第5話 クリームティをどうぞ
「未希さん。スコーンにはコーテッドクリームとジャムを添えてください」
茉莉香はそっとセットを手渡した。
「すみません」
未希が頭を下げる。
「いやぁ、ここのはそのまま食べても美味しいから大丈夫だよ」
人の良さそうな客が優しく言う。
スコーンにクローテッドクリーム、ジャム、紅茶を組み合わせたものを『クリームティー』と呼ぶ。英国のティータイム習慣のひとつだ。ケーキやサンドイッチを添えるアフタヌーンティーよりも、気軽に楽しむことができる。
クローテッドクリームはイギリスの乳製品で、バターよりあっさりしていて、生クリームよりコクがある。乳脂肪が高い濃厚なクリームだ。これが、やや粉っぽいスコーンと絶妙にマッチする。
また、クリームをたっぷり塗ること自体を楽しむ客も少なくない。
「このまま食べてもうまい」
この言葉はお世辞と言うわけでもない。由里が試行錯誤を繰り返した末に編み出したレシピなのだ。
「これ食べちゃうと、他では食べられなくなっちゃうのよね」
そんな声も聞かれる。
それにしてもだ。未希のことでは亘も頭が痛い。彼女は店に慣れるのも、仕事を覚えるのも早かったが、ちょっとしたミスを何度も繰り返す。店長としては気が進まないが、やはり言うべきことは言わなくてはならない。
「今のはお客様が親切で言ってくれたのはわかるよね? 決まりごとは守ってもらわないと困るよ。前茉莉香ちゃんが作ってくれたマニュアルは見てくれた?」
マニュアルは写真付きで、丁寧な解説が入った茉莉香の大作である。
いつもの明るい返事がすぐに返ってこない。
「は、はい。茉莉香ちゃんに“ありがとう”ってお礼言いました」
見たには見たが、頭に入っていないのだろうと、亘は推測する。
今回のようにフォローできればいいが、できないまま客が帰ってしまった場合、店の信用にかかわるから困るのだ。
「あの、お客様も気を悪くなさっていないから大丈夫じゃないですか?」
茉莉香が取り持つ。
「そうだね。今度から気を付けてね」
茉莉香と未希は持ち場に戻って行った。
亘が店内に目をやると、夏樹が茶を飲んでいる。今日は、サングマ農園のダージリン春摘みだ。シャンパンゴールドの水色が美しい、春の新芽を彷彿とさせる逸品だ。最近は、一人でも来るようになった。なぜか、こちらを見て不満げな顔をしている。もっとも、彼が何を考えているのか理解できないのはいつものことだ。というよりも、存在そのものがいまだ謎なのである。
知性を感じさせる端正な顔立ちと、清潔だが着古した身なりがひどくアンバランスに思われる。
育ちの良さを感じさせながらも、時折見せる鋭い眼光がそれを打ち消した。
それでいて、あどけなさの残る少年の面影も垣間見られる。
だが、芯の通った真っ直ぐな性格が、話しぶりや立ち振る舞いからうかがえた。
(彼は果たして何者なのか?)
わかっているのは、偶然パリで出会った茉莉香がここで働いていることを突き止め、通い詰めるストーカーであるということだけだ。突然水道を直したことにしても、いくら建築の勉強をしているとはいえ、一介の学生としては不自然だろう。一度話を聞いてみたいが、どうすればいいのかがわからなかった。
亘が考えあぐねていると、
「亘さん。今週の土曜日の夜空いていますか?」
茉莉香が尋ねてきた。
「未希さんの劇団の公演があるのですって。未希さんも出演するんですよ。チケットがまだ四枚あるけど、私は行けなくて……」
「へぇ……」
その時、亘にある考えが浮かぶ。
「北山君。未希さんのお芝居に行かないかい? 君のチケット代は僕が出すよ。残りの二人も僕が探すけど、どうかな?」
(店の外で係わる機会ができれば、個人的な話がしやすいかもしれない)
そう考えたのだ。
「よかったですね。未希さん! いっぺんに四枚も売れて!」
茉莉香が嬉しそうに言い、当然未希も喜んでいる。
「ちょっと待って! 俺は!」
夏樹は困っていたが、茉莉香の喜ぶ様子に断り切れずにいる。
「じゃあ、今週の土曜日で決まりね」
こうして、夏樹は芝居見物に加わることになった。
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