第9話 昼下がりの決闘
ある午後、夏樹はles quatre saisons一人で向かった。
今日は、朝から嫌な予感がする。
理由は将太の態度だ。
「すっ、すみません。今日は一緒に行けません」
怯えたように夏樹の誘いを断った。
誘いを断るのは特に問題はない。彼にも仕事があるのだから。だが、気になるのは、おどおどとした態度だ。なにかを隠しているように思える。
不吉な予感を抱きながら、les quatre saisonsの入り口に立った時、彼は自分の勘の正しさを知った。
店は、異様な緊張状態に包まれている。
茉莉香がある人物の接客をしていた。六十代くらいの男性。短く刈り込んだ髪はほとんど白くなっていて、顔にも皺が刻まれている。年齢よりも上に見えるが、顔には生気があふれている。老け顔なのに若い………見覚えがある。いや、あり過ぎる顔がそこにあった。
「お、親方?」
夏樹は文字通り心臓が止まりそうだった。
そのつぶやきが、亘の耳に入る。
亘は、夏樹がそれまで見たことのないような視線を向けてきた。
現在、茉莉香と親方は紅茶をめぐる壮絶な攻防戦を繰り広げている。
「色が薄くないか? 量が足りないじゃないか?」
険しい顔と、凄みのある声で“親方”が言う。
「これは、ダージリンの
茉莉香が笑顔で礼儀正しく答える。
「さっきポットが熱かったぞ! 茶が台無しじゃないか?」
「沸騰したてのお湯で淹れると茶葉がよく開きますので」
お客様の疑問には丁寧に答える茉莉香であった。
「味がしないな。渋いし、青臭い」
「日本茶は旨味を、紅茶は渋みを味わいます。みずみずしい若草のような香りがこの茶葉の魅力です」
しばらく沈黙がある。飲むときは黙るようだ。
「確かに渋いが、深みがあるなぁ」
しみじみと味わっている。
「重厚な渋みのあるお茶が良いものとされます」
お茶のよさが理解された喜びに、茉莉香の声が弾んだ。
「それに、この青臭さも、爽やかと言えないこともないな」
そしてスコーンを食べる。
「なんだこれ? ぼそぼそするぞ」
「こちらのクローテッドクリームをたっぷり塗って召し上がってください」
「うん。悪くはないが、俺はみたらし団子の方がいいな」
「紅茶には、バターなどの乳製品を使ったお菓子が合います」
「ふーん。悪くないよ。茶も菓子も」
店に入ろうとする客たちが、異様な空気を感じて立ち去ってしまうのを止めることもできず、亘はただ、すまなそうに頭を下げることしかできずにいた。
夏樹は、このあと自分に降りかかることを覚悟した。
今日の亘なら、自分にどんな質問でも迷うことなくできるだろうと。
“親方”は、一通り飲み食いが終わると、あたりを見回し、この店に来た目的を見つけた。
「おい! 夏樹!」
鋭く言い放つ。
「親方」
返事をするのが精いっぱいだった。
「ここのところ、お前の食費がやけに上がっているから、将太を問い詰めたら、この店を教えられたよ」
そして険しい顔つきのまま、夏樹のそばに寄ってきた。
どやされる。悪くいけば殴られるかもしれない。借金がある身で、こんな高い店に通っていることがばれてしまったのだ。将太を恨むのは酷であろうが、そうせずにはいられない。
だが、親方は表情を緩めると、いままで聞いたことのないような優しげな声で言った。
「いい店だな。それにいいお嬢さんだ。お前が通い詰めるのもわかる」
そして、いつもの険しい顔に戻ると、凄みのある声で耳元に囁いた。
「あのお嬢さんに、借金のある身で半端な真似をしてみろ。ただじゃぁ、おかないからな」
言ったことは絶対実行する人間である。客の前でも決して意見を曲げなかった親方を、嫌と言うほど知っている夏樹は、激しく首を縦に振った。
親方は優しい顔を茉莉香に向けた。
「ありがとな。いろいろ親切に説明してくれて、勉強になったよ。娘に土産を買ってやりたいんだが、なにがいいかな? 誰が飲んでもわかるようなのがいいが……」
「それでしたら、“アップルティー”がよろしいと思います。私も好きなんですよ」
「そうか、あんたが好きならそれにしようか」
優しい声が夏樹にはむしろ恐ろしい。
「また、おいでください」
茉莉香は笑顔で見送るが、亘はうんざりしているようだった。
親方は礼を言って帰って行った。
「大変だったね? 茉莉香ちゃん。大丈夫?」
亘と未希が
「はい。お茶に対して真剣な方に説明をするのは、楽しいです」
「それならいいけど」
視線がいっせいに夏樹に集まる。
もう黙っているわけにはいかないだろう。もともと隠しているわけでもない。
夏樹は観念して自分の身の上を話した。
自分は中学を卒業した後、大工の棟梁の弟子になったこと。その後、彼の勧めで高認の資格をとり、大学へ進学をしたこと、生活費、学費などのすべての費用は親方から出ているが、いずれは返さなくてはいけないことなどを話す。
「なるほどね。苦労しているんだ。でも、すごいね。君は努力家だし、優秀だ」
亘が自分の話を好意的に受け取ってくれたことが意外だった。
「本当に!」
茉莉香も未希も口々に夏樹を褒めた。
茉莉香にいたっては、キラキラした目で自分を見ているような気さえする。
だが、
「茉莉香ちゃんもすごいよ」
「え?」
「親方はめったに人を褒めないんだ」
恐れ知らずの勇者を称えるように夏樹が言った。
亘も、夏樹の正体がわかり、ひとまず安心することができた。まだまだ隠していることがありそうだが、あの親方と呼ばれている人は、頑固で偏屈だが、真っ当な人間であることに間違いはなさそうだ。その彼が、見込んで大学に行かせた人間だから、信用できるだろう。
それよりも、現在憂うるべきことは、“親方”を恐れた人のせいで、客足が鈍り、食材が余ってしまったことだ。すでに閉店時間は過ぎている。
亘は決断し、そしてこう言った。
「お店を閉めたら、お茶にしよう。残ったケーキやスコーンを食べてしまおう!」
夏樹を心配して、将太が顔を出した。おどおどと店に入ってくる。彼もこのお茶会に加わることになった。
ポットを持ってきて、お茶を淹れる。
「北山君と田中君はこういうのはどうかな?」
ローストビーフの厚切りを、玉ねぎと一緒にトーストした二枚のパンで挟む。切り分けることはしない。そのままかじって食べるだけだ。
「うまいなぁ」
二人にはボリュームのある食事がありがたいようだ。
茉莉香と未希は、アップルティーとスコーン、洋梨のタルト、そのほか好きなものを挟んでサンドイッチを作っては食べる。
一時間あるいは、一時時間半ほど経った頃だろうか、
「お腹いっぱい」
テーブル席を離れた未希がカウンターに座る。疲れたのか、いつものキラキラとした快活さがない。
「どうかした?」
亘が声をかける。
「実は、前から演出家の先生に、君の演技には深みがないって言われていたんです」
見込みがありそうなので、いろいろ役につけてはみたが、人間的な成長が見られないと言われたという。
「私もお客さんに喜んでもらおうと、一生懸命やっているんです。それなのに、心がこもっていないとか、心情が理解できていないとか言われて、困ってしまって……」
そして続ける。
「でも、さっきの茉莉香ちゃんを見て、夏樹君が怒った理由がわかるような気がしました」
未希はあの日の記憶があり、しかも気にしている。
「あの親方さんも、真剣にお茶に向き合っていたのに……」
「いや、あれは真剣と言うよりクレーマーに近いよ。ああ手合いは、もうこりごりだよ」
“お客様に喜んでもらいたくて”
未希はそう言った。
それは、普段の働きぶりでもよくわかる。
実際、明るく親切な彼女は客から人気がある。
サービス精神はエンターテイナーに限らず、どの職業でも必要だ。
だが、未希に不足しているものを挙げるとすれば、仕事に対する興味、あるいは愛着と呼ばれるものだろう。
今の未希にそれをどうやって伝えるべきだろうか?
亘は言葉を探しながら言った。
「まずは、好きなお茶を一つでいいから見つけてみようよ。茉莉香ちゃんは、アップルティーが好きなんだ。ダージリンは渋いから飲みづらいって」
未希の顔がほころんだ。
「親方さんには、『紅茶は渋みを味わいます』って言っていたのに」
そうだね。と、亘も笑う。
「なにが好きで、なにが嫌いかは自由だよ。ここでは自分の好きなお茶を楽しんでもらいたいんだ」
「はい。見つけます。でも、オススメはありますか?」
「そうだねぇ。果物のようなお茶と、お菓子のようなお茶、どっちがいい?」
「お菓子のようなお茶!」
「じゃあ、この“キャラメル”なんてどうかな?」
亘は、甘い香りのお茶を出した。
「ほんとうに、お菓子のような香りがしますね。それに甘みもあります」
「気に入った?」
「はい」
「そういえば、こんな風にゆっくりお茶を飲んだことなかったかもしれませんね。これからは、もっといろいろ飲んでみます」
なぜ、未希は覚えていないと嘘をついたのだろうか?おそらく心配をかけまいとする配慮だろう。未希らしい心遣いだ。夏樹が知れば、「そんなところに気を使うな!」と逆切れされそうだが。
(なかなかの名演技だったな)
と、亘は思った。
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