第2話 アップルティーとアップルパイ

 外は薄暗い。まだ雨が降っているようだ。

 

「今、何時かしら? どのくらい寝ていたのかしら?」


 やがて若く健康な茉莉香の体にある現象が起こった。


(お腹がすいた)


 一度食欲が湧くと、なんとしてもそれを満たさずにはいられない。

 

「そう言えば、このマンションの一階がカフェだったわ……」


 何か食べ物があるはずだ。



 カフェは、茉莉香の住む四階建低層マンションの一階にある。

 茉莉香は緑地帯にあるアプローチを通り、ガラス張りの扉から店に入った。



「いらっしゃいませ。あと三十分で閉店ですけど、大丈夫ですか?」


 上品で快活な女性に出迎えられた。年齢は三十代半ばだろう。ゆるく巻いた髪を肩のあたりまで伸ばし、カーデガンを羽織った姿は、女性らしい華やかさがある。

 ひさしぶりに聞いた人の声は、明るく快活で、茉莉香は気持ちが軽くなるのを感じた。



「は、はい」


「ご注文は?」


「お食事したいのですが……」


 口に入れば何でもよかった。


「サンドイッチはもう品切れですけど、アップルパイがありますよ」


 とにかく何かを食べなくてはいけないと思う。


「それでお願いします」


「お茶はどうします? メニューをご覧になる?」


「はい」


 メニューを開けて瞬間、茉莉香は目を丸くした。

 原産国だけでも、インド、中国、セイロン、ケニア……しかも農園別、季節別に分かれている。

 少し前までぼんやりとした頭に、驚きという感情が沸き起こった。


「すみません。あの、おすすめってありますか?」


 オーナーは笑いながら、


「そうよね。多すぎてどれかわからないわよね。アップルティーなんてどうかしら? アップルパイに合いますよ」


「じゃあそれでお願いします」


 ほっとしてメニューを閉じる。

 とりあえず食事ができるのだ。


 アップルティーはリンゴの風味で、味も香りもほんのりとした甘さがある。

 温めたアップルパイを食べ、湯気の立つ紅茶を口に含む。

 パイのさっくりとした歯触り、リンゴの甘酸っぱさ、バターの香りが口に広がった。


「どう? 紅茶はバターを使ったお菓子と相性がいいのよ」


「はい。美味しいです」


 思わず笑みがこぼれる。


 空腹が満たされたためか、パイの美味しさが心を動かしたのか、張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れたようだ。茉莉香の目から涙がこぼれる。


「あらら……だ、大丈夫?」


「ごめんなさい。あの、あんまり美味しくて」


 美味しいから泣くのだろうか? おかしな言い訳だと思いながらも、涙は止まらなかった。


「はい、どうぞ」


 白いハンカチが手渡される。



  閉店時間はとうに過ぎている。オーナーと二人きりになった茉莉香は、ここに来るまでにあったいろいろなことを彼女に話してしまった。


「ごめんなさい。初めて会った人なのに」


 洗いざらい話したせいか、涙も止まり、気持ちも静まっていた。


「いいのよ。私のお茶とケーキがあなたの役に立ってくれたみたいでうれしいわ」


 彼女の言葉は暖かく、互いに微笑む。


「あなた、お名前は? 私は前川由里まえかわゆりというの」


浅見茉莉香あさみまりかです」


 二人はあらためて自己紹介をする。

 茉莉香は、この上品な女性を、すぐに好きになった。

 きっと、彼女も同じではないかと思う。

 人との間に流れる温かい空気のようなもの……。

 茉莉香が最も大切にしているものであり、長い間絶たれていたものでもであった。

 それが今、ここにある。


「ねぇ、このパイね。私が焼いたの」


「え? すごい!」


 そして、店内を見渡す。


「素敵なカフェですね。紅茶専門店なんて初めてです “les quatreカトル sisonsセゾン“ってフランス語で“四季”っていう意味ですよね」


 精涼学院では、英語のほかにフランス語も教えている。


「そうなのよ♪ 季節の旬のお茶が揃えてあることと、そのときの気分で楽しんでもらえるように。という思いが込められているの」


 茉莉香はあらためてメニューを見直す。たしかに毎日来ても、飲み切るのには、時間がかかりそうだ。期間限定のものもあるので、あるいはその日は来ないかもしれない。



「私の夫はね。紅茶の輸入商なの……」


 由里は店について話し始めた。


「夫は五年前に、紅茶ブランドをles quatre saisonsを立ち上げたの」

 

 由里は説明を続ける。


 販売はオンラインに移行し、デパートへの出店も決まった。小売店兼事務所だったここは、由里の提案でカフェとして再利用することになった。


 「そのなごりで、見て……」


 由里が指さす貯蔵庫の棚には、茶葉の缶がずらりと並んでいる。

 通年通して飲める物の他、期間限定のフレーバーティーや、産地より取寄せた旬の茶葉もあるという。



 やがて、茉莉香は由里がなにか言いたそうにもじもじとしているのが目に入った。

 そして、彼女の次の言葉を待つ。

 

「茉莉香ちゃん。このお店気に入ってくれた?」


「はい!」


「この上のマンションに住んでいるのよね?」


「はい!」


「実は、この前バイトの子が辞めちゃって困っているのよね……茉莉香ちゃんどうかしら?」


「えっ? 私でいいんですか? こんな素敵なお店で働けるなんて! 喜んで!」


 閉ざされた茉莉香の心に、光が差し込む。

 何かが変わるかもしれない。


 こんな風にして、茉莉香はこの店で働くことになった。


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