第2話 野苺の乱

 ある日曜日、茉莉香と夏樹は駒込にあるきゅう古河庭園ふるかわていえんを訪れた。


「薔薇かつつじか迷ったけど、薔薇の方がいいかなって……」


 夏樹が言う。

 近くに六義園りくぎえんがあるが、ここのつつじの季節が終わる頃が、旧古河庭園の薔薇園の見ごろとなる。


「まぁ! 本当に一面の薔薇なのね! 桃香、黒真珠、クリスチャン・ディオール、シンデレラ……種類がたくさん!」


 茉莉香が品種が記載された札を読み上げる。


「九十種類近くあるみたいだよ」


 赤、黄色、オレンジ、白、ピンク……。

 初夏の日差しの中、薔薇を眺めながら人々が思い思いに歩く。


 この庭園は、英国人ジョサイア・コンドルにより設計監理された。

 建物はスレート葺きの切妻屋根、正面は一階に三連アーチ、二階にはベランダが設けられている。

 煉瓦造りの躯体くたいは黒い石垣で覆われ、重厚でありながら素朴な温かみのある邸宅だ。

 敷地内には西洋庭園と日本庭園がある。

 

 西洋庭園はフランス式庭園とイタリア式庭園の技法を合わせたもので、そこに薔薇園がある。

 斜面を上り詰めた台地に洋館が建っていた。

 

 二人は薔薇園に囲まれた遊歩道を歩き、ポーチにたどり着いた。


 三連アーチの一つが玄関となっている。


「このステンドグラスはいいね」


 夏樹がステンドグラスを施したドアを見上げながら言った。


 二人はガイド付きで洋館の見学をした。一階は洋室、二階は寝室とホール以外はすべて和室で、洋館の中に和室が組み込まれる工夫がなされている。


喫茶室ティールームでお茶をしましょう」


「いいね」


 おもむきのある洋風の喫茶室だ。薔薇園が見渡せる窓際の席に座る。

 ワイルドストロベリーのカップでお茶が運ばれてきた。


「こんなところでお茶を飲めるなんて素敵ね! 売店で薔薇のジャムを売っていたわ。お土産に買っていきましょう!」


 茉莉香が嬉々として言うと、


「ま、ま……あな。場所代かな? この料金は……」


 と、言葉を濁す。


 それでも悪い気はしない。

 こうして茉莉香とゆっくりと話をするのは久しぶりだ。


 ふと見ると、茉莉香が自分を見て、もじもじとしている。


「どうしたの?」


 これは茉莉香が何かを言いたいときの仕草だ。

 何か大切な話があるのだろう。


「あ、あのね……。先輩たちが、就活をしているの。去年からインターンに行っている人も……」


 茉莉香が消え入りそうな声で言った。


(とうとう、この質問をしてきたか……)


 今までなかったことが、不思議なくらいだ。

 付き合っている相手が、将来をどう考えているかは大切な問題だ。

 特に、茉莉香のような真面目な女性なら当然のことだろう。


「そうだね」


 夏樹が静かに言った。


「夏樹さんは、今、樋渡さんのところでバイトをしているのよね」


「ああ」


「そ、その……そのままそこに就職するの? それはそれでいいわよね。その……卒業したらどうするのかな……って」


 茉莉香はようやく言いたいことを言い切ったようだ。

 そうとう労力を使ったのだろう。

 顔を赤くして俯いている。


「……」


 夏樹は腕を組んで沈黙した。


「あの、卒業したら……」


 茉莉香が、最後の力を振り絞るように言う。


「……」


 夏樹は、しばらく沈黙した後、


「俺、卒業したら、もう一度留学したいんだ。今度は修士留学。フランスで建築士の資格を取るつもりだ。期間は二年間。実務講習も含めると……」


 これはパリ留学中に考えたことだ。

 今まで話せずにいたが、その時が来たようだ。

 茉莉香の反応を気にしながらも、夏樹は冷静さを保とうとする。

 

 だが、話は茉莉香に遮られた。


「そんな。また、離れ離れになっちゃうの……」


 茉莉香が俯く。


「ごめん……」


 やがて茉莉香は顔をあげ、夏樹を見つめ、


「……私も、……ついていく!」


 と、言った。


「えっ!」


 夏樹がぎょっとする。


 茉莉香の瞳は、熱に浮かされたように潤んでいた。


「だって、茉莉香ちゃん。学校が……」


「ううん。いいの。卒業できなくても」


「お父さんが……」


「ううん。いいの! パパなんて! 離れ離れになるなんて絶対に嫌!」


 茉莉香は大きな目をいっそう大きく見開いて、夏樹に訴えかけた。


 目の前の光景はどこかで見たことがある。

 

 そうだ! 小さな赤ん坊が、父親の出勤を悲しんで泣いて駄々をこねる動画だ。

 父親は笑いながら愛しそうに我が子をあやして、後ろ髪引かれながら家を出る。

 同じパターンで、犬猫のバージョンもある。


 子どもやペットに向けられた、デレデレとした態度に、


 “けっ! 出勤前になにやってんだ!?”


 苛立って舌打ちをしたものだ。

 

 だが、今、茉莉香を目の前にして、困ると同時に理解できない愛しさが込み上げてきた。

 瞳を潤ませた茉莉香の姿は、抱き上げてあやしてやりたい気にさせる。

 馬鹿な親や飼い主の気持ちが、今なら理解できる。


(なにを考えているんだ!? 俺は!)

 

 だが、茉莉香は赤ん坊でも犬でもないのだ。


 こんな所で取り乱すなど、自分のためにも茉莉香のためにもならない。


 こんなことは現実であってはならないのだ。

 

 隣席の上品そうな老夫婦が、はじめは怪訝そうに様子をうかがっていたが、若い二人が微笑ましいものに見えたのか、夫婦で顔を見合わせて穏やかに笑っていた。


 だが、まずいのだ。まず過ぎる。

 これ以上茉莉香を興奮させてはいけない。


「ま、茉莉香ちゃん。とにかくここを出よう」


 夏樹が茉莉香の手を引いて、席を立とうとすると、


「よく話し合ってね」


 老婦人が優しく幸福そうな笑顔で言った。


「ど、どうも……」


 夏樹はそれどころではない。形だけのあいさつを返すのが精いっぱいだ。

 とにかくここを出なくては。

 それしか考えていない。


 茉莉香を連れ、そそくさと代金を払って喫茶室を出ると、満開の薔薇に目をやることも無く、茉莉香の手を引いて庭園を出ようとした。


 が、ふと足を止める。


 何が起こったのだろうかと、茉莉香が夏樹を見ている。


 夏樹は苗木の売店に行き、鉢植えを買った。


「これ……誕生日プレゼント」


 白い木香薔薇の鉢植えだった。

 小さな花弁が愛らしい。


「ごめん。今年はお金がなくて……」


 本人は忘れていたようだが、今日は茉莉香の誕生日だった。

 

 茉莉香はしばらくきょとんと薔薇を見つめていたが、可憐な花に顔をそっと近づける。


「いい香り……。ありがとう。うれしいわ」


 いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。


 二人は黙って歩きながら、根津神社にたどり着いた。


 薔薇の鉢植えは夏樹が持っている。


「あ、あの……茉莉香ちゃん? さっきは急にごめん」


「私こそ……。驚いてしまって」


「俺、どうしてもパリで仕事をしたいんだ。自分の名前で。そのためには、修士留学が必要なんだよ」


「ううん。話してくれてありがとう」


 二人は表参道を歩き、神橋しんきょうを渡ろうとしていた。


「私ったら、取り乱して何もかも投げ出そうとしてしまったのね。やっと自分のやりたいことを見つけたばかりなのに。この前、クラスメイトに“あなたは恵まれている”って言われたわ」


「……」


 夏樹は黙って聞いていた。

 だが、思う。

 自分はあの時、喜んでいたのだ。

 学校も家も捨てて自分についてきてくれると茉莉香は言った。

 

 だが、それを表情に出さないように振舞う。


「あのね。私も、語学留学するかもしれない。」


「えっ? いつ?」


 初めて聞く話だ。


「夏休みに。まだ決まっていないけれど、沙也加ちゃんに誘われているの」


 茉莉香と離れ離れになる日が思っていたよりも、早く来てしまう。

 予想したことさえなかった。

 今度は茉莉香の方が、自分から離れていこうとしている。


 だが、


「それは、いいことだね。留学はきっと茉莉香ちゃんのプラスになるよ」


 と、言った。

 茉莉香にも、自分のスキルを高める学びが必要だ。


「ありがとう。頑張ってみるわ」


 茉莉香が微笑む。


 目の前の茉莉香は、以前とは変わっていた。

 喜んだり悲しんだり、表情が豊かなところは昔のままだが、こうしていると、落ち着いて大人びて見える。

 それに……もっと、いろいろと聞きたいこともあるだろう。自分を慮って堪えてくれているのだ。


 いつの間に……。

 一年間会わない間に、茉莉香は成長していたのだ。

 茉莉香は優しい。

 自分はそんな茉莉香に甘えているのだろうか?





 二人はいつの間にか、社殿にたどり着いていた。


「でもさ。俺、まずは卒業しなきゃなんだよ。それから留学先に受け入れられるか判らないし、奨学金の審査も……」


 夏樹は、ズボンのポケットに手を入れたまま、空を仰ぐ。

 自分の計画が実現される保証はどこにもない。

 それなのに、どうして “その先” の話ができるだろうか……。


「じゃあ、学問の神様にお願いしいましょう! 湯島天神まで歩いて行けるわ!」


 茉莉香の笑顔にほっと心が安らぐのを感じる。

 自らの不安を抑え、自分を励まそうとしてくれているのだ。


「そりゃいいな。 あ、そうだ! いい甘味処もあるんだ。俺、この辺はちょっと詳しいぜ!」


「賛成!」


 二人は、湯島へ向かって歩いて行った。




 



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