第8話 言葉
亘の進言により、元北星銀行の社員であり、下条エンジニアリングの専務であった
主犯は冨永で、澤本の受けた金銭は冨永のそれと比べると、実に微々たるものであったという。
澤本は妻が病気で、保険のきかない治療費のため金が必要だった。恐らく捕まるのは覚悟していただろう。ずさんで稚拙な手段からそれがうかがえる。
思いもよらぬ形で、茉莉香に対するいじめの原因も判明した。
澤本は、いじめの主犯格澤本知佳の父親だった。知佳は、茉莉香の父親が澤本に収賄の片棒を担がせたと思っていたのだ。
茉莉香は父親から真相を知らされた。
「そんな! 私は、知佳の思い込みでいじめられて、学校に行けなくなってしまったの?」
驚き、そして容易に信じることはできない。
だが、目の前の父は焦燥しきっている。痩せて、茉莉香の知っている朗らかで力強い父ではなかった。
冨永の策略で、嫌疑が彼に向けられるように仕向けられていたのだ。この数か月間が父にとっていかに過酷なものであったかが伺える。
「パパ。ごめんなさい。私、何も知らなくて……」
茉莉香はそっと、父の背中を抱きしめた。
知佳の母親は回復するのだろうか?
それがなければ救いがない。
茉莉香は思った。
なぜ他のクラスメイトが知佳と一緒になって茉莉香をいじめたのか?
理由を知ることはなかった。
学校がこの件に関して、調査をしなかったからだ。
ただ、
「折を見て復学しなさい」
そう告げられただけだった。
“折”とは、おそらくマスコミの騒動が収まった頃ということだろう。
マスコミはいじめの件を嗅ぎつけることはなかった。
これは茉莉香にとって幸いだった。
マスコミが騒げば、茉莉香はもっと深く傷つくことになっただろう。
「院長先生の言うとおりにしなさい。もう、この件は蒸し返さない方がいい。辛いだろうが、過ぎたことは忘れて、早く日常に戻りなさい」
父は言った。
正確な情報がなくとも、茉莉香には容易に察することができる。
知佳は頭の回転が速く、会話が上手かった。
言葉巧みにクラスメイトを誘導し、彼女たちは知佳の言葉を鵜呑みにしたのだろう。
そして、犯罪者の娘の尻馬に乗って、なんの罪もない茉莉香をいじめたのだ。
(なぜ私に話してくれなかったの?)
なぜ悪意ある人間の言葉を容易くに信じてしまったのか?
十五年間友だちとして過ごした自分を信じてくれなかったのか?
これまでに育んだ友情はなんだったのか?
茉莉香は大きな、そして大切なものが消えてしまったのを感じた。
心にぽっかりと穴が空き、それが埋まることが、もうないような気がする。
これからこんな気持ちで生きていかなくてはならないのだろうか。
だが、復学の準備をしなくてはならない。
それからの数日間は、その手続きで追われることとなった。
そして、もうひとつ問題が起こる。
由里が店を閉めると言い出したのだ。
きっかけは、長男のクラスで学級崩壊が起こったことだ。
それは、カラボスの息子の教師に対する質問攻撃から始まる。
中学受験の最先端のテクニックによって鍛えられた頭脳には一介の教師では太刀打ちできなかった。その行動は、なぜか他の生徒にも
このまま地元の公立中学に進学すると、問題のある生徒たちと同じクラスになってしまう。
「このあたりの学校は、大丈夫だと思っていたのだけど……」
由里は嘆いた。
長男をそれなりの私学の中学に入れるために、すぐにでも受験のための準備を親子でしなくてはいけない。それが閉店の理由だ。二年後には長女も同様である。もう店の経営は無理だという。
ところがだ……
「実は僕、調理師の免許を持っていまして……親父になんでもいいから役に立つ資格を取れって何年か前にいわれてとりました」
調理師になるためには、実務経験も必要だが、
「学生時代にカフェでバイトをしたことがありますので大丈夫です」
ということで、由里をオーナーのままとし、亘が店長という形で店を引き継ぐことになった。
「ただ、いろいろ準備もありますし、茉莉香ちゃんももうすぐ学校に戻るし、しばらくは休業したいと思います」
由里への慰労、店の休業、亘の新店長就任……それらを含めて、お茶会を開くことが決まった。立食形式でサンドイッチやオードブル、デザートを提供することとなり、亘と茉莉香は食材の買出しに出た。
帰りに近道だから公園を横切ろうという話になる。
銀杏の木が黄色く色づき、足元に落ち葉が広がっていた。中央にはボートの乗れる池がある。
「もう、こんな季節なんですね」
「あ、あの……私、いろいろ考えたんです」
落ち葉をかさかさと踏みながら茉莉香が言った。
「私、何も知らなくて……知佳の気持ちも、パパとママが私に一人暮らしをさせたのも、パパのことで心配させたくなかったんじゃないかって……それなのに、私自分のことばかりで手いっぱいで……」
「久美子さんは体調を崩しながらも、自分の役割を果たしいてたわ。それに比べて、私はなにもできなかったの。学校や両親の言うとおりに流されてしまって、クラスメイトと話し合おうともしないで、ただ逃げていたの。まるで人形みたい!」
亘は黙っている。
「これからもっと、自分の人生についてちゃんと考えなきゃって……それで、別の大学に行こうかなって」
「今からじゃ難しくない?」
「ええ、でも、誰か私と同じように学校に行けない人を助けるとか、そんなお仕事に就こうかって……心理学とか勉強して」
空がどんよりと曇り、今にも雨が降りそうだった。
「ボートに乗らない?」
池にはふたりの乗ったボートだけだった。
これから天候が崩れそうだからだろうか?
池の中央まで漕ぎ出す。
亘は茉莉香の親切さ、優しさ、明るい笑顔を思い浮かべた。
人を助けたいという気持ちは心からのものだろう。
だが、彼女がそれを仕事にすることができるだろうか?
複雑な問題を抱えた人間たちに係わり続けることができるだろうか?
また、浪人をするということが、彼女の人生にどんな影響を与えるだろうか?
「茉莉香ちゃんは本当にそうしたいの?」
「でも、私このままじゃいけないと思うんです」
「もし、何か責任を感じているなら、その必要はないよ。つらい経験をしたかもしれないけど、過去の話だ」
霧雨が降ってきた。目に見えないくらい細かいのに、ベールのように視界をふさぐ。岸からはボートに乗った二人は見えないだろう。
「でも、でも、私……」
亘は、茉莉香の力なくうなだれる姿を見つめた。
自分にこのようなことを言う資格があるのか?これからどうしたらいいのか、わからない自分が。研究を極めて世の中を変えたいと思ったこともある。そして、それが不可能であることがわかり、それでも諦めることができないまま、とりあえず由里の店を手伝うことにした自分に。
だが、今できることがあり、それはこの目の前の少女の手助けをすることではないか?
「今は、何かを決断するのに相応しいときじゃないと思う。いろいろなことがいっぺんに起こって混乱しているんだ。まずは学校に行って、勉強したり、いろんな人に会って経験して、落ち着いてから考え直したほうがいい」
「茉莉香ちゃんは茉莉香ちゃんのままでいいんだよ」
茉莉香は雨と涙にぬれた顔をあげた。
「アナタハアナタノママデイインデスヨ」
カウンセリングルームで繰り返し言われたことだった。
そのときは、金属が擦れ合うことで偶然できる単なる音声のように、茉莉香の横を通り過ぎ、受入れることはできなかった。
「“茉莉香ちゃん”」
これは亘自身が茉莉香に向けた言葉だった。言葉は温かさを持って茉莉香に寄り添った。
茉莉香は膝を抱いてうつむいた。
「このままでいいの?」
霧雨の中、顔を膝につけたまま肩を震わせていた。
『お茶会』は晴れた土曜日に行われた。
入退室は自由だ。狭い店なので、客たちは由里や亘に一言かけて去っていった。食事とお茶はセルフだが、茶葉やお湯の補充が忙しい。お湯を入れたばかりのポットから飲もうとするのを止めなくてはいけないという場面もあった。
「亘さん。茉莉香ちゃんの大学のこと説得してくれたんですって? ご両親にお礼を言われたわよ」
亘は気恥ずかしさに襲われた。年下とはいえ、偉そうに言ってしまったのだ。
なかったことにしてほしいものだ。
「ふふっ……あなたも立派な“おせっかい”の仲間入りね」
そういえば、亘は由里にあれこれ心配をかけてきたのだと思う。口うるさく思うこともあったが、心の中ではありがたく感じていた。
(“おせっかい”か……)
今までは、上から目線の嫌な奴らだと思っていたが、自分も同類になるとは。
慣れるには時間がかかりそうだ。
カウンターで久美子と荒木がスマホを見ながら、なにやらはしゃいでいる。
荒木は今回の件で社長賞を取り、主任に昇格するらしい。
亘には、これがなんとなく面白くない。
「はい。茉莉香ちゃんおつかれさま」
忙しく店内を回る茉莉香に、由里が華やかな香りのするお茶を差し出した。
「
「ありがとうございます」
「それから
「わぁ!照れちゃう」
カップを渡しながら、由里がそっとほほ笑む。
茉莉香は、この笑顔に支えられてきたのだ。
そして亘。店を訪れる客たち……。
今、笑顔の下、心は暗く閉ざされている。
だが、いつか、心から笑える日が来るかもしれない。
茶会のお開きの時間が近づいた。誰かが亘に挨拶をするように促す。
「え……と、今日はお集まりいただきありがとうございました。
由里さんの後を継いでどこまでやれるかわかりませんが、自分なりに頑張りたいと思います。しばらくお休みしますが、再開の折にはご来店ください。美味しいお茶を用意してお待ちしております」
すでに人が少なくなった店内からぱらぱらと拍手が起こった。
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