第8話 図書館と聖域

 観劇の翌朝、亘は理不尽ないら立ちに襲われた。夏樹が昨夜のことをまったく覚えていないというのだ。


「途中からの記憶がまったくないんですよね」


 と、言う。


 彼は昨夜亘のリビングのソファーで過ごしたのだった。二日酔いの気配すら見せず、亘の作った朝食を旨そうに食べている。


(食べる姿も様になっているな)


 旺盛な食欲が気持ちよいほどだが、それでいてがっついた印象を受けない。

 どこまでも品の良い青年だと思う。


 黙っていれば……。

 


 夏樹は茶を飲みながら、


「これ、市販のティーバッグを適当にぶち込んでいますよね。普段はこんなの飲んでるんですね」


 昨夜の未希への暴言は酒のせいだけではなく、この青年は思ったことをそのまま口にする性格なのだ。亘は夏樹の性格を理解し始める。おそらく、今まで一言も口をきかなかったのは、欠点が露呈することを恐れてのことだったのだ。茉莉香がいない今、その警戒心が緩み切っている。


 

  亘はles quatreカトル saisonsセゾンのあるマンションの最上階に住んでいる。フロア全体が亘のプライベートスペースだ。他の部屋よりも天井が高く、ルーフバルコニーから明るい光が差し込んむ。

 

 申込制の共有スペースだった部分も、改築により彼の専用となった。もともと契約には無い、おまけのような存在であったことと、騒音などを気遣い、利用者が少ないため、苦情が出なかったのが幸いであるが、なんだかんだと言って、息子に甘い彼の父親である。



「すっげー部屋ですね。でも、岸田さんにしては平凡じゃないですか? それに、普通なら十分過ぎる広さだけど、家の構造からいくと、このキッチンとリビングは狭いような気もするんですけど」


 かなり不躾な質問だが、建築を学ぶ者の好奇心としてとらえることにした。 


「他に寝室と書斎があるけど書斎が場所をとっているんだ」


「入ってみたいな。岸田さんの書斎。『薔薇の名前』の図書館みたいなんじゃない?」


「おや、君の年にしては古い映画を知っているね」


 夏樹がいかにも年下であるかのような言い草だが、亘自身もリアルタイムで観たわけではない。


 ウンベルト・エーコ原作の小説を映画化した作品である。中世の修道院を舞台とし、細密に再現された世界観と、ショーン・コネリーの名演で知られる。


「俺、DVDで観てるし、原作も読みましたよ。でも、ねちねちしていて、うんざりしちゃいましたよ」


「君にかかっては名作も形無しだね」


「でも、あの図書館のシーンはいいですね。あんな風に本に囲まれて過ごすのは悪くないですよ」


 昨日からの出来事でうんざりしていた亘は、ちょっとした気晴らしを思いついた。

 

「意外だな、茉莉香ちゃんの部屋の方が気になると思っていたけど」


「えっえっぇつ!!! そんな。そんな!」


 茉莉香はこのマンションの階下に住んでいる。


 夏樹は真っ赤になって反論するが、許されるかどうかは別として、彼のような若い青年にとってむしろ自然なことだろう。

 

 夏樹のうろたえる姿を見て、留飲りゅういんが下がったのも束の間、すぐに煩わしい質問が亘を悩ませる。



「岸田さんは茉莉香ちゃんの部屋に入ったことはありますか?」


「ないよ」


「大家さんとしては?」


「ないよ。補修とかは管理会社に頼んでいるからね」


「茉莉香ちゃんが岸田さんの部屋に入ったことは?」


「ない!」



 ほんの一瞬夏樹が沈黙した。


 亘は次の言葉を待った。



「あの、岸田さんが茉莉香ちゃんに親切なのは、同じマンションの住人だからですか?」


 おそらく夏樹は何かを感じ取っているのだ。彼は口うるさいだけではなく、聡い人間でもあるようだ。

 

「それもあるけど。茉莉香ちゃんのご両親からも頼まれているんだ」


 これは嘘ではない。亘の目が届くところなら安心だろうと、茉莉香の両親が一人暮らしを続けることを認めたのだ。


「それより君はどうなんだい?」


 曖昧な答えに加え、逆質問で切り返す。


「なにしろ、ご両親に頼まれているんでね」


 いつの間にか亘が質問する側に回っていた。彼は決して主導権を夏樹に渡すまいと思う。

 夏樹は自分の部の悪さを思い知ったようだ。


「客です。客。それ以外ないのはわかっているじゃないですか」


「ああ、そうだよね」


 亘はさらりと言って、会話を終わらせた。


 夏樹は黙って食事に専念し、終わらせると、礼を言ってサッサと帰って行った。




 翌日、亘は憂鬱な気持ちで朝を迎えた。

 夏樹にあれだけ酷いことを言われた未希は、どんな気持ちでいるだろうか? もし、辞めたいなどと言われたら困る。確かにミスは多いが、ある程度のことはやってくれているのだ。そんな心配をしながら店へ降りて行った。


 ところがだ……。


 記憶のないのは未希も同様だった。


「途中からの記憶がまったくないんですよね」


 と、いつものように明るく給仕をしている。


 とにかく丸く収まりそうでよかった。亘はほっと胸をなでおろした。

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