第2話 プロファイル 【悪童の日記】

 彼の名は北山夏樹きたやまなつき

 生まれた日、庭に咲くくちなしの花の香りに感激した母が、


 「夏の植物にちなんだ名前をつけたい」と言ったという。それで夏樹か……

 と、思うが、男の子どもに植物の名前というのも難しいのかもしれない。


 母の顔を夏樹は知らない。物心がつく頃には家を出て行ったという。父親の顔は思い出したくもない。仕事をしてはいたが、収入は少なかった。ギャンブルに入れ込んでいたため、食に費やす金は不足し、夏樹はいつも腹を空かせていた。災難はそれでは済まない。酒を飲んで、家にいることの多い父親が気に入らないことがあると彼を殴った。


  ある朝、夏樹は寝床で冷たくなった父親を見つける。 警察が来て、いろいろ調べて帰って行った。女性の警官が食堂に連れて行き、なにか食べさせてくれながら、


「これから大変だろうけど、くじけないように」


 と励ましてくれた。


 今よりも悪い状況なんてあるだろうか。

 この先のことをどう心配すればいいのかもわからなかった。



  彼は養護施設に送られたが、すぐに子どもたちから一目置かれる存在となる。まず、喧嘩に強い。年長の少年たちのやり方を見て覚えたようだ。

 

 そして……口が達者だ。

 夏樹は愛らしい子どもだった。

 端正な顔立ちは、幼いながらも知性なようなものさえ感じさせる。

 女性職員たちは「天使のようだ」と、仲間同士で囁き合った。

 

 黙っていれば……。

 

 しかし、頭の回転が速く、ひとたび口を開けば、辛辣な言葉をマシンガンのように放つ。大抵の子どもたちはここで心が折れて、次の段階(暴力による懐柔)には至らない。


 そんな中で、彼を崇拝する者が現れた。名は田中将太たなかしょうたという。図体はでかいが、とにかく鈍く、気が弱いために、虐めの対象になっていた。


 ある日、夏樹は『シートン動物記』を読んでいた。

 その中でも、“狼王ロボ”の話は特に面白かった。 狼とシートンを含む人間たちの知力、体力を尽くした攻防戦に夏樹はのめり込む。


 それを将太の弱々しい泣き声が妨げる。収まるのを待ったが、その気配がない。集中力をがれることを何より嫌う夏樹は、将太を助ける気もなく、喧嘩の仲裁(暴力による懐柔)に入ることになった。それ以降、彼は夏樹を崇拝することになる。


 将太は、夏樹と同じ頃にこの施設に来た。母はシングルマザーで、少しはいいい思い出があるのか、将太は母親にいつも会いたがる。また、母親も思い出したように会いに来ていた。




 中学を卒業すると、夏樹と将太はある大工の棟梁のもとに弟子入りした。この話は施設長の口利きで決まったと聞く。雇い主である棟梁も同じ施設の出身だと後から知ったが、問題なのは、将太と一緒だということだ。


「やられた。抱き合わせだ……」


 人気のゲームを買うために、そうでないものとセットで買わせられる、あれである。



 覚えも、仕事も遅い将太を補うように夏樹はよく働いた。まだまだ、仕事と呼べるレベルではないが、言われたことは確実こなし、それは日に日に増えていく。 頑固で口下手な親方の代わりに、客や業者に交渉することもあった。


 それでも夏樹は満足していた。


「家を建てる」


 自分が建てた家に人が住む。彼らにとって家は一生の買い物だ。

 もし、自分がこの世界で一人前になれたなら……。

 そんな風に考えるようになっていった。


 また、親方は人使いが荒かったが、気前はよい。半人前にしては給料がよく、昼食は好きなものを食べさせてくれた。夕飯をごちそうしてくれることもある。


 休みの日は、図書館で本を借りて自室で読んで過ごす。退屈な授業を受けるよりは、一人で本を読んだ方が勉強になると夏樹は考えていた。






 ある日、親方は夏樹の前にパンフレットのようなものをバラバラと広げて言った。


「お前、大学に行け。まずは、高認を受けろ」


「親方何を突然言い出すんですか!?」


 夏樹にとっては寝耳に水だ。


「生活費や授業料は出してやる。だが、貸しだ。稼げるようになったら返せよ」


「そんな金は……!」

 

 夏樹は抗議をするが、


「言うとおりにしろ!」


 と、取り付く島もない。

 いったん決めたことを彼が決して覆さないことを、短い付き合いながら夏樹はよく知っていた。


 その日から、夏樹は受験準備をはじめる。毎月末に、親方から請求書が届く。夏樹にかかった費用だ。


「この年で借金か……思いもしなかったな。しかも、どんどん増えていくなんて」


 思わず愚痴も出る。


 高認に合格し、予備校に入学した。勉強は順調に進み、模擬試験の順位も徐々に上がっていく。級友クラスメイトとの関係に煩わされず勉強に専念できる環境は、彼の性にあっていたようだ。


 こうして、十九歳の時、普通の高校生から見ると、一年遅れて建築学科のある国立大学に無事入学した。


「国立で助かったぜ。私立だと思うと……」


 想像するだけで、背中に冷たいものが走る。


 建築意匠、歴史、工学、環境、情報、製図、模型の作成……授業の内容は幅広く多忙だが、休日には、実際に建築物を見に足を運ぶ。 目的意識を持って過ごす毎日は充実していた。

 能動的に調べ、学ぶことにより、知識が増え、視野が広がっていくのを感じた。これは、夏樹の想像を大きく超えた経験である。



 もうすぐ、一年も終わるだろうという頃、突然、


「お前も、見分を広げた方がいいからなぁ」


 と、親方からフランス旅行のパンフレットを渡された。


「そんな……親方。俺、金ないよ!」


 夏樹は慌てる。これ以上借金を増やすのはごめんだ。

 しかし断ることはできない。彼に何を言っても無駄なのだ。


「また、借金が増えちまう……。でも、フランスかぁ。確かに行ってみたい!」


 借金は恐ろしいが、好奇心の方が勝る。


 こうして、夏樹はフランスへ渡航した。


 伝統ある建造物を間近でみるのは、貴重な経験である。春休みに安いツアーで、安宿に泊まり、パリを中心に見て歩いた。ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、アールヌーボーを経て現代へ……。

 

「やっぱり本物を見るのはいいな。来てよかった! 親方には感謝しなきゃな」


 大満足の旅行となった。


 明日は帰国という日、それは起こった。サンジェルマンのカフェで食事をし、支払いをしようとしたとき、


「財布がない」


 そうだ。昨日財布を入れるカバンを変えたのだ。 ホテルに戻ればある。


  それをギャルソンになんとか伝えようとするのだが、うまく伝わらない。


「だからぁ! ホテルの部屋に置いてきたんだよ!……俺の英語が全然通じないなんて……! くそー! このままじゃ警察行きになっちまう!」


 その時だ、


「すみません! その方、お財布を忘れてきたと言っています!」


 一人の日本人少女がフランス語でギャルソンに訴え出た。 


 夏樹も、旅行に来る前に、多少フランス語を勉強してきたので、少女が言葉の端々から、自分を弁護してくれているのが分かる。

 

 可憐な少女が、彼の母国語で懸命に伝えようとする姿に、ギャルソンは好感を持ったように見える。

 少女とギャルソンとの話し合いは終わった。


「大丈夫ですよ。ホテルにお財布を取りに行ってください。私はここで待っています」


  夏樹を安心させるように、少女はにっこりと笑う。


  その時、夏樹ははじめて少女をきちんと見た。

  線の細い、華奢きゃしゃな少女だった。ふわふわした襟の付いた白いコートを着、艶のある黒髪が背中まで伸びていた。長いまつげが優し気な印象を与え、声は軽やかで感じが良い。


  非常時を前にして、夏樹は少女に見とれた。

  だが、我に返った彼は考る。

  彼女の気持ちは? 不安はないのだろうか? 見ず知らずの人間のために人質になるようなものだ。


  だが、今はやるしかない。夏樹は意を決した。


「すみません。財布を取りに行きます。すぐ戻るので待っていてください」


 ホテルまでの道を、全速力で走る。


「あった! 財布だ!」


 財布はすぐに見つかった。


「エレベーターが遅いぞ! えーい! 階段だ!」


 転げるように階段を降り、猛スピードで路地を走り抜ける。

 息も絶え絶えに到着したときには、寒い季節にもかかわらず汗だくだった。


「だっ、大丈夫ですか?」


 ぐったりとした夏樹に、少女が駆け寄る。

 周囲が騒がしい。呼吸が落ち着いた頃、ギャルソンが水を運んできた。何を言っているかわからないが、自分を称賛しているようにも見えるし、謝っているようにも見える。


  こうして、無事に財布をもって支払いをすることができた。



「すみません。お礼がしたいのですが」


「いいえ。気になさらないで。それより具合はもう大丈夫ですか?」


「はい」



  両親が現れ、少女は去って行った。優しそうな母親と、紳士的な父親。

  いかにもこの少女にふさわしい家族だ。


  夏樹は、父親と暮らしていた狭い部屋を思い出した。施設に入って以来、一度もなかったことだった。

 部屋が狭い事はなんの問題ではない。彼には家族との温かい記憶が何一つなかった。


「こんなことを考えるのは、時間の無駄だ!」


 感傷的な気持ちを夏樹はさっさと押しのける。

 それよりも……



 夏樹は、名も知らぬ少女をおもう。


 艶のある長い黒髪。

 大きな瞳を縁取る優し気な長い睫毛。

 小さな唇から零れる、囁くような弾む声。

  

 あのとき、誰もが遠巻きに静観を決め込んでいた。

 胡散臭そうな視線を向ける者、好奇心をむき出しにする者……。

 無理もない、誰だって他人の面倒ごとには係わりたくないのだ。

 もし、同じ立場に立たせられれば、自分もそうするだろう。


 でも、彼女は違った。

 可憐で華奢な少女。

 おそらく気の強い方ではないだろう。

 

 それが自分を懸命に庇い、その上、人質にまでなってくれたのだ。


 「ちゃんと礼をしておけばよかった………もう、会うこともないのに……」


 それが口惜しい。


 ところが……。


「帰りの便が一緒だ!」


 エコノミークラスと、ビジネスクラスの違いはあるが、同じ飛行機だった。


 成田に着いたあと、少女は両親と別れ、あるマンションに入っていく。

 彼はここまでつけてきたのだ。


 自分のしていることを考えると恐ろしくなる。まるでテレビのニュースなどで報道されているストーカーのようではないか。

 やがて、少女がここで一人暮らしをしていて、マンションの一階の階のカフェでバイトをしていることを知った。





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