから何かカバーをかけて保温するといいわ」


 そして、亘を振り返り、


「亘さん。会計お願いしてもよろしいでしょうか?」


 と、依頼する。


「あ……ああ。ちょっと待っていてね。計算するから」


 安堵した亘が、菓子箱を持って奥に入って行った。



「それにしても……これはいいかもしれませんね」


「えっ?」

 

 米三の声に、茉莉香がきょとんとすると、


「ティスティングセットですよ。いろいろな種類を試したいお客様に喜ばれます」


 米三が目を輝かせながら言った。

 彼は『イマイズミ』で商品開発の経験もあると聞いる。

 アイディアには聡いのかもしれない。


「あら! 素敵ですね!」


 二人は顔を見合わせて笑った。







 数日後、瑞枝の制服が到着した。


「わぁ! かわいい!」


 瑞枝が喜び勇んで試着をする。


 やがて、更衣室から出てきた瑞枝を見て、


「瑞枝さん。すごく似合う……わ……」


 茉莉香が言葉に詰まる。


 似合う。

 確かに似合うのだ。


 いや、似合い過ぎると言える。


 茉莉香とは違った似合い方だ。


 眼鏡をかけたファニーフェイス。くりくりとした目。

 おさげにしたくせ毛に、ヘッドドレス。

 小柄だがバランスと取れた体形。

 まるでアニメのキャラクターのようだ。


 そう言えば、あの声……

 甘く可愛らしい、どこかで聞いたような懐かしさ……


「アニメ声だったんだわ!」


 茉莉香は瑞枝の声の懐かしさの正体を知る。

 子どものころに見たアニメを思い出させるのだ。


 このお店のイメージに合うのかしら?

 茉莉香は、一抹の不安と、瑞枝を推薦した責任を感じ始めていた。












 サテンドール


 ジャズのスタンダードナンバーです。

 1953年に、デューク・エリントン楽団によって初演奏されたこの曲は、それから五年後、1958年にジョニー・マーサーによって歌詞が付けられました。

 曲名を知らない方もメロディー耳にすれば、覚えがあるかもしれません。


 ソフィスティケートされた曲ですが、サテンのドレスを着た人形の可愛らしさを表現するためにタイトルに使用しました。(#^.^#)

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