第3話 名前を呼びたい
翌日、夏樹はles quatre saisonsを訪れた。
フードを被り、黒いサングラスで顔を隠す。
空港から付けてきたことを悟られるわけにはいかない。
シンプルだが、さり気ないこだわりが随所に見られる低層マンションにカフェはある。
「あれ? どこかで見たような……」
奇妙な既視感に包まれながら緑地帯を歩く。
目の前にガラス張りの扉。左手にはマンションの入り口。
少女は扉から入って行ったことを思い出す。
「こっちがカフェの入り口だな」
恐る恐る扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
小さく弾む声で迎えられる。
(いた!!)
今にも心臓が飛び出しそうだ。
少女は笑顔で立っていた。
タックやフリルのたくさんついたエプロンにヘッドドレス。
髪はひとつに束ねてある。
薔薇色の頬に、サクランボのような唇。
長い睫毛に縁どられた瞳でやさし気に微笑む。
メイド服はヴィクトリア朝のものだろう。
彼女によく似合っていて、
人形と違うのは、心を和ませる優しい笑顔だ。
「お好きな席にお座りください」
少女は言った。
少しでも目立たない席を選ぶ。
「ご注文はお決まりですか?」
声をかけられ、
「あ、あの……これ……」
とっさにメニューを指さす。
「キャピタル農園の春摘みですね」
「は、はい」
少女は厨房へ向かって行った。
一息ついたあと、メニューを見てギョッとする。
「なんだ!? この値段!?」
お茶一杯で、普段の食事の何倍もする。
再びメニューに目を落とすと、どれも高価な品ばかりだ。
周囲を見渡すと、学生はいない。
この価格帯なら当然だろう。
客層は近くに住む常連が主流のようだ。慣れた振る舞いから、それが伺える。
圧倒的に女性が多い。
それぞれが、楽し気に会話を交わしている。
店全体が穏やかな空気につつまれ、窓から差し込む光がそれを照らす。
温室のようだ。
やがて、
「キャピタル農園の春摘みです」
ポット、カップ、砂時計を置き、
「砂時計が落ちたときが飲み頃です」
そう告げて、去って行った。
(痛い出費だぜ)
憂鬱な気分で、砂時計が落ちきるのを待つ。
(時間だ)
カップに注がれた茶は、淡い金色だった。
(これが紅茶?)
意外に思いながら、カップに口を近づける。
若葉のような香りが、ふわりと漂う。
口に含むと、青々しい爽やかさが口に広かった。
今まで、経験のない味わい。
夏樹は、喉から鼻に抜ける余韻を楽しんだ。
それから夏樹のles quatre saisons通いが始まる。
女性ばかりの店に入りづらいため、将太を誘った。
だが、それは不要な気遣いだった。
客たちが自分を見咎めることはない。
時折目が合うと、穏やかに微笑みかけているのが、サングラス越しにわかる。
「これでは腹が空く」
と、不平を言いながらも将太はついてきてくれている。
少女と話すためにおススメを聞くが、彼自身も春摘みの風味を好んだ。
数日後、
「春摘みがお好きなんですね。もうすぐ夏摘みの季節になります。社長自らインドへ買い付けに行くんですよ。それも試してくださいね」
と、言って微笑む。
自分が紅茶好きと信じて疑わないようだ。
「はぁ……」
せっかく話しかけられても、そんな受け答えしかできない。
「あの……どこかでお会いしてませんか?」
記憶をたどるように、尋ねられるが、
「いいえ!」
ムキになって否定するしかない。
打ち明けたい。まともな状態で話がしたい。
だが、現状では望めそうもなかった。
夏樹は店内を見回した。
広さはないが居心地の良い空間。窓外の緑が美しい。
客たちの笑いさざめく声が、音楽のように耳に響く。
今まで知らなかった世界。
自分には場違いな気がした。
だが、少女は誰にでも優しく笑いかける。
夏樹にも……。
少女は素早く、手際よく働いている。
だが、忙しそうな素振りは見せない。
穏やかな表情で、緩やかに店内を歩いていく。
やがて彼女の名を知る。
茉莉香。
浅見茉莉香。
店長らしい青年が、彼女をそう呼んでいた。
二人は親しく話をしている。
自分もいつか、彼女を名前で呼びたい。
そんな日が来るのだろうか?
夏樹は、二人を羨望の眼差しで見つめた。
ある雨の日、客は自分一人だった。
何にも妨げられることなく、夏樹は厨房にいる茉莉香を見ることができる。
(やったね!)
心密かに喜んだ。
茉莉香は棚の整理をしているようだった。
丹念に仕事をしている様子がうかがえる。
だが……。
その手が一瞬止まった。
そして、その愛らしい顔に深い悲しみの表情が浮かぶ。
心がギュッと掴まれるような気がした。
幸福そのものの少女を、何がそんなに悲しませるのか?
知りたい。
もっと知りたい。
彼女を。
茉莉香のことを!
思わず、声をかけ確かめたい衝動に駆られる。
だが、
「茉莉香ちゃん」
店長が呼ぶと、
「はい!」
明るく返事をする。
悲しみは覆い隠され、いつもの明るい表情が戻る。
そして、何事もなかったかのように作業が再開された。
茉莉香は自分の顔を覚えている。
こうして夏樹は、les quatre saisonsの従業員たちに、自己紹介をしなくては
ならなくなった。
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