お茶を飲みながら -季節の風にのって-
志戸呂 玲萌音
プロローグ ーles quatre saisons へようこそー
第1話 茉莉香
茉莉香は、裕福な家庭の少女たちが通う精涼女子学院の高校生だ。
この学院は幼稚園から大学院まであり、おっとりとした校風が特徴の、いわゆる“お嬢様学校”として知られている。
校舎の一部は旧華族の邸宅を改装したものだ。
桜の花咲く季節。茉莉香は母親に手に手を引かれ、初めて学院の門をくぐった日のことを今も覚えている。
教室には同じ年の少女たちが集められていた。
どの少女も賢く、愛らしい。
「これから、この女の子たちと一緒に遊んだり、お勉強をするの。きっと楽しいわよ」
母が、そっと耳元で囁く。
茉莉香が微笑みかけると彼女たちもいっせいに茉莉香に笑顔を向けた。
母親たちは、みな優し気で美しく、フォーマルな装いに華やかさがある。
茉莉香は、少女たちとこの小さな世界を、すぐに好きになった。
それは彼女にとって幸福なことだった。
なぜなら茉莉香は、これからこの少女たちと二十年近くを共に過ごすのだから……。
茉莉香は子どもの頃から、
「茉莉香ちゃんって、お人形さんみたいね」
そういって可愛がられてきた。
艶のある長い黒髪。大きな瞳を縁どる長い睫毛が優し気な表情を醸し出している。
細く長い手足が生み出すしぐさは愛らしく、小さな唇からこぼれる笑い声は囁くように弾み、心地よい。
だが、茉莉香は自分のことを可愛らしいと考えたことはない。その代わり、人からは好かれる性格だとは感じていた。
友だちが多く、毎日楽しく過ごしていたし、両親や教師たちなど、大人に褒められることが多かったからだ。
……だが……
それは突然に始まる。
高校三年生のある日。連休後の初めての登校日だった。
「ママ。いってきます!」
「茉莉香ちゃん。忘れ物はない? ひさしぶりの学校だから……」
「ママったら心配性ね! 大丈夫よ!」
茉莉香が明るく笑う。
父はすでに家を出ていた。
早朝に出社し、深夜に帰宅する。
そのため、何日も顔を合わさないことも珍しくない。
「おはよう!」
茉莉香は、いつものように明るく教室へ入って行った。
いつものように、友だちと楽しくお喋りができると思うと心が弾む。
放課後をどんなふうに過ごそうか?
新しくできたケーキ屋に行ってみたいとも思う。
ところが……。
挨拶をしても返ってくるのは生返事ばかりだった。
連休中のことを聞いても
「えーーーーあーーーー」
という感じだ。
そして昼休み。いつもの席で食べようとすると、みんながいない。
ピロティーで食べてきたという。
「ごめんね。言い忘れちゃった」
クラスメイト達が曖昧に笑う。
「忘れちゃうこともあるわよね」
ところが翌日、その日はみんないつもの席で食べていた。
だが、人の輪がぐるりと完結していて入る隙間がない。
「えっ……ちょっと、入れて?」
と、言っても返事がない。
それが始まりで、それが何日も続いた。
声をかけると、潮が引くようにいなくなってしまう。
ある日上履きがなくなり、校庭の水飲み場の蛇口の下で見つかった。
それから頻繁に持ち物がなくなっては、ゴミ箱に捨てられていた。
今まで仲良く話していた友だちが、こちらを向いてひそひそと話している。
決して、茉莉香を仲間に入れようとしない。
「どうしてしまったのかしら?」
これまでは休み時間は楽しくおしゃべりをし、放課後には買い物やお茶をした友だちが、なぜこんな風に変わってしまったのか?
いじめの軸となっているのは、一番仲が良かった澤本知佳(さわもとちか)だった。
知佳は美人で頭がよく、グループのリーダー的な存在だった。
知佳と目が合うと、茉莉香は心臓が止まりそうになる。
冷たい視線。
嫌悪?
蔑み?
憎しみだ。
知佳は激しい憎悪の視線を茉莉香に向ける。
冷たい眼差しに、茉莉香の心は凍りついた。
知佳は、明るく機転が利き、話が上手い。
少し前までは、知佳の話を聞いて笑い転げていたのに……。
「どうして知佳が? 私、なにかしたのかしら……?」
茉莉香は深く傷つくが、心当たりが全くない。
いじめは次第にエスカレートしていく。
無視、陰口、哄笑、物が無くなる。知らせが届かない。
机に気味の悪い落書きがしてあったこともあった。
今まで、一人で昼食を食べることなどなく、そういった少女を気の毒に思い、人知れず誘ったこともある。
今、自分がその状況に置かれているのだ。
だが、誰も理由を言ってくれない。
今まで茉莉香は、クラスメイト達を誇りに思い、愛していた。
また、クラスの一員であることに自負を持ち、相応しい人間であろうとした。
だが、今は学校に行くことが苦痛でしかない。朝が起きられなくなり、遅刻が増える。
教師は困ったような顔をして茉莉香を叱るだけだった。そして、それを見たクラスメイト達が、嘲るように忍び笑いを漏らす。
茉莉香は傷つくとともに、深く自尊心を傷つけられた。
ある朝、眩暈がして起き上がることができなくなった。
近くの内科に行き、その後心療内科を勧められることになる。
そこで茉莉香は学校でのことを、はじめて両親に話した。
学校と母親と茉莉香の間で話し合いが行われ、今後の取り決めが行われた。
母親が赤く目を腫らしている。
(ママ。ごめんなさい)
どう詫びたらいいかさえわからない。
優しい学院長が穏やかに茉莉香に説明をする。
「保健室に一時間だけ登校すればいいですよ。そのとき課題を出しますから、翌日までに提出してください。それで一日出席したことにします。まずは、体を大切にして、治ったら登校してくればいいですよ」
茉莉香はこの面談で初めて気づいたことがある。
それは、教師たちがすでに、いじめに気付いていたということだ。
(それなのに……)
誰一人茉莉香に助けの手を伸べなかったのだ。
いじめた生徒との話合いも、原因の解明さえもしようとしない。
自分にだけ忍耐を強いるというのだろうか?
理不尽さを感じずには入れない。
この状態のままで卒業することもあり得るということだ。
成績が一定のレベルに達すれば、附属の大学にも進学できる
茉莉香のこれまでの素行を考慮に入れての恩情と言えば恩情だが、いつまで続くのかを考えると、手放しでは喜べない。
そして、通学の負担を少しでも軽くするために、自転車での通学が可能な、海外赴任をしている叔父のマンションで一人暮らしをすることになった。
引越しで環境を変えることは、カウンセラーのすすめでもある。
そんな風に、茉莉香の保健室登校が始まった。
一時限目が始まってから、他の生徒の目につかないように保健室に入り、休み時間をやり過ごし、二時限目を待って下校する。
そんな毎日を過ごして、一カ月ほど経ったある日、茉莉香のいる保健室に、体育でケガをした生徒が運び込まれてきた。茉莉香は、教師に頼まれて患者の担任を呼びに職員室に向かった。
休み時間だった。そのとき、不運にもクラスメイトのグループに出くわしてしまった。
彼女たちがいっせいに茉莉香を見る。
一瞬の沈黙。
その後、茉莉香の存在などなかった目にしなかったかのようにくるりと背を向けて歩き出した。
茉莉香の背後から、どっと哄笑が起こる。
茉莉香は足元から血の気が引いていくようだった。
哄笑も不快だが、一瞬目があったときの冷たい視線が心に刺さるようだった。それを思い浮かべたとき、へたへたと座り込んでしまった。
すぐに誰かが走り寄り、保健室に運ばれた。
その後、どうやってマンションへ帰ったか茉莉香は記憶が定かではない。
翌日は雨だった。
−− チリリン −−
スマホが鳴る。
「先生だわ……」
だが、出ることができなかった。
起き上がることができない。
離れて暮らす母親の顔が無性に見たかった。
「ううん。ダメだわ」
それはできない。
先日帰宅した時、家の中が慌ただしく、母親も疲れ切った様子だった。
父親の仕事で、トラブルがあったのかもしれない。
「これ以上心配かけられないわ」
茉莉香は自分に言い聞かせる。
「でも、どうして私だけが……」
こんな目に遭うのだろうか?
なぜ、他の生徒の目を逃れてこそこそと登校しなくてはいけないのだろうか。
「いつまでこんな生活が続くの?」
不安と焦りで、このままではいけないと思いながらも体が動かない。ぐったりと寝ていることしかでず、食事をしたいとさえ思えない。
茉莉香には、自分の小さな世界が壊れていく音が聞こえるようだった。
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