18●ラノベの妖怪、“承認欲求”の呪縛(3)…エヴァ談義、強制される承認欲求。

18●ラノベの妖怪、“承認欲求”の呪縛(3)…エヴァ談義、強制される承認欲求。




       *


 さてエヴァの25-26話には、もうひとつ大切なメッセージが隠されています。

 シンジ君が“エヴァに乗らない、もう一つの世界”として描かれる、ラノベなショートストーリー。

 綾波がパンを加えて走る、あのお馬鹿ギャグのテンプレな学園ストーリーは、いかなる意味があったのでしょう?

 注目したいのは、「これも、ひとつの世界」と、シンジ君自らの口から語られていることです。


 “もう一つの世界のエヴァ”。


 放映前の企画段階の最初のあたりへと、カレンダーを戻してみましょう。

 この作品の主人公キャラとその学園生活の設定には、さまざまなパターンが検討されたことと思います。

 その案のひとつとして、多分、学園を舞台とした明るいギャグテイストのラノベ風演出も、選択肢のひとつとして俎上に上がったことでしょう。

 最近の若者に必ずウケる設定のひとつとして。

 しかしそれは不採用となり、“もう一つの世界”へ、お蔵入りにしたのだ……ということです。

 裏返して言うと……


 『新世紀エヴァンゲリオン』は、ラノベ路線の作品ではない! 放映当時に世間一般で流行り始めた学園ラブコメの演出手法は捨てて、エヴァでは採用しない……と、監督やスタッフなど、作品の作り手が明確なメッセージを発したことになるのです。


 それゆえに、エヴァ本編の24話までに描かれたシンジ君たちの学校生活は、つまらないほどリアリティが徹底されています。授業風景は退屈で、クラスメートたちもドタバタせず、綾波は黙って雑巾を絞ります。ラノベのラブコメ作品のようなデフォルメ表現は抑えられ、“現実にあり得る”程度に制御されていることに驚かされます。


 私たちの現実の生活の延長線上に、エヴァの巨体がそそり立つ……“現実に立脚する非現実”ともいうべき絶妙のリアリズムが、この作品で実験されていたのですね。


 そしてもうひとつ重要なのが、シンジ君のキャラ設定。

 当時のロボットアニメで主人公を張る男の子キャラの、真逆を行く性格設定です。

 見た目、ウジウジ、メソメソのイクジナシ。

 ヒーローなのに、かっこよさ皆無ですね。

 取り柄と言えば、エヴァに乗れるだけ。あ、チェロ演奏がありましたっけ。

 前代未聞の弱小キャラです。

 もちろん、それには監督の深謀遠慮があったはず。

 過去のロボットアニメの定石テンプレを打ち破る!

 これに尽きると思います。

 “視聴者の等身大のキャラ”などという概念がありますが、かつての70年代の“等身大”キャラは、“完璧なヒーローでなく失敗もする、ちょっとお馬鹿なギャグキャラに見えるけれど、やれば必ずデキる完璧な人”あたりに落ち着いていました。

 その概念を大きく変えたのが1978年の、ご存じアムロ君。

 “集団になじめない、体力レスの意地っ張り”あたりに設定されていました。

 ガ〇ダムはパーフェクトに操れても、日常生活がKYで忖度ゼロなので、ブライト氏やセイラ嬢の怒りを買って顔面制裁を食らっていました。本当に可哀そうです。

 しかしアムロ君は戦場で鍛えられ、一人前の戦闘員ファイターに成長しました。最終話でシャアと渡り合う姿は、もう立派な戦士、第一話の彼とは同一人物に思えません。

 で、1995-96年に放映されたエヴァでは、もちろんキャラクター類型のひとつとして、ロボットアニメ界の大横綱、アムロ君のキャラが比較検討されていたでしょう。

 そして当然、なんとしても、“アムロじゃない”主人公キャラを構築せねばならなかったはずなのです。

 それが、ただ一つの取柄とりえであるはずのエヴァの操縦すらままならず、むしろ多大な苦痛でしかないのに、周囲の期待に応えたいがゆえに“乗るしかない”シンジ君という弱者のキャラだったのです。

 従来ありえない、ムリムリなキャラですね。普通、企画の最初からボツにされているはずの弱虫君。

 それをあえて主人公に据えたのは、シンジ君こそ等身大の少年だ……という監督の確信があったのでしょう。

 これは勇断でした。ロボットに乗って暴れてスカッとさせてくれるキャラこそ、視聴者の期待に応えるヒーローのはず。シンジ君はその真逆。

 ですから、なによりもシンジ君自身が視聴者に嫌われ、見放される恐れがあったと思われます。最初から好かれる可能性、ほぼゼロですよ。

 同情を集めたとしても、憧れは得られないのです。

 そして事実、エヴァの初回放映の視聴率は低迷したと言われています。


 だから最終の25-26話で、シンジ君のキャラクターが厳密に補完されたのです。

 ただのイクジナシではありませんよ、どうか誤解なきように……と言うことです。


 そこで、26話の学園ギャグです。

 シンジ君の学校生活が26話で見せられたラノベ風ギャグの世界だったら……

 そしてラノベ風キャラのシンジ君が、それまでのロボットアニメのヒーローのように、ちよっとコケながらも毎回スカッと暴れてくれたならば……


 この作品は“よくあるロボット物”に紛れてしまって、これほど長期に及ぶ人気を獲得できなかったかもしれない、と思うのです。


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 学園ものとロボットものが融合したジャンルは“学園系ロボットアニメ”と称されているようですが、振り返ればその嚆矢とも言える成功作は、同じ監督の『トップをねらえ!』(1988~)なんですね。

 これも素晴らしい名作ですが、「努力と根性!」の叫びに象徴されるスポコンマンガのパロディが散りばめられたことで、作品世界が“去り行く昭和へのオマージュ”の色調を帯びてしまい、視聴者が“過去を懐かしむ”印象を持ってしまったことは否めません。

 こういったオマージュを抑え、かつ学園ギャグを抑えて、作品世界のオリジナリティとのバランスを取ることが、“エヴァ”では重視されたのでしょう。


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 シンジ君、じつは、ありえないほどのウジウジ、メソメソキャラでしたが……

 それこそまさに、現実そのものの等身大キャラだったのですね。


 75年昔のあの戦争で“お国のために”と特攻を志願させられ(困ったことに断る選択肢は事実上ありえません。志願すれば誉めてもらえますが、断れば非国民と指弾されかねないのです。本人だけでなく家族まで)、そしてある日突然に死を宣告され、特攻機に乗せられて、あるいは人間魚雷で、死刑囚と同様に“あの世”へ放逐された若者たち。十代の少年も多かったといいます。

 しかし、好き好んで死ぬ人は、基本的にいません。

 美談を讃える風潮に水を差すつもりは全くありませんが……

 泣いて嫌がるパイロットを力ずくでコクピットに押し込んだ例もあったと聞いたことがあります。

 こっちの方が真実だろ!

 そう思います。美談は拡げ、醜聞は隠すのが世の常ですから。

 シンジ君のキャラは、この“等身大”にハマっているのですね。


 その点、誤解なきように……と、25-26話で説明が補完されたのです。


 だからエヴァは、名作として名を残しているし、これからもそうだと思うのです。



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 かつての特攻隊員は、特攻を志願すれば周囲に誉められました。

 “承認欲求”の充足です。

 チルドレンたちは、エヴァに乗って戦えば周囲に誉められます。

 “承認欲求”の充足です。


 この“等身大”のリアリティが物語るのは……


 “承認欲求”とは、周囲すなわち社会から、私たちに、実際に、そして広範囲に、かつ意図的に“強制されているのではないか”と言うことです。


 強制される承認欲求。


 これ、ラノベの読者の皆様の、今の社会環境そのものではないでしょうか?







 次章へ続きます。


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