第一章 -リラの園の眠り姫ー
第1話 夏摘み茶はお好きですか?
「いらっしゃいませ!」
ギャルソン姿の女性が客を迎える。
彼女は
年齢は二十代前半。本業は劇団員だ。
短めの髪と涼やかな瞳が少年のような印象を与える。
四月より店長を任された亘は、営業時間を六時までに延長し、土曜日も毎週営業とした。
茉莉香がフルタイムで働けなくなったことと、時間の延長のため増員のバイト募集をおこなった。
その面接で、未希は誰よりも輝いていた。
彼女はあっという間に人気者になり、 彼女の写真を撮りたがる少女たちに対しては、サービス精神旺盛に応える。
そんな未希に、亘は密かに頭を悩ませている。
ちょっとしたミスを繰り返すのだ。
「おはようございます」
学校帰りの茉莉香がやって来た。
茉莉香は復学後も、本人の希望で一人暮らしは続けている。彼女の両親は、あまりいい顔をしなかったが、亘からの両親への後押しもあり可能となった
「未希さ〜ん。そのお茶にはこっちの砂時計を使ってくださいね♪」
茶葉によって抽出時間が違うため、砂時計のサイズを変えなくてはいけない。
「ごめぇ〜ん。ありがとうね」
茉莉香の指摘の仕方は柔らかく、相手を責めるようなところがない。
「未希さ〜ん。そのテーブルはミルクをつけてくださいね♪」
茉莉香は自分の仕事をしながらも、常に未希に目を配り、そのたびに注意をする。その粘り強さは亘も舌を巻くほどだ。
初めて会ったときの茉莉香は、明るくかわいらしい女子高校生で、可憐だが、弱々しく見えることもあった。
だが、未希という後輩が現れてからは、今ままでとは違う頼もしい一面を見せる。
「茉莉香ちゃんごめんね。未希さんのことまかせっきりで」
「ううん。亘さんは他にやらなきゃいけないことがたくさんあるもの」
「そういってくれるとありがたい」
「あの、マニュアル作ってみようかしら。カップに入ったお茶の写真を貼って産地や特徴を書いておくの。紅茶に興味を持てればもっと仕事が楽しくなるんじゃないかしら」
「マニュアルは、膨大な作業になりそうだけど」
「ええ。だから、未希さんの取り扱うお茶は限定するの。その分亘さんの負担が増えちゃうけど……」
「大丈夫だよ。よく出るお茶は限られるからね」
そんな計画があれこれ練られていることを、噂の当人は知る由もない。
「茉莉香ちゃん。春休みにご両親とヨーロッパに行ってきたんでしょ?」
未希は良く通る澄んだ声で茉莉香に話しかけた。
「はい。素敵でしたよ」
茉莉香は小さな声で、軽やかな返事をする。
茉莉香は両親と、三月に家族でイギリス、フランス、イタリアとヨーロッパ旅行に行ってきた。
「今度お話聞かせてね」
この“今度”は言葉どおりで、社交辞令ではない。彼女は本当に裏表がない。
今の茉莉香には、未希のような朗らかな性格の人間が必要だと亘は思っている。
無事に附属大学に進学したものの、講義が終わると、まっすぐここへやってくる。学友と過ごすことはないようだ。
茉莉香へのいじめは、自分の父親が茉莉香の父親に悪事を働かされたという、同級生の思い込みから始まった。
彼女の父親は逮捕され、本人はその後自主退学をしている。
不仲とまではいかないが、何かしらわだかまりが残るのだろう。それでも学業が順調に進んでいることがせめてもの救いだ。
「いらっしゃいませ」
二人連れの男性客が入ってきた。
「また、あの二人ですよ」
未希が亘に耳打ちをする。
ひとりは大柄な人のよさそうな人物である。
もうひとりは……わからない。
パーカーを着て顔を隠すようにフードを被り、大きなサングラスをして、マスクをしている。
連れののんびりとした姿がなければ、入店を断りたいようないでたちだ。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
この客は茉莉香案件だ。
「俺、アイスティー」
人のよさそうな方が答える。
「何かオススメはありますか?」
サングラス男がうつ向いたまま、ぼそりと言う。
「前回は、タルボ農園の
「どんな味ですか?」
「ダージリンの美味しさがよくわかるお茶ですよ。香りも味も豊かで、飲みやすいです」
「じゃあ、それで」
それからメニューを見て、苦い表情が薄っすらと浮かぶ。これはいつものことだ。
茉莉香が厨房に戻り、オーダーを告げる。
「茉莉香ちゃん。ダージリン淹れてみようか」
亘が言うと、
「はい!」
と、明るい返事の後、
「あ……」
一瞬の躊躇いを見せる。
無理もない。注文の品は、最高等級の高価な茶葉なのだ。最近茉莉香も茶を淹れるが、この茶葉には慎重さが要求される。
「大丈夫。僕が見ているからやってみよう」
亘が励ますように促す。
「はい!」
返事をすると、茶葉の計量を始める。茶葉を傷めないように丁寧にティースプーンを茶缶に入れる。茶葉の形状により見た目の量感が変わるので、計量器で正確に測らなくてはならない。
茉莉香は器用に茶葉を計量器に乗せていく。
やかんに湯を沸かす。汲み置きしたものや、ペットボトルのミネラルウォーターは使用しない。水道から汲みたての水を沸かす。
沸騰した湯で温めたポットに茶葉を入れ、ウォーマーを被せ、砂時計をセットする。
湯が沸いてからの作業は、素早く一気に終わらせなくてはならない。
茉莉香は静かに、そして、少しも慌てる様子もなく、それらを終えていく。
亘はアイスティーの準備をしながら、その様子を見守った。
「お客様にお出しして」
「はい!」
茉莉香はポットとカップを乗せたトレーを持って、緩やかにフロアを歩き、客の待つテーブルに向かう。
「お待たせいたしました」
静かにカップとポットを置き、
「砂時計が落ちたときが飲み頃です」
と、告げる。
茉莉香が厨房でじっと、砂時計の砂が落ちるのを待っている。
客がカップに茶を注ぐと、薄赤の水色が浮かんだ。
カップに口をつけた瞬間、彼の顔に感動の表情が現れる。
茉莉香はいつの間にか、テーブルのすぐそばで様子を伺っていた。
「うーん。これもいいですね。この前のも美味しかったけど、これはいっそう飲みやすい。ほんのりフルーツみたいな香りもする」
この怪人物は、紅茶の味がわかるようだ。
「『マスカテルフレーバー』と呼ばれているダージリンの夏摘み独特の風味です」
茉莉香が安堵したように説明する。
成功したのだ。
彼が茉莉香案件とされる理由はこれだ。未希では茶葉の説明はできない。
亘は、彼女と目を合わそうとせず、しどろもどろになりながら、なんとか話をしようと試みる男を見て、来店の目的が茉莉香であるとふんだ。
当の茉莉香本人は全く気付かないが、それは彼にとって幸いだ。気づいたらこの怪しげな客を恐れるだろう。
「いつも、お茶だけ飲んで帰るなんて、本当にお好きですね」
「あ……いや。まぁ」
男は茉莉香が話しかけても、ほとんど会話をしない。
その時だ、水道の排水管から水が漏れ始めた。
「ありゃ。困ったな。修理業者に手配しなきゃ」
亘がスマホに手をかけたとき、
「待ってください」
サングラスの男が声をあげた。
「おい、お前、仕事抜けてきたんだろ。道具ないか?」
「ああ?そうだ。補修テープがある」
そう言って、カバンから何やら取り出した。
サングラスの男は厨房に入り、手際よくテープを水漏れした個所に巻き付けていた。フードもサングラスもとり、念入りに補修個所を点検している。現れたのは、茉莉香と同じか少し年上の青年だ。童顔だが整った顔立ちをしている。
「これは応急処置です。あらためて業者に頼んでください。あ、こいつ大工だから。丁度いいですよ」
人の良さそうな方が、ぺこりと頭を下げる。
その時だ。
「あー! あなた」
茉莉香が声を上げる。
しまった。というように、怪しい男は慌てて、フードを被り、サングラスをしようとしているがうまくいかない。
「えっ? 茉莉香ちゃん知り合いなの?」
サングラスをずれたままかけている男に視線が集まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます