第37話 貴婦人と一角獣 ークリュニーの美術館ー
翌日、茉莉香と夏樹はサンジェルマンのカフェで待ち合わせた。
あの日のギャルソンが、嬉しそうにテラス席へ案内する。
二人はコーヒーを注文した。
「もう、二年もたつのね」
コーヒーが運ばれる。
「今日は、サンジェルマンからカルチェラタンを周ろう」
夏樹が言った。
その後、二人はサンジェルマン・デ・プレ教会に行き、そこからセーヌ川に沿ってカルチェラタンへ向かう。
シテ島を見ながら歩いて、リュクサンブール公園を周り、目的地にたどり着いた。
ここには、パリ大学、ソルボンヌ、そして夏樹の通う大学もある。
書店や文具店を見ながらぶらぶらと歩いた。
「ここで勉強しているのね」
夏樹の足跡を
彼は顔が引き締まり、
(一年で夏樹さんはすっかり大人になってしまったのだわ)
夏樹は今、自分の隣にいる。だが、自分の知らない夏樹をもっと知りたいと思う。
「茉莉香ちゃんどうしたの?」
夏樹がそっと覗き込む。
「ううん。なんでもないわ。今日は私の知らないパリをたくさん教えてね。夏樹さんの好きなパリを知りたいの!」
茉莉香が笑顔で返事をする。
夏樹を知り、自分のことも知って欲しい。
そして、離れ離れの日々を埋めたい。そのために自分は
「わかったよ。今日は思いっきり楽しもう! あ、ここ段差があるから気をつけて」
そう言って、夏樹が手を差し出した。
「ありがとう」
茉莉香がその手を取る。
こうしてこの街を共に歩きたかったのだ。
この胸の高まりを誰が理解できるだろうか?
その後、賑わう学生街の裏道を入り、国立中世美術館を訪れる。通称「クリュニー美術館」として知られる中世のコレクションを集めた美術館だ。
「茉莉香ちゃんが見たいって言っていたから……」
「ええ。日本にも来たことがあるけど、そのときは見ることができなくて。残念だったわ」
夏樹に案内され、館内を歩く。
敷地は古代ローマ時代の大浴場の跡地、美術館は十三世紀にクリュニー修道院長の別邸として建てられ、様々な用途に使われた後、十九世紀に現在の美術館としての原型となった。
現在も改修工事が繰り返されている。
美術館は、周囲の喧騒から逃れるようにひっそりと
「まるで小さなお城みたい」
茉莉香の言葉に夏樹が笑った。
ヨーロッパ最大の中世美術のコレクションで構成されるクリニュー美術館は、五世紀から十五世紀までの千年の美術史を見ることができる。
多様なコレクションは、絵画、彫刻、ステンドグラス、金と象牙の作品、タペストリーで構成されるが、その中で最も有名なのが、『貴婦人と一角獣』だろう。
「こんな大きいなんて!」
展示室に入った瞬間に、思わず息を呑む。六枚のタペストリーが壁一面覆っているのだ。
「前からこれが見たかったの!」
絵画と見紛うほどの精密な図案が織り込まれた、六枚の赤いタペストリーだ。
それぞれに若い貴婦人がユニコーンとともにいる場面が描かれている。
金髪に水色の瞳の貴婦人は、戯れる一角獣を伴い、猿、犬、ウサギ、オウム、ライオンに囲まれている。
タペストリーの赤い地は、オレンジの木、松、ヒイラギやオーク、小さな花々で埋め尽くされている。この模様は、
「可愛らしい……」
茉莉香はユニコーンの姿に、微笑ましい気持ちになる。
猿やウサギなどの小動物だけではなく、ライオでンさえ愛らしい。
ひときわ幅の広い、天幕を背景とした一枚に「我が唯一つの望み」(A mon seul desir)とある。
天幕入り口の前に立つ貴婦人は、これまでの五枚のタペストリーで身に着けていたネックレスを外して、右にいる侍女が差し出した小箱にそれを納めようとしている。
世俗的な感情を放棄することを示しているとも、愛、処女性、結婚に入ろうとしている姿を表しているともいわれている。
貴婦人のただ一つの望みは何なのか、何のために天幕に入ろうとしているのか……
茉莉香は貴婦人の心に思いを馳せた。
翌日から、茉莉香と前川夫妻の生活が本格的に始まった。
茉莉香は学校へ、由里たちは物件探しに出かける。
由里の部屋にはキッチンと食堂があり、滞在中はそこで食事を作って一緒に食べる。単に食事を共にするだけではなく、父親から茉莉香を預かった手前、生活ぶりを観察することが、自分の義務だと由里は考えていた。
「今日から学校ね。頑張ってね。茉莉香ちゃん」
「はい! 由里さんも」
茉莉香は語学学校へ行く。同じ日本人の学生の何人かと親しくなった。
彼女たちは放課後茉莉香を誘うが、茉莉香はサンジェルマンへ向かい、夏樹と落ち合う。
夏樹も放課後は仕事があるので、会うのはそれまでのほんの短い時間だ。
「じゃあ、茉莉香ちゃん」
「お仕事がんばってね」
別れた後、茉莉香は買い物をし、夕飯の支度をする。
由里たちは五時で仕事を切り上げるので、食事をしながらその日の出来事を話した。
滞在するのは、二週間と前後の二週末。実際には十八日間。
今までにないほど幸福な春休みだ。
そんな風に最初の一週間は過ぎ、再び土曜日が訪れた。
茉莉香は夏樹に連れられて、サントノレ通りのブティックを訪れる。
建物すでに完成していて、現在は内装工事をしていた。
外部から、せわしなく働く職人たちの様子を垣間見ることができる。
「ここが俺のバイト先が手掛けているブティックなんだ。注目中のデザイナーの店だよ。何度もプランの変更があって、俺がいる間には間に合わないかもしれないな……」
と、夏樹が言うと、
「でも、この建物はずっとパリに残るのよね」
「そうなんだ! この建物は俺がいなくなっても、ここに残り続ける。この仕事をしていてよかったと思うよ!」
笑顔で見つめ合う。
その後、二人は再びパリの街を巡り始めた。
エッフェル塔へ行き、セーヌ川のクルーズ船に乗り、シテ島へ……。
「なんてステキなのかしら……」
茉莉香は風景の一つ一つを目に焼き付けようとする。
こんな風に二人で過ごす時間は、もう持てないかもしれない。
何物にも代えられない貴重な時間だ。
一時間ごとに約束の電話を架ける。
由里は、
「はい。はい。楽しんできてね♪」
と、優しく言ってくれる。
父は……
ほとんど口を利かない。
無言の相手に電話をすることに無意味さを感じるが、二人で過ごす楽しさに比べれば、何でもないことだ。
夏樹は時間通りに茉莉香を送り届け、別れ際に、
「明日は日曜日だね。天気が良かったら、サンマルタン運河をクルーズしよう。映画の舞台にも使われたところだよ」
と、言った。
「ええ」
茉莉香が笑顔でこたえる。
……だが……
「ごめんなさい」
窓から夏樹を見送りながら、茉莉香はつぶやいた。
茉莉香には、明日、訪れなくてはならない場所がある。
すでに心に決めたことだった。
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貴婦人と一角獣
六枚のタペストリーにはそれぞれにテーマがあり、味覚、聴覚、視覚、嗅覚、触覚、そして「我が唯一つの望み」です。
2013年7月〜10月にかけて、東京と大阪で公開されました。
壁一面を覆う赤いタペストリーは壮観です。(#^.^#)
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