第34話 降誕祭の夜
茉莉香の父親への説得は、一度では済まなかった。
それでも、根気よく続けた結果、ようやく許可が下りた。
数々の条件が付いているが……。
茉莉香は、条件をずらずらと書き連ねた書面を見る。
「これを夏樹さんに見せるのは気が引けるわ」
うんざりとしたような顔が目に浮かぶ。
それでも、とにかく許可が下りたのだ。
夏樹にパリ留学が決まったことを連絡した。
「そう! よかったね」
電話の向こうから、嬉しそうな声が聞こえる。
「ええ。ちょっと早いクリスマスプレゼントだわ。ねぇ。夏樹さん。今年のクリスマスはどうするの?」
「ああ、シモンの叔母さんのところで過ごすんだ。レヴェイヨンって言ってね、二十四日の夜から二十五日の昼まで、ご馳走を食べ続けるんだ。一族揃っての大宴会さ」
「まぁ!」
「だから、体調を万全にしていかないと、もたないよ。夕食の前に、シモンの家族と一緒に夜のミサへ行くんだ」
それは大変ね。と、茉莉香が笑う。
「私も学内のミサにいくわ。
「俺も一緒だな」
夏樹が笑う。
「そのあとは、家に帰って両親と過ごすの」
「そのほうがいい。茉莉香ちゃんのご両親はいい人だから」
夏樹には家族がいない。
自分が父の頑固さを嘆くことを、彼はどう思っているのだろうか。
「うん。年末年始は親孝行するわ」
「それがいいよ」
声がいつもより優しい。
「じゃあ」
「おやすみなさい」
茉莉香は学校があり、夏樹はそれのほかに仕事もある。
父の約束のもとに由里が監督官となれば、長い時間会うことはできない。
だが、パリに行ける。
それだけで十分過ぎるほど嬉しい。
気がかりな用事は無事に済んだ。茉莉香の関心は別のことに移っていく。
「もうすぐクリスマスだわ。プレゼントを探さなきゃ」
プレゼントを探して街を歩く。両親に、親しい人に……。
プレゼントを選ぶことは楽しい。
特に冬のプレゼントは、マフラーや手袋に手編みのセーター……誰に何を送ろうか?
考えるだけで心が温かくなるようだ。
天使やサンタクロース、トナカイの置物も愛らしい。
「そうだわ。夏樹さんにも……」
茉莉香は、デパートの小物売り場へ行く。
プレゼントを買い求める客で店内は賑わっていた。
そこで紺色のニットの手袋を見つける。
ベーシックなものだが、上品でスタイリッシュなデザインだ。
手首まで覆われるので、防寒の効果も期待できる。
夏樹も気に入るはずだ。
「これがいいわ! パリに送ろう」
茉莉香は、さっそく手続きをした。
クリスマスも間近に迫ったある日、
岩下義孝である。
「まぁ! 義孝君。大きくなって」
義孝の背は、いつの間にか茉莉香を追い越していた。
モデルのような母に似たのだ。これからもっと伸びるだろう。
「茉莉香がパリに行っちゃうって聞いたから、お別れに来たんだ」
「誰がそんなことを? 二週間だけよ。語学留学なの。それに来年の三月よ」
義孝のしおらしい様子を見て、茉莉香がくすくすと笑う。
「よかったぁ。もう、帰ってこないかと思ったんだ」
義孝が笑顔を見せた。
喜ぶ姿は昔のままの子どもらしい様子だが、以前に比べると、大人びて見える。
亘のもとで勉強を学んでいると聞く。その影響だろうか? それとも時の流れによる成長だろうか?
義孝の表情は穏やかで、話し方も落ち着いている。
「ねぇ。茉莉香」
義孝がおずおずと尋ねた。
「なに?」
「僕の事、怒っている? 前、ひどいこと言っちゃって……」
「ひどい事って?」
茉莉香はすぐには、思いつかなかったが、もしや……ということに行きあたった。
「あら。義孝君が米三さんにお尻を叩かれて、泣きそうになったこと?」
そう言って笑う。
「そんなことは忘れていいよ!」
義孝の顔がみるみる赤く染まり、それを見た茉莉香がまた笑った。
「そうね。覚えているわ。でもね。それで私、目が覚めたみたい」
もし、夏樹と共に生きるとすれば、自身も自立していなくてはならない。
そうでなければ、夏樹に合わせるだけの人生になり、自分を見失ってしまうだろう。
夏樹から、突然留学の話を持ち出された時、自分はただ
誰もが口にしなかったことを、義孝は言葉にして茉莉香に突きつけたのだ。
だが、それによって茉莉香は目覚めた。
眠り姫のように……
だが、起こしに来たのがカラボスの息子と言うのはおかしな話だ。
茉莉香は、あの後の出会いや出来事に思いをはせる。
「えっ?」
義孝がぽかんとしている。
「ううん。なんでもないのよ。それよりも、義孝君もなにかやりたいことを見つけたの?」
「うん。でも、亘さんのようになれるかどうかは、わからないな……」
義孝は自信のなさそうな顔をする。
そんな義孝を見るのは初めてだった。
義孝を不安にさせているもの……。
それは、謙遜と呼ばれるものかもしれない。
亘とのかかわりを通して、義孝は自分を知り、彼の意識は広い世界に向けて開かれたのだろうか?
「私もやりたいことを見つけたばかり。でも、これからどうなるかわからないの」
二人の目が合い、互いに微笑む。
息子に関心の薄い母親、甘やかすだけの父親。学校からも見捨てられ、誰からも顧みられない少年を、茉莉香は不憫に思いながら、夏樹に重ね合わせていたのではないか? 義孝の相手をすることで、夏樹の子ども時代の埋め合わせをしようとしていたのかもれしれない。
ふと、茉莉香は最後に会った義孝の子どものような姿を思い浮かべる。
「茉莉香? 泣いているの?」
「まさか……目にゴミが入ったのよ」
おかしな言い訳だ。
目頭が熱い。
義孝を抱き寄せたい衝動に駆られたが、そうするには彼の背は高すぎた。
二十二日の夕方、茉莉香は宅配ボックスに荷物が届いているのに気が付いた。
「まぁ! プレゼント!」
包みを開けると、白いファーの付け襟が入っていた。肩にかけるとふわりと軽く暖かい。先端に黒いビロードのリボンが付いていて、首元でリボン結びにして留めるデザインだ。
「暖かい……」
そっと頬ずりをする。
―― チリリン ――
茉莉香のスマホが鳴った。
「夏樹さん!」
「茉莉香ちゃん? 手袋ありがとう! こっちは、凄く寒いんだ! これは暖かいから助かるよ!」
「私も、これすごく暖かいわ!」
クリスマスは温かいプレゼントを贈り合うことができる。
それらは心まで温めてくれる。
やはり素晴らしい。
「喜んでくれてよかったよ」
茉莉香が、ほんの少し沈黙した。
「どうかした?」
夏樹が、茉莉香の様子を気遣う。
「よかったなと思って……」
「え?」
「ううん。プレゼント、喜んでくれて……」
「ああ。それ? すごく助かるよ! じゃあ、良いクリスマスをね!」
「ええ。夏樹さんも」
会話は終わった。
茉莉香は、口にすることがなかった言葉を思い起こす。
日本とパリでは、八時間の時差がある。茉莉香が日本で眠りに就いている頃、夏樹はパリでミサにあずかるのだろう。そのあとシモンという名の友人たちと、食事をして過ごすのだ。
茉莉香は、人々が神の降誕を祝うパリの街で、夏樹に共に過ごす相手がいることを安堵していたのだ。
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