第23話 はちみついろの街
その朝、夏樹は朝七時に家を出た。
肩に茉莉香から贈られた、リュックサックを背負う。
「軽いな。それに使いやすい。さすが茉莉香ちゃんは見る目がある」
茉莉香が真剣にプレゼントを選ぶ姿が目に浮かび、思わず顔が緩む。
フランス西南部への旅に出るのだ。
「まずは、シモンの家があるサルラだな」
シモンは、すでに帰省していて現地で待ち合わせることになっている。
夏樹は、シモンの家に二泊した後、近隣の村を巡る予定だ。
サン=ジェルマン=デ=プレ駅から、モンパルナス、ボルドー・サンジャン駅と乗り換え、目的地のサルラへ到着する。
五時間半の長旅。これだけの遠出は初めてだ。
電車に乗りこみ目的地へ思いを馳せれば、パリが後ろに遠ざかっていく。
ボルドーで乗り換えたとき、リュックから弁当を取りだす。
ハムとチーズのサンドイッチ。
遅い朝食だ。
食べながらガイドブックを開く。
「ヌーベル=アキテーヌ地域圏のドルドーニュ県……人口一万人に満たないのか……面積が47.13km……この広さだと、人口密度は低いな。それでも、夏には観光客が押し寄せるのか……」
サルラは日本での知名度は低いが、ヨーロッパでは人気の観光地だ。
夏樹は、車窓から外を眺める。
旅はそれ自体に価値がある。移動に伴い景色が変わることも、特徴のない風景が変わらず続くのを眺めるのも楽しい。
「そう言えば、サルラに着く前に小さな村が見えるって言っていたな……」
遠方に小さな村が見えてきた。
「もうすぐだ!」
列車は目的地サルラに到着した。
駅でシモンに迎えられる。
「夏樹!」
シモンが嬉しそうに手を振っている。
「ひえー! 何にもないのな」
夏樹が周囲を見回す。
駅の周辺は、家がまばらに建つ田舎町だ。
「驚いた? 旧市街地までは、歩いて二十分なんだけど、バスもタクシーもないんだ」
「大丈夫! 歩こうぜ」
夏の日差しが照り付ける中、二人は歩き続けた。
徐々に風景画が変わり、
サルラの新市街地だ。ここにシモンの家がある。
到着と同時に、シモンの両親に迎えられた。
「遠くからお疲れでしょ? まずは、昼食をどうぞ……」
そう言って、ローストポークとポテトの付け合わせ、サラダ、デザートにはクルミのケーキが出される。
どれもが美味い。
「お口にあうかしら」
「はい」
「いつも息子が世話になっていると聞いて、ぜひ来ていただきたかったんですよ」
「こちらこそ。シモンにはいつもお世話になっています」
礼儀正しい態度を、シモンが怪訝そうに見ているが、夏樹はそれを無視する。
両親は、シモンに似て、大柄で人が良く、息子の友人を心から歓迎しているようだ。
昼食を済ませると、荷物を置いて旧市街地へ向かった。
風景が突然変わる。
中世の街が眼前に現れたのだ。
「これは、凄いな」
思わず息を飲む。
「シモン。お前の言うとおりだ。本当に美術館に迷い込んだようだ!」
中世の街並みをそのまま残した風景が広がる。
街全体に統一された美しさがある。
クリーム?
ベージュ?
いや……。
「はちみつ色だ」
まずは、サルラの中心地にある大きな広場「リベルテ広場」に案内される。
「ここが、街で一番にぎやかな所だよ。土曜日には朝市が開かれるんだ」
シモンの言葉どおり、広場は観光客で溢れていた。
人混みを縫うように二人は歩く。
そのあと、サン・サセルド大聖堂を訪れる。
「十六〜十七世紀の建物なんだ。塔が町のどこからも見える」
十二世紀に修道院として建てられ、その後、増改築が重ねられ大聖堂となったもので、歴史を感じさせる重厚感のある石積造りの建築物だ。
「中に入ろう」
聖堂に入ると、外観とは違う世界が二人を待っていた。
「表面とは雰囲気が全然違うな」
夏樹が、天井を見上げながら言う。
リヴ・ヴォールト―と呼ばれるロマネスク様式のアーケードが連なり、明るい色調のドームが解放感のある空間を作り上げている。
クリアストーリーと呼ばれる
「サン・サセルドの生涯をつづったものだよ」
シモンがステンドグラスを指さす。
素朴で繊細な聖堂だ。
一歩踏み入れれば、外界を忘れ、平穏な空気に身を置くことができる。
聖堂を出ると、向かいの建物の前に人だかりができていた。
「ここは、ラ・ボエシの家」
ラ・ボエシは、十六世紀の人文学者で、裁判官でもあった人物だ。
サルラの観光スポットの一つだ。
その後、サン・サセルド大聖堂裏手の墓地に建てられた「死者の角灯」へ行く。
ここは人影もまばらだ。
草むらに建つ、尖った筒状の塔が、もの悲しく見えるのは気のせいだろうか……。
「今日は、この辺で……長旅で疲れたろ? 夕飯はフォアグラを出すって、母さんが言っていたよ。ワインも美味しいのがあるんだ」
二人はシモンの家に戻った。
翌朝、夏樹は朝早くから目が覚めた。
昨夜は、客用の一人部屋を与えられていた。
「今日は、一人で周ろう」
出された朝食を食べ、礼を言って、家を出る。
「ガイドブックでは、二時間程度で足りるって書いてあったけど、いくら周っても飽きないな。シモンの言ったとおりだ。聖堂の塔が街のどこからも見える」
街全体が美術館。
確かにその通りだと思う。
石畳が敷き詰められた通りには、ガチョウの銅像、看板、絵皿、土産物が並ぶ。
色とりどりの菓子、ポストカード、絵画で彩られた店。
路地裏にはカフェが並び、店の外のテーブルで客たちが食事を楽しんでいた。
窓辺に飾られた
すべてが味わい深く、心をとらえて離さない。
湿度は低いが、気温は高い。空は青く高く、強い日差しが肌を刺す。
だが、それさえも苦にならない。
時折、カフェで喉の渇きを癒しては、何度も同じところを歩き続けた。
細い路地の一本一本を巡る。
歴史を物語る建物の染みさえ、深く心に迫る。
聖堂にしろ、ステンドグラスにしろ、パリ周辺だけでも、もっと荘厳なものはあるだろう。夏樹はそれらのいくつかをすでに見ていた。
だが、この街にはそれらに引けをとらない魅力がある。
どれほど時間が経っただろうか?
「夏樹! ここにいたんだね」
背後から自分を呼ぶ声がする。
シモンだ。
暑い中、自分を探し回ったのだろうか。ひどく汗をかいている。
「もう夕飯だから、迎えに来たんだ。でも、心配しちゃったよ。この日差しの中で、倒れていたらどうしようって。君、随分日焼けしたね」
シモンがおかしそうに笑う。
「そうか……そんな時間か」
いつの間に……と、思う。
夏の日が暮れようとしていた。
太陽がゆっくりと地平線へと傾き、夕暮れが街を包み込もうとしている。
「夕日がきれいだね」
「ああ……」
はちみつ色の街が、
目が眩むほどの輝きだ。
「僕は、この時間帯が一番好きなんだ」
シモンが街を見渡しながら言う。
「サルラは、中世からベネディクト会派修道院の周りで発展した都市でね。1962年に施行されたマルロー法で、国内で初めて景観保護地域の復興が行われたんだ」
夏樹はシモンの話に聞き入る。
「フランス各地の美しい街が、徐々に破壊されていった中で、サルラが救われたことは奇跡なんだ」
夕日がシモンの顔を照らす。
「僕は、ここに戻って、この美しい街を守る仕事をしたい……」
夏樹は、シモンの作品の調和のとれた品の良さが、この街に育まれたものではないかと思った。
「ああ、お前ならできるよ」
夏樹が、ぼそりと言う。
「本当? 君にそう言われると嬉しいよ」
シモンは夏樹の言葉を心底喜んでいるようだ。
自分が
「俺はどこにいくのだろう?」
明後日には、サルラを離れ、ドルドーニュ渓谷に行く。
ベナック城とカステール城を訪れ、美しい村々を巡るのだ。
また一人になる。
無性に茉莉香に会いたかった。
だが、会ってどうするのか?
今の自分は、やりたいことも、すべきこともわからないのだ。
茉莉香を安心させるための、言葉を告げることさえ出来ない。
「ねぇ。夏樹」
シモンの呼びかけに、夏樹が我に返った。
「明日は、僕と二人で周ろう。美味しい店を知っているんだ。ここは美食の街なんだからね」
シモンの言葉に、ほっと心が安らぐ。
少なくとも、明日はともに過ごす相手がいるのだ。
「お前、そんなんだから太るんじゃないか?」
「そうかもしれないね」
シモンが笑う。
街に宵闇が忍び寄る中、二人は新市街地へと戻って行った。
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マルロー法
フランスの作家でもあった故アンドレ・マルロー文化相により1962年に策定されました。
マルロー法が示した保全地区という考え方は、
世界で最初の歴史的環境を保全する法律といわれています。
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