第33話 アドベントの訪問者
十二月。
クリスマスツリーの点灯式が、街のいたるところで行われ、見守る人々の顔を明るく照らす。イルミネーションで彩られた師走の街を、人々がせわしなく歩く季節になった。
その日、les quatre saisonsを一人の若者が訪れた。
「浩史さん!」
茉莉香が嬉しさに目を輝かせる。
彼に会うのは久しぶりだ。
「やぁ、茉莉香ちゃん。少し早いけど年末の挨拶に来たよ。それと年が明けたらインドに行くから、しばらく来られなくなるんだ……」
そう言って、浩史は亘や米三にも挨拶をした。
「それは寂しくなるね」
亘は浩史にテーブル席をすすめる。
「いえ。今までよりは……というだけで、また、お邪魔しますよ」
浩史が笑顔を見せる。
亘は茉莉香の方へ向くと、
「今、お客様がいないから、少し今泉君と話をするといいよ」
と、言った。
「ありがとうございます」
茉莉香は浩史と向い合せに座った。
店内はクリスマスの飾り付けがされ、二人のテーブルには、小さな天使のスノーボールが置かれている。
「浩史さんにおススメのメニューがありますよ」
「なにかな? 楽しみだね」
「アップルキャラメルをクリームティーでお願いします」
茉莉香が米三に注文をする。
間もなく、お茶とスコーンがテーブルに運ばれた。
クローテッドクリームとジャムもある。
アップルキャラメルティーは浩史のこの秋冬のイチオシだ。
浩史がスコーンを口にするのを、期待に胸を膨らませながら見守る。
「これは美味しいね! おや? 何か入っている?」
浩史が、確かめるように噛みしめている。
「ドライアップルを刻んだものが生地に練り込んであります。このお茶に合わせて由里さんが焼きました。ジャムはアップルジャムです」
浩史が喜ぶ姿を見て、思わず笑みがこぼれる。
これは、由里が苦心の末に作り出した新作なのだ。
「お茶にあうね。ここまで美味しいと感動する!」
「浩史さんに来ていただいてうれしいです。随分お会いしていないような気がして」
「大げさだね」
浩史が笑う。
「そう言えば、茉莉香ちゃん。エッセイ読んだよ」
「ありがとうございます。いかがでしたか?」
幾分緊張した面持ちで尋ねると、
「よかったよ。とても面白かった。茉莉香ちゃんらしい素直な文章だったね」
即座に返事が返ってきた。
「気に入っていただけてよかったです」
ほっと胸をなでおろす。
「連載でしょ? 調子はどう?」
「はい。初回はすごく緊張しましたけど、二回目からは肩の力が抜けたと言うか……」
初めて翻訳をしたときの、切羽詰まった危機感は和らいだ。
今は穏やかな気持ちで仕事に集中できる。
「茉莉香ちゃん綺麗になったね」
浩史が微笑む。
「そんな……」
茉莉香が恥じらうと、
「はは。そんなところは変わっていないか。でもね、すごく落ち着いたし、大人っぽくなったよ」
確かに、浩史とこうして話をしていても、以前のように不安な気持ちになることがない。
浩史の優しさや明るさを素直に喜べる。
「すべて順調みたいだね」
「はい!」
茉莉香は即座に返事をしたが、
「あ……でも……」
わずかに表情を曇らせる。
「どうかした?」
「……あの……春休みに留学しようと思っていたんですけど……」
「それはいいことだね?」
「父が、春休みの語学留学を認めてくれないんです。私どうしても春休みに行きたいのですけど……夏休みにしろって……」
「あ―― 」
浩史は事情を察したようだ。
「パパの言う通りです。でも……」
確かに、留学をするならば春休みでなくてもいいはずだ。だが、茉莉香は夏樹がパリにいる、今、行きたいのだ。だが、未だ父を説得できずにいる。
「そろそろ申し込みをしなくてはいけないのですが、まだ反対されていて」
「うーん。茉莉香ちゃんのお父さんは頑固そうだからなぁ」
浩史は腕を組んで考え込んでいる。
「まぁ、なぜ父の性格がわかるの?」
茉莉香が首をかしげると、
「そりゃあ、茉莉香ちゃんを見ていれば……」
浩史が笑いをかみ殺している姿を、茉莉香が不思議そうに眺めた。
「でも、きっとパリに行く機会はあるよ」
「はい!」
浩史の言葉で心の霧が晴れていく。
「じゃあ、茉莉香ちゃん。インドから戻ったら、また誘っていいかな? 僕はあきらめてないからね」
「まっ……」
茉莉香が小さく笑った。
月島での思い出がよみがえり、頬がほんのりと染まる。
茉莉香は、ガラス張りの扉まで浩史を送り出した。
「行ってらっしゃい。インドにいっても体に気を付けてくださいね」
「手紙を書くからね」
茉莉香の見送りに、浩史が手を振ってこたえる。
その姿は次第に小さくなり、やがて見えなくなった。
店が終わった後、茉莉香は自室に戻った。
翻訳の続きをしなくてはならない。
二時間ほど経ち、作業がひと段落着いた。
「今日はここまでにしよう」
―― ピンポン ――
インターフォンが鳴る。
「はい?」
「私よ。今、いいかしら?」
「まぁ! 由里さん。どうぞ!」
今日は来客の多い日だ。しかも、嬉しい訪問が続く。
「今、大丈夫? お仕事中じゃない?」
由里が、茉莉香を気遣っている。
「いいえ。今日はもうキリがいいので、終わらせたところです」
茉莉香は由里を招き入れた。
「やっぱり茉莉香ちゃんて、お部屋綺麗にしているのね。あら、お花が飾ってあるわ」
茉莉香の部屋には、花瓶に生けた花と、観葉植物の鉢植えが、いくつか置いてあり、訪れる者の目を休めてくれる。
「ありがとうございます」
テーブルに茶と菓子を並べた。
「あれはアドベントカレンダーね。そうね。茉莉香ちゃんの学校は……」
アドベントカレンダーは待降節の期間に窓を毎日ひとつずつ開けていくカレンダーである。今年は、海外旅行から戻った友人のお土産で、菓子メーカーの製造したものだ。
毎日開けるたびに、キャンディー、クッキー、チョコレート……様々な菓子が出てきては、茉莉香を楽しませてくれる。
「はい。子どもの頃は、あれでサンタクロースの来る日を待っていたんです。今も、その頃の習慣で飾ります」
茉莉香が、子ども時代を思い出しながら笑う。
ふと、由里を見ると、何か良いことがあったのか、ひどく嬉しそうな様子だ。
「茉莉香ちゃん」
「はい」
「実は、les quatre saisonsの支店をパリにつくることになったの」
「まあ!」
なんという良い知らせだろう!
「いま場所をどこにするか決めているところなの」
「おめでとうございます。早く決まるといいですね」
「それで、三月のはじめに二週間ほど、夫とパリに行くの。知合いの家に泊って物件を探すの。子どもたちは母に預けていくわ。ちょっと寂しい思いをさせちゃうけど。もう、大きいから」
“パリ”
今、最も訪れたい場所だ。
茉莉香は由里を羨望の眼差しで見つめる。
だが、由里は思いもよらぬ提案をする。
「それでね。茉莉香ちゃんも一緒にどうかと思って」
「えっ?」
突然の申し出に耳を疑う。
「私たちの宿泊する家から、語学学校に通うの。お父様は、それで納得していただけないかしら?」
「そんな……」
なんてすばらしい話だろう。
夢を見ているのではないか?
「その代わり、私の言いつけは必ず守って欲しいの。門限も決めるし、学校は休まないこと。茉莉香ちゃんを預かるからには、責任も持ちたいわ」
「はい!」
由里が笑顔で頷いた。
「じゃあ、これからお父様を説得に行きましょう。留学の申し込みの締め切りに間に合わせないとね」
「はい!」
これから父に会いに行く。
あの頑固な父親を説得しなくてはならないのだ。まだ難関は残っている。冷静にならなくてはならない。
茉莉香は、はやる心を抑えるように深呼吸をした。
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