第39話 tea for you

 茉莉香が夏樹と一緒に由里が待つ家に戻ったのは、四時を少し過ぎた頃だった。

 由里の顔が心配のあまり青ざめ、強張っている。

 それでも茉莉香を、そっと抱きしめ、


「疲れたでしょ? ひとまず、お部屋で休んでらっしゃい」


 優しく言った。

 

 夏樹は茉莉香を部屋に送った後、由里に事情を話した。


「その人……なんて余計なことを!」


 由里が苛立ったように言う。


「茉莉香ちゃんも気にしていたみたいだから……教えてくれたんじゃないかな。それに、まさか会いにいくとは思わなかったんじゃないですか?」


「それで泣いていたの?」


「それが……俺にもわからないんです。着いたときは割と平静だったんだけど、話しているうちに突然泣き出して……」


 夏樹が困り果てたように言う。


「俺、茉莉香ちゃんの様子を見てきます」


「お願いね。もうすぐお夕飯だから。今晩は私が作るわ」





 茉莉香は自室で一人、夏樹が迎えに来た時のことを思い浮かべていた。


 夏樹が駆けつけてきたとき、茉莉香は自分からこの突然の行動の理由を話した。

 怒られるか、呆れられることを覚悟していたが、思いもよらぬ優しい言葉をかけられて、かえって泣いてしまったのだ。夏樹がそれを見てひどくうろたえ、周囲から怪訝けげんな視線を向けられながら帰って来た。


「茉莉香ちゃんいい?」


 扉の向こうから夏樹の声が聞こえる。


「どうぞ……」


 夏樹が入って来た。


「心配したよ。落ち着いたら由里さんに謝りに行こう」


「ええ……」


 茉莉香が静かに言う。


「茉莉香ちゃんにはいつも驚かされるよ」


 安堵感で気が抜けたような声だ。


 茉莉香は混乱していた。知佳に会えた嬉しさと悲しみが入り混じった複雑な気持ち、

 約束を破ってしまったやましさ、皆に心配をかけて申し訳ない心持ち、夏樹が駆けつけてくれたことに対する喜び……。

 いろいろな感情がないまぜになって、普段は口にしないような言葉が口からこぼれるように出る。


「夏樹さんだって……私のこと驚かせてばかり……パリで初めて会った時も、les quatre saisonsに現れたときも……。おまわりさんに捕まりそうになったり……」


「そ、そりゃ……」


 夏樹が口ごもった。


「それとこれは別で、今は……」


 言葉が曖昧になる。


「ううん。別じゃない! 私、あなたが突然留学するって聞いたとき、すごく悲しかった。あなたは、いつも何をするかわからないから! 私は、これからもこんな風に置いてきぼりにされちゃうんじゃないかって!」


 茉莉香はひどく興奮していた。


「茉莉香ちゃん……俺、悪かったよ……でも、……」


 そして続ける。


「……でも、そばにいて欲しいんだ……」


 夏樹が目を伏せ、消え入りそうな声で言った。


 夏樹が茉莉香を見つめている。

 茉莉香は夏樹のこの目を何度も見てきた。なにかを乞う目だ。


 パリのカフェで初めて会った日。

 les quatre saisonsで素顔を見た日。

 施設育ちであることを打ち明けられた日。

 警官からかばった日。

 生い立ちの話に涙を流した日。

 ネックレスをプレゼントされた日。

 そして、突然留学を告げられた日……。

 

 そのたびに、茉莉香は決断を迫られてきた。


 そして、今も……。


 だが、自分が夏樹に惹かれるのは、なぜだろう?

 親身になって話を聞いてくれる。

 友だちのために一肌脱ぐ。

 多忙な中、パリから本を送ってくれた。

 今日も何もかもを放り出して、自分を迎えに来てくれた。

 

 口調は乱暴だが、誠実で頼りになる夏樹。

 

 違うのだ。

 そんなことではない。

 自分が最も惹かれるのは、まっすぐ前を見る彼の眼差しではないか。

 未来を見据える力強い目こそが、自分を支え、一緒に道を歩きたいと思わせるのだ。

 そして、そんな彼に相応しい人間になるように、自分は努力をしてきたのではないか?



 あの事件以来、茉莉香の小さな世界は壊れてしまった。

 だが、夏樹とならば新しく作り直せる。

 そう感じたのではないか?


 今、新しい風が吹いている。

 閉ざされた部屋の窓を開けたように……。


 夏樹の生き方をはばむことは誰にもできない。彼は心のままに生きるだろう。これからも自分はどこかで夏樹を待ち続けるのかもしれない。


「私、ずっと不安だった。怖かったわ……ずっと。でも、今は……」


 茉莉香が夏樹を見つめる。


「今は……?」


 夏樹が茉莉香の顔を凝視し、答えを待っている。

 

「今は……」

 

 夏樹はいつも自分を驚かせ、不安にさせる……だが、茉莉香は、見知らぬ駅のホームで夏樹から電話がかかってきたこと、自分を迎えに来たときのことを思い出す。

 あのとき茉莉香は誰よりも夏樹を頼り、必要としていたのだ。


 


 茉莉香の沈黙を怪訝そうに夏樹が伺っている。





「内緒」




 茉莉香が小声で言うと、


「ええ!?」


 夏樹が拍子抜けした声をあげた。


「教えてくれよ!」


「ダメよ!」


 茉莉香が笑う。


「教えてよ!」

 

 突然様子の変わった茉莉香に、夏樹が戸惑いながら問いかける。


「ダメよ!」


 夏樹をからかうように茉莉香が笑っている。

 部屋の中を茉莉香が逃げはじめ、それを夏樹が追いかけた。


「教えろよ!」


「だめよ!」


「教えろよ!」


 そんなやり取りを繰り返した後、夏樹が茉莉香の背中を抱きかかえた。


「やった―! 捕まえたぞ!」


 夏樹が得意げに言う。


 が……。


 茉莉香は腕の中で、くるりと回ると夏樹を見つめた。


「え……?」


 思わぬ反応にたじろぐ夏樹の頬に、茉莉香がそっと唇でふれる。


「茉莉香ちゃん……」


 夏樹がそっと茉莉香を抱きしめ、二人はそのままじっとしていた。

 茉莉香は夏樹に身をゆだね、心が落ち着いていくのを感じる。

 これまでの不安も迷いも消えていくようだ。


「ずっとこのままでいたい」


 囁くように言う。


「なに? 聞こえない」


 夏樹の問いに、茉莉香は微笑みでこたえた。



 





 扉の外では、前川夫妻が部屋に入れずに、立っていた。

 由里の夫はにこにこと笑顔のまま黙っている。


「どうしましょう。そろそろ声をかけなくちゃいけないわね」


 由里が言うと、前川氏が笑顔のまま恥ずかしそうにうつむいた。


「ああ! 私には、すぐに駆けつけてくれる人はいないのかしら。あなたもいつも自分の好き勝手ばかりだから!」


 前川氏は無言のまま、いっそう下を向く。


 そんな彼を見て、


「わかっているわ。あなたは、きっとすぐに来てくれるわね。だから、私はあなたが世界のどこにいようと、お茶を淹れて待っているわ」


 そう言って由里は微笑みかけた。


 そろそろ夕食だ。ふたりに声をかけなくてはならない。

 それに、茉莉香は彼女の父親との約束を破ったのだから、なにかしら罰を与えなくてはいけないだろう。


「損な役回りだわ」


 由里が苦笑する。

 

 今、誰よりも幸せな若い二人に、どうやって声をかけようか?

 由里は扉の外で頭を悩ませていた。






 



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