第40話 夢を描く

 翌日、茉莉香は由里から叱られた。

 由里の怒った顔を見るのは初めてだった。


「とにかく、お父様には報告するわね」


「はい」


 過去のことを父に思い起こさせるのは気が引けるが仕方がない。


「それから、放課後は、お買い物以外はまっすぐ家に帰ってくること」


「はい」


 夏樹に会えなくなるが、これも仕方がない。

 もしや、日本に呼び戻されるのでは? と、恐れていたがそれには至らなかった。


 茉莉香は、学校が終わるとスーパーかマルシェで買い物をして家に帰る。

 学友たちと寄り道をすることもできない。


 だが、それは茉莉香にとって都合のよいこととなった。

 翻訳の締め切りが迫っているのだ。


「さぁ、仕上げなきゃ!」


 仕上がった原稿をメールで送ればいい。


「日本を離れても仕事ができるなんて……」


 現代のネット社会では当たり前のことが、自分のこととなると意外な気もする。


「これならば、どこにいても仕事が続けられるんじゃないかしら?」


 自分なりの働き方のイメージが、ぼんやりと輪郭を描いていく。

 おそらくそれは、次第に明確なものになっていくのではないか?


「気が早すぎるかしら?」


 それでも、時折手を止めては、この素晴らしい夢に浸った。

 

 せっかくパリにいるのに夏樹に会えない。

 残念な気もするが、あのとき迎えに来てくれた姿を思い出すと、心の中が温かくなるようだ。


 翻訳の仕事が一区切りつくと、夕食の支度にとりかかる。


「今日は、天婦羅うどんにしてみたわ。そろそろ日本食が恋しくなるんじゃないかしら……スーパーにいけば、日本の食材が手に入るから便利だわ」


 天婦羅は玉ねぎと人参のかき揚げにした。

 間もなく由里たちが帰ってきて、食事に舌鼓を打つ。


「あー美味しい! お店の日本食とは、やっぱり違うわねぇ」


 と、好評だった。


 茉莉香は、由里と食事の後片付けをすると、部屋に戻って仕事の続きを始める。

 そんな風に一週間が過ぎようとしていた。







「それにしてもねぇ」


 由里が無言の前川氏を前に話す。


「私たちは六時まで帰らないのだから、黙って会おうと思えば会えるのに……本当に茉莉香ちゃんは、お買い物以外寄り道しないのね……」


 由里が言うと、無言のまま前川氏が笑顔を見せる。


「本当に。真面目と言えば真面目だけど……」


 由里は腕を組んで考え込んだ。





 明後日は帰国となる、金曜日の夜が来た。

 由里と夫が、仕事を終えて帰って来る。

 物件探しの目途が立ったようだ。

 最後のディナーは外食することになっているので、今夜は茉莉香が作る最後の食事だ。

 茉莉香は、クスクスと鴨のコンフィ、コンソメスープにサラダ、デザートのブラマンジェを作って、二人の帰りを待っている。

 


「まぁ、ご馳走ね!」


 由里は大喜びだ。


「このお家で食べる最後のディナーですから」


 夕食後、由里の部屋に呼び出された。

 何か話があるのだろうか? 茉莉香が考えながら部屋に入ると、笑顔の由里に迎えられる。

 

「あのね……茉莉香ちゃん。お父様に相談したの。明日は、夏樹クンと外出してらっしゃい」


「えっ? いいんですか?」


 思いもよらなぬ素晴らしい提案だ。


「ええ。明後日の夕方にパリを発つから、最後の日くらいは……ね。門限も十一時にしてあげるわ」


「ありがとうございます!」


 茉莉香は急いで自室に戻ると、夏樹に連絡をとった。


「えっ!? お許しがでたんだね。じゃあどこか出かけよう。少し遠出ができるはずだ」


 夏樹も喜んでいる。


 パリで過ごす最後の土曜日は、きっと素晴らしいものになる。


 茉莉香は期待に胸を膨らませながら、外出の準備を始めた。

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