第38話 誰よりも……

「あの列車だわ。7時53分発の……」

 

 茉莉香は足早にサン・ラザール駅のホームを歩き、RER(高速郊外鉄道)に乗った。

 列車は早朝にもかかわらず観光客で混雑し、様々な国の言語でなされる会話が耳に入る。


「すぐだもの。座らなくてもいいわ」


 荷物もないのだ。


 だが、人の善さそうな婦人と目が合い、


 “ここが開いていますよ”

 

 と、言うように自分の隣の座席を示された。

 荷物が少なく、きちんとした服装から観光客には見えない。

 おそらく地元に住むフランス人だろう。


 茉莉香が礼を言うと、婦人は流暢りゅうちょうなフランス語に驚き、そして嬉しそうに頷いた。


 パリを離れ、変わりゆく風景を眺める。三十分ほどで、都会とは打って変わった緑ゆたかな光景が広がる。もうすぐ目的地だ。

 

 列車が止まる。


 目的地に到着したのだ。


 イルドフランスに位置するこの駅は、有名な観光地に囲まれながらも素通りされる田舎町にある。

 同じ車両で降車したのは、茉莉香一人のようだ。


「着いたわ……来てしまったんだわ……こんな所まで……」


 今なら引き返せる。

 列車を降りても迷いは消えず、何度も歩みを止め、立ち止まった。


「いけない。時間に間に合わないわ!」


 意を決して、歩くスピードを上げる。

 ここまで来たからには、もう、進むしかないのだ。

 

 明るい色調の民家の間を通り抜け、小さな教会にたどり着く。

 地元の人間だけが訪れる質素な教会だ。

 

「よかったわ。まだ、ミサが終わっていない」


 信者たちが歌う聖歌が聞こえてくる。


 茉莉香は教会の外で、じっとミサが終わるのを待っていた。


「こんなところで待っているなんて……」


 外国人がこんなところで一人で立っていることを怪しまれはしないかと危ぶんだが、特にそういうことも無く、ほっと胸をなでおろす。


 ミサが終わると家族連れが賑やかに話しながら、聖堂を出てくる。

 茉莉香は慌てて建物の陰に身を潜めた。


 信者たちの中に、見知った、それでいて長い間会うことのなかった一人の女性を見つけた。


「知佳……」


 茉莉香は声を殺して呟く。







 年が明けてすぐの事だった。

  les quatre カトル saisonsセゾン小日向京こひなたみやこが訪れた。

 京はインターンを終えたばかりで、いっそう大人びて見える。

 二人は茉莉香の仕事が終わるのを待って、近くのカフェで近況を語り合った。

 京のインターン経験の話、茉莉香の翻訳の仕事……。

 どちらの話題も明るく、喜び合う。

 明るい未来が、今、二人の前に開かれているようだった。


 ……やがて…… 


「浅見さん。話すべきか迷ったけど……」


 京の表情が緊張したものに変わる。


「実はね、澤本さんの消息がわかったの。私の父が澤本さんのお父様と仕事で付き合いがあって……」


 京の話によると、知佳の父親はすでに釈放され、母親の病状は回復に向かいつつある。現在は療養のために、彼女の親戚のいる松本に身を寄せているという。

 予想よりも状況はよく、茉莉香は肩の荷が下りるような気がした。


「それでね……澤本さん自身は……」






 叔母の住む、このパリ郊外の街にいる……と。

 日曜日には教会のミサにあずかっているという。



「知佳……」

 

 どうしているのだろうか?

 現在の姿を見ることが恐ろしくさえある。


 だが……。


「知佳……笑っている……」


 澤本知佳は他の信者たちと話をしながら、楽しそうに笑っていた。

 笑顔が朝の光の中で眩しい。


「よかった」

 

 茉莉香は安堵のため息をついた。


「でも……私ったらこんなところで……」


 自分はどうしようというのか? 声をかけるのか?

 こんなところで自分に会った知佳はどんな気持ちになるのだろうか?

 嫌なことを思い出させるだけに違いない。


 茉莉香は後ずさりをする。


 茉莉香のことを心配したのか、親切そうな女性が声をかけてきた。


「あ……の。すみません。大丈夫です」


 それならいいわ。というように、笑顔で去って行く。

 茉莉香は逃げるようにその場を離れた。


「私ったら、私ったら……何しに来たのかしら!」


 茉莉香は駅に向かって走り出した。


「知佳、知佳! よかった。笑っていた」


 だが、その気持ちを分かち合うことはできない。


 あの事件以来、折あるごとに思い出し、忘れることができずにいた。

 子どもの頃から十五年間、ずっと一緒に過ごした友だちだったのだ。

 仲の良いまま大学に行き、それぞれ幸せな家庭を築き、そのまま関係が続くと思っていた。

 せめて、あの事件がなければ、いじめの主犯格として心の中から排除することができたかもしれない。

 だが、事件の結末はあまりにも残酷で、茉莉香の、そしてクラスメイトの心に大きな傷を残した。

 茉莉香は復学して高校を卒業するまで、いや、現在にいたっても、彼女たちの顔に翳りのようなものを見ずにはいられない。


 それでも自分たちの家族は元に戻りつつある。

 知佳もそうあるべきだと思った。

 そうでなければ、自分の幸せの大事な部分が欠けたままになってしまう。

 そんな気がしていた。


 知佳にも幸せでいて欲しい。

 

「知佳は今、幸せ?」


 そう問いかけて、笑顔で肯定して欲しかった。

 それが茉莉香にとって大事なことのような気がしてならない。

 それで初めて、パズルのピースが揃うのだ。

 

「私ったら、なんて勝手なことを……」


 自分の気が楽になるために、相手の幸せを願っている。

 だが、ピースの欠けたままで生きて行かなくてはいけないのだろうか?



 ようやく駅のホームにたどり着く。


「いけない。スマホの電源切りっぱなし……連絡しなきゃ」


 食堂のテーブルに、


 “六時には帰ります”

 

 と、メモを置いてきただけなのだ。

 どれほど心配しているだろうか?


(由里さん。みんな……ごめんなさい)


 由里が、あれほど骨を折ってくれたのに、自分は約束を破ってしまったのだ。

 心の中で詫びながら電源を入れる。


 その瞬間……呼び出し音が鳴り響く。

 

「もしもし……」

 

 かすれ声で電話に出ると、


「茉莉香ちゃん! やっと連絡が取れた!」


 電話の向こうでけたたましい声が響く。

 夏樹だ。


「ごめんなさい」

 

 自分が口にできる言葉が他にあるだろうか?

 申し訳ない気持ちで、胸がいっぱいになる。


「今どこにいるの?」


 問いかけられ、駅名を言う。

 電話の向こうの声が、安心のためだろう。穏やかな調子に変わった。


「すぐそこに行くから動かないで待っていて!」


 電話が切れた。


 夏樹がもうすぐここに来る。

 自分が黙って出た理由を話さなくてはならない。


「夏樹さんはなんて言うかしら?」


 自分よりも、ずっとつらい境遇で育ってきた夏樹。

 いつも前だけを見つめる眼差しが思い浮かぶ。

 そんな彼が、今の自分を見てどう思うのか?

 いつまでも過去にとらわれている自分を……。


「笑うかしら?」


 それとも怒るだろうか?

 

「呆れるかしら……」


 だが、茉莉香は夏樹に会いたかった。

 会って、何かを言って欲しい。


「そんなことで悩むなんて!」


 そう言って笑うかもしれない。

 そんなことを言われたら、自分は怒って喧嘩をしてしまうかもしれない。


 だが、会いたかった。

 誰よりも会いたい。

 会って話がしたかった。

 

 茉莉香は、ひとり見知らぬ駅のホームで夏樹を待った。




 

 

 

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