第4話 something good
夏樹はまず名乗り、ある国立大学の二年生であること、茉莉香とパリで会ったことを話した。現在何者であるかを明かすだけでいいだろうと判断する。それほど親しいわけではないので、それ以上を話す必要はないはずだ。
なぜこの店に来たのかは言っていない。言えるはずもなかった。
だが、どこの学生であるかは、それなりの信用を得る役に立ってくれた。
「すごい偶然ですね! パリで会って、この店にいらしてくれるなんて」
茉莉香が感極まったように言う。
「は、はぁ……」
「あそこの学生さんってことは、優秀なんだね」
亘が意外そうに言った。
「そうなんです。アニキは天才なんです」
会話に入り込もうとする将太に亘が尋ねる。
「君は?」
「幼馴染です」
さえぎるように夏樹が言う。将太にこれ以上しゃべらせてはいけない。彼には簡潔に話をする能力がない。
「学部はなに?」
「建築学科です」
「もしかして、建造物を見るためにパリへ?」
「ええ」
「質問ばかりしてすまなかったね。水道管を修理してくれてありがとう。それからいつもお店に来てくれてうれしいよ」
「今までいろいろ茶葉を試したと思うから、今度はセットメニューをどうかな?」
セットメニューとは、今まで夏樹が払っていた茶葉の代金で、お茶と食事の両方がとれる。茶葉はセット価格に見合った種類の中から選べる。
高額な茶葉代金に、困り果てた夏樹にとってはありがたい提案だ。
夏樹は、亘がいろいろ見抜いた上で、自分を拒む様子がないことに気づく。
「はい。そうします」
「じゃあ、まずは“ハムと野菜のミックスサンド”はどうかな? 今日は、お礼に代金は店からということで」
「はい」
腹をすかせた夏樹には、ありがたい提案だった。
「君もね。えっと、将太君だっけ?」
茉莉香がサンドイッチとお茶を運んできた。
「“キャンディ”はいかがですか?お食事と合わせやすいですよ」
サンドイッチは、コンビニやパン屋で買って食べるそれとは違って格段に美味い。
「ケーキも美味しいので、いつでも来てくださいね。旅先で会った人にまた会えるなんてうれしいわ」
そして続ける。
「素敵でしたよね。パリ?」
夏樹はパリの建造物の壮麗で優美な姿を思い浮かべた。
「ああ、そうだね。エッフェル塔、凱旋門、グランパレ……」
「君はフランス語が上手なんだね」
「そんなぁ。汗だくだったんですよ。学校で少し勉強しただけなの。あの……今まで、お名前知らなくて……。なんてお呼びすれば?」
「なんとでも。そうだ。夏樹でいいよ」
「でも……」
茉莉香が戸惑っている。
「でも……じゃあ、“夏樹さん”とお呼びするわ」
「じゃあ、俺は“茉莉香ちゃん”」
そう言うと、茉莉香が笑顔で頷いた。
名前で呼び合うなんて、今まで考えることもなかったのだ。
それだけで夢のようだと思う。
食事が終わると、夏樹と将太は店を出た。
夏樹は亘が自分との会話を通して、なんらかの判断を下したことを悟った。彼は相手の言いたくないことを避けながら、話をすすめることを心得ているのだ。
恐らく自分とは縁のない世界で生きてきた人間なのだろう。
「あのお嬢さんと話ができてよかったですね」
現実に引き戻され、うんざりした夏樹が将太の頭を軽く叩く。それでも、やはり茉莉香と話ができたことは嬉しい。にやけた顔を将太に不気味がられながら家路についた。
夏樹の正体が割れてから、数日後のことである。彼は、変装を取り払ったが、相変わらず仕事を抜け出た将太と来ている。
彼は多くの課題をこなさなくてはならないため、あまり長い時間店にはいられない。茉莉香を一目見ることが叶わない日も少なくはない。
「おはようございます。あっ夏樹さんこんにちは」
ようやく茉莉香が来たが、目で追うだけで挨拶もできない。
茉莉香がトートバッグから、綴じ込み式のスクラップブックを出した。
「亘さん。マニュアルこんな感じで作っているんです。まだ途中ですけど、見ていただけますか?」
それには、カップに入った紅茶の写真と、それに対応するタイプしたコメントが貼ってある。
「写真がきれいだなぁ。それに、コメントもいいね」
「パパの一眼レフ借りました」
亘と茉莉香が楽しそうに相談をしている。
「ちょっと、見ていいですか?」
夏樹は、好奇心にかられてスクラップブックをのぞき込んだ。
「テーブルクロスが白だとお茶の色が映えるけど、もう少し色見があった方が、写真としては統一感が出るんじゃないかな?」
「えっ? 本当?」
茉莉香が夏樹に顔を向ける。
「おい、将太。カタログ出せ。カーテンのでいいからさ」
将太がカバンからカタログを取り出して、夏樹に渡す。
「ほら、こっちのクリームイエローなんてどう?」
「本当! 確かに柔らかい感じになりますね」
茉莉香が興味深そうにカタログを見る。
「まぁ、まぁ」
亘が割って中に入る。
「今回は未希さんのマニュアルだからね。なるべく早く仕上げて欲しいから、このまま続けてくれないかな」
「あっ、ごめん。口はさんで」
夏樹は口出しをしたことを後悔した。
「それにしても、君はいろいろなことに気が回るんだね」
亘は感心しているようだが、
「あ、いや……」
褒められると窮屈な気持ちになる。
将太には不思議でならない。いつもの夏樹ならば、
「どうだ!見ろ!」
と勝ち誇ったような態度をとるはずだ。それに、あんなに簡単に引き下がるのもおかしい。食い下がって自分の意見を押し通さないのは彼らしくない。
将太は、夏樹を崇拝している。虐められた時に助けてくれるからだけではない。いつも自信満々で、手が早い上に口が達者な彼に誰もかなわない。そんな夏樹は将太のヒーローだった。自分の生まれ月が一月遅いため、“アニキ”と呼んでいる。
将太は不思議に思う。何が起こったのだろうかと。夏樹は少女の前に出ると別人のようになる。彼は女にもてるほうではない。容姿と能力に引かれて寄ってくる女たちは少なくないが、辛辣な言葉と、人の欠点に対する不寛容さに嫌気がさし、すぐに離れていった。夏樹の方でも去っていく女たちに未練を見せず、日常の諸事にさっさとエネルギーをシフトするのが常だった。将太の目にはそれが冷淡に映ることもあった。
ところが、あの少女に去られることは恐れているように見える。
だが思う。これは夏樹にとってよいことに思われた。
よくわからないが、そう思う。
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