第三章 姫君の恋
第1話 二つの疑問
「はい。亘さん。今年の初めてのダージリンの春摘みよ」
「もうそんな季節ですね。早いなぁ」
「出始めたばかりだから、お客様には、まだお出ししていないの」
「初物ですね」
興味深げに亘がカップに口をつける。
「なるほど……普段の春摘みよりも、いっそう香りが青々しいですね」
亘は軽やかな茶葉の芳香を楽しみ、由里が笑顔で頷く。
夏摘みの重厚さも素晴らしいが、新芽を思わせる爽やかさにも心惹かれる。
二人は由里の家のリビングにいる。
由里の自宅は、元外交官の私邸だった
従姉同志の二人は、こうして互の家を訪ね合っては、仕事や日常の諸事について語り合うのが常だ。
「実はね……」
由里が話し始める。
「主人がね、茶葉の買い付けを現地の業者に頼むことになったの」
厳選した茶葉を、日本へ送ってくれる信頼できる業者見つかったという。
「前川さんが? そんなことは初めてですね」
亘は、にわかには信じられずにいた。
「ええ。全部ではないけど……南インドの方と、それからアフリカね。できれば、北インドの方も人に任せてくれればいいのに」
ダージリンの産地はインド北東部のヒマラヤ山脈の
「それにしても随分思い切ったことをしましたね。やはり、体調を崩されたからですか?」
前川氏はパリから帰国後に倒れ、入院した。働き過ぎによる過労ということで大事には至らなかったが、由里の心配はおさまらないだろう。
「私もそうだとは思ったのだけれど、そうでもないみたい……」
「それはなぜ?」
亘が疑問を口にする。
「ええ。以前よりもいっそう忙しそうなの」
「パリ支店の準備のせいですか?」
そう考えるのが妥当だろう。
「それがねぇ。その話は家主との契約の関係で引き渡しが延期になったの」
「計画に支障は出ないのですか?」
引き渡しが遅れれば、無駄な費用がかさむ恐れがある。
「ええ。準備はまだはじめていなかったし、主人がどうしてもあの物件がって言うの。確かにいいのよ。カルチェラタンのそばなのだけれど、そこだけひっそりと静かでね。メトロの駅近くにあるのに、隠れ家みたい。インテリアもよくて、そのまま使えるから費用が浮くわ。賃料も安いのよ」
「それは掘り出し物でしたね。じゃあ問題はないわけだ。そうなると、前川さんは何が忙しいんですか?」
「さぁ……?」
由里が首を傾げる。
「それにしても、任せられる業者さんが見つかってよかったですね」
「ああ、それは今泉クンが探してくれたの。さすがだわ」
亘と由里が同時に頷く。
les quatre saisonsではこうして、新しい試みが始まろうとしていた。
茉莉香は四月から三年生となり、翻訳科に進んだ。
精涼学院の仏文科は、レベルを保つために少人数制だ。
小数精鋭型と言えるだろう。
その中でも、翻訳科は厳選された学生だけが受講を認められる。
どの学生も、二年生までの成績と面接によって選ばれた者ばかりだ。
茉莉香の隣の席は、眼鏡をかけた女学性だ。
ウェーブのかかった黒い髪を二つに束ね、レンズの奥の瞳は好奇心で輝いている。
「はじめまして。私、
瑞枝と名乗る学生は、親愛の情を込めて自己紹介をする。
明るく親しみの持てる人物だ。
声に……特徴がある。高く明るく可愛らしい。
茉莉香は瑞枝の声に、わけもなく懐かしさを感じた。
「私も。はじめまして。浅見茉莉香です」
「浅見茉莉香!!」
瑞枝が大声で茉莉香の名を叫んだ。
クラス中の視線が、いっせいに茉莉香に集中する。
前方の学生は露骨に体を
「あなた! クロエ・ミシェーレのエッセイを翻訳しているでしょう!?」
瑞枝が目を輝かせる。
「あ、は……い」
茉莉香が俯く。
エッセイの訳者として、茉莉香の名前と、女子大生であることは公表されていたが、大学名は非公開となっている。
クロエは、まだ日本では名の知れた作家ではなかったし、茉莉香が訳したのは彼女の短いエッセイに過ぎない。女子大生の翻訳という企画だが、茉莉香の名に目を留めたものはそれほどいないはずだった。
だが、このクラスでは、みなが“浅見茉莉香”に注目している。
自分たちよりも、一歩先に歩き出した同級生に、興味津々というところだろう。
茉莉香は、あらためて自分の恵まれた状況を知った。
「女子大生とは聞いていたけど、ウチの大学だったとはね」
瑞枝は茉莉香をまじまじと見る。
“こんな平凡な女の子が信じられない!”
……という心の声が聞こえそうだ。
「あの……声が……」
茉莉香が消え入りそうな声で言う。
自分に注がれる視線が刺さるようだ。
「ああ、ごめん。ごめん」
瑞枝がカラカラと笑う。
高く甘い声だ。
茉莉香はこの声の懐かしさの正体を知ろうとする。
「でも、うらやましいわぁ。この世界はね。人間関係やコネがものを言うのよ。あなたは、それをすでに掴んでいるのよ」
その声は羨ましげだが、自分もそうなりたいという純粋な熱意に満ちていた。
「じゃあ、浅見さんは文学翻訳希望?」
「ええ。……できれば……」
茉莉香が遠慮がちに言う。
「だめよぉ! できれば、なんて! 絶対そうなりたいって気持ちがなきゃ! 私はね、映画関係に進みたいの」
「まぁ! 字幕の翻訳!?」
「ええ! 父の実家がね、小さな名画座を経営していたの。私たちが生まれるずっと前に、ショッピングモールになっちゃたけど、父が映画好きで、よく一緒に見たわ。古いのはDVDで!」
「そうなの」
瑞枝の熱のこもった口調は、茉莉香を引き込んでいく。
「だからね。もし、翻訳がだめたったとしても、映像関係の仕事がしたいわ」
「ステキね!」
茉莉香と瑞枝は、顔を見合わせて笑う。
内気な茉莉香は、このバイタリティーに溢れるクラスメイトに好感を持った。
放課後、茉莉香は沙也加とカフェで待ち合わせた。
ふわふわとしたおかっぱの髪。つい、触りたくなる白く丸い頬。
いつもの笑顔で茉莉香に手を振る。
そして、待ちかねたように、意気揚々と話をはじめた。
「ねぇ。茉莉香ちゃん! 私と一緒にフランスへ語学留学しない?」
「そんな……突然言われても……」
突然の沙也加の言葉に、茉莉香が戸惑う。
「あのね。私、夏休みに留学したいの。パパに言ったら、一人じゃだめだって。だから茉莉香ちゃんも一緒に……。茉莉香ちゃんも去年からずっと留学したいって言っていたでしょ?」
沙也加の言う通りだろう。
三月の語学留学は短すぎた。
もっとしっかりと、腰を据えて学び、文化に触れたい。
だが……せっかく、夏樹と毎日会えるようになったのに……。
また離れ離れになってしまう。
「ちょっと考えさせてね」
あまりに突然のことで、返答が
「うん。急にごめん。考えておいてね」。
そして、少し間を置いてから
「……ところで、夏樹さん、もう四年生よね」
と、質問をしてきた。
おっとりとした色白の顔が赤く染まり、細い目がいっそう細められている。
沙也加がこの質問を、覚悟を持ってしたことが見て取れた。
「ええ」
「就活とかしているの? 私、茉莉香ちゃんから彼のそういう話聞いたことないけど……きちんと話し合っている?」
「えっ……まだ、帰国したばかりだし……」
とはいえ、夏樹は四年生。正直言ってこれから始めるのならば遅すぎる。
夏樹は大学卒業と同時に、建築士の受験資格が得られる。試験に合格しても、免許を取るためには、その後二年間の実務経験を必要とするのだ。それは、“仕事に就く”ということを意味する。
なにか考えがあるはずだが、本人から聞いたことはない。
それに、自分たちは正式な約束というものが無いのだ。
確かに“付き合っている”とは言えるだろう。
だが、約束も申し込みも無い現状では、どこまで踏み込んでいったらいいのかが分からない。
「茉莉香ちゃ〜ん! 聞いておかないと!」
沙也加がじれったそうに言う。
「なにか考えがあるはずだけど……」
夏樹はそれを口にしない。
だが、二人の関係を真剣に考えるのならば、確認しておくべきだろう。
「ありがとう。沙也加ちゃん」
沙也加は自分たちのことを案じてくれているのだ。
茉莉香のためとはいえ、この話題を口にするのは勇気のいることだっただろう。
(でも……どうやって話をきりだそうかしら?)
茉莉香は考えあぐねた。
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