第14話
「えっと、人違いじゃないかな。お母さんはどこ?」
母さんだった人はそう言った。忘れもしない。俺が8歳だった夏至の翌日。
あの日から何もかもが変わった。いや、なにもかもがあの日終わったのか。そして、なにも無い日が始まったのだ。
俺の街が消えた。俺の家が消えた。俺の友人が消えた。俺の家族が消えた。俺の日常が綺麗さっぱり消滅してしまった。
当時の俺はなにが何やらさっぱりだった。
その前の日、夏至の当日。俺の体に宿る怪異を封じる儀式が行われ、そしてそれは何故だか失敗した。
ウチの神社の境内で行われた儀式。呪紋の中で祝詞を読み上げられる子供の俺。
そして、その儀式は唐突な衝撃と文字通り景色が吹っ飛んで途切れた。
目が覚めたら朝で、それから母さんは先の台詞を言ったのだ。
誰も俺のことを覚えていなかった。
住んでいた家にも俺の部屋はなかった。俺の成長とともに柱に貼り付けたマスキングテープも無い。俺のご飯茶碗も歯ブラシも自転車も靴も帽子も服も無い。母さんも父さんもまったく俺を覚えていない。お隣さんも、友達も、学校の誰も彼も。街から、世界から昨日までの俺は綺麗に消滅した。ワケが分からなかった。
そして、突然怪異で親を失った子供のための施設の大人が俺を迎えに来た。
「こんなところに居たのか。もう帰るよ」
その大人はまるでずっと俺を知っているかのように言って、そして抵抗する俺を抱きかかえて車に乗せた。
母さんたちはなにか寂しそうに俺を見ていた。遠ざかっていく両親と俺の家、俺の街、俺の日常。泣きわめきながら俺はそれを見ていた。
そして、俺の人生は一度終わった。そして、ワケの分からない日々が始まった。
それから、なんとか生きてきた。
それから、しばらく生きてこのワケの分からない状況はあの儀式、俺の体に宿る怪異のせいだと気付いた。
だが、分かったところでどうしようも無かった。
生まれ故郷は何度帰っても見知らぬ土地だった。
この世界には俺の居場所が無くなっていた。
クソみたいな話しだ。少なくとも俺の人生で最も。
本当にひどい。
本当になんなんだ俺の人生は。
どれだけ考えてもどうしてこうなったのか分からない。どうすれば良いのかも分からない。ただ、必死に生きることしか出来なかった。
いつだって思い出されるのは、街を離れる時に俺を見ていた母さんの寂しそうな目だった。
目が覚めた。クソみたいな夢を見ていた気がした。だが、夢がクソなのはいつものことだ。寝覚めが悪いのもいつものことだ。しかし、今回ばかりはあんまり悪すぎる。
何故だと思ったら俺の体は縛り上げられていた。両手両足、胴と首。俺は縛り上げられ、その縄はそれぞれ床と天井に伸びて固定されている。俺は宙づりにされていた。
随分広い場所だった。なにかのイベントなんかを行うホールのようだ。大きな窓の向こうはもう夜だった。
最後の記憶が蘇ってくる。
そうだ、俺はワケの分からん野郎に襲われて、それで倒された。
「起きたか」
声がした。見ればそこに居たのは男だった。この世の全ての陰鬱さを刻みつけたような表情の男。俺を襲った男。天淵桐也。
天淵は俺を下から見上げていた。
「もうすぐ儀式が始まる。もうすぐ俺の目的が達成される」
天淵はなんの表情の変化も無く言った。
ああ、そうだった。これから始まるのはクソッタレの再演だった。
また、あの日のようなことが。もう何百遍も夢に出たあの日が繰り返されるのだ。
俺は心が砕けそうになるのを感じた。叫ぶことすら出来ず小さなうめき声を漏らした。
天淵はもう俺を見ていなかった。俺に背を向け古い本を背広から取り出して、ただ黙って読んでいるだけだった。
ここには紅葉の姉さんは居なかった。ここには四島の兄ちゃんも居なかった。
俺はいつものように独りぼっちだった。
「笹島さんが近くに居るんですか? なら灰村さんと向かうように伝えてください。住宅街の方は新人の方でも大丈夫です。そちらを優先でありったけの人員を裂いてください。近隣の地域からの応援も速やかに入れるように関係各所への手配もお願いします」
四島はスマホで通話しながら走っていた。通知が聞こえる。怪異の出現警報のアプリからの警報。それはもう、そこかしこのスマホから。アプリを入れている一般市民のスマホもひっきりなしに鳴り響いているのだ。
なにせ、街中で怪異が出現しているのだから。
こうして走っている間にも通りの向こうに、見上げるビルの壁面に、流れる河の水面に、怪異の姿が見えていた。
それらの対応を他に任せ、市民の避難の指示を細かく飛ばしながら四島は走っていた。
もちろん、隣には紅葉も一緒に。
時刻は夜。二人は街のメインストリートのひとつ、上尾川の横にあるイチョウ通りの歩道を進んでいる。
二人は状況を把握し、折れた紅葉の刀を急いで組み替え、夜の街を走っていたのだ。「刀はそれで良いんですね。随分急いで組むことになりましたけど」
「ええ、大丈夫です。刃こぼれは刀の宿命ですから慣れていますよ。それにこんな仕事なら急いで付け替えるのなんて日常茶飯事ですよ」
紅葉は刀の柄を撫でる。妙な音は響かない。刀はしっかり固定されている。
「それよりも大丈夫なんですか? わたしたちは回らなくても良いんですか?」
そう言っている間にも電線を奔っていた電気の怪異が怪異狩と戦闘を開始した。
紅葉たちはそれを尻目に走る。戦闘に参加せずに、一目散に走って行く。先を案内するのは四島だった。
陽毬の手がかりのことが第一だが、この状況はあまりにも異常だ。市民達にもストレートに危険が及ぶ。必要なら手を貸すべきだと紅葉は思ったのだ。
「良いんです。この街の怪異狩みなさんと、今夜の決戦のために応援に呼んでいた他の地域の怪異狩の方々を総動員すればなんとか対応出来るはずです。その間に市民の避難は警察が迅速に行ってくれます。私たちはそれよりも向かう場所がある」
「どういうことなんですか?」
「陽毬さんの居る場所です」
四島はまたかかってきた電話に出る。短く会話し、しかし的確に指示を飛ばし四島は電話を切る。
「分かるんですか?」
「ええ、恐らくは」
四島はスマホの画面を素早く操作する。そこにはいくつかマークの入った地図が表示された。それぞれが渚市にある施設。音楽堂やイベントホールというような大型施設だった。
「この怪異の異常な出現は間違いなく陽毬さんをさらった何者かによるものです。その何者かは『白峰の霊鏡』の出現を確実なものにするために、条件を揃えるために、その邪魔をされないためにこの状況を作った。つまり陽動なわけですね、この怪異たちは」
「それは分かります。ですが、この大騒ぎの中でどうやって場所を特定するんですか?」
「相手は出方を誤りました。いえ、本来ならこれで攪乱としては十分でしょう。ですが、残念ながら私はそこそこ有能なんですよ」
そう言う四島の表情にはやはり変化はない。恐らくは軽口を叩いたつもりなのだろうが全然そう見えなかった。
そして、四島はスマホの画面を紅葉に見せる。
「事前に『白峰の霊鏡』の出現条件を揃えるために適した場所の候補をいくつか考えておいたんです。本当は全てをしらみつぶしに回らなくてはならなかったんですが、もうその必要も無くなりました」
四島はもう一度画面をタップする。すると、今までのマークにさらに細かい点がいくつもいくつも、それはもう、うんざりする量が表示された。
紅葉には言われなくてもこれが何の表示なのか分かった。
「怪異ですね。これが全部出現場所なわけですか。それで、どういうことなんですか?」
「この怪異たちは満遍なく出現しているように見えます。どこかしこに、穴無く出現しているように見える。ですが、よく観察すればそうではないんです。そうでなければならないんですよ。なにせ、霊鏡の出現エリアの近くで怪異狩に戦闘をされてはすぐに居場所が露見してしまう。そうなれば儀式を止められる危険が出てくる。だから、一見では分からないように、しかし、周到に怪異とある程度の距離が保たれている施設があります」
四島はそうして、その施設を拡大した。
そこの近辺にも怪異は出現していた。しかし、全てが微妙に施設から距離を話していた。そして、その施設の直上にも3体の怪異が出現していたが全て飛行型の怪異だった。既に駆けつけた怪異狩を引っ張って施設から離れてしまっていた。
確かに、どこが黒かといえばここしか無いように思われた。
紅葉が見ても言われなければ分からない程度の差。怪異たちの出現間隔の差はそれぐらいでしか無かった。
事前に候補を絞った上で、四島ほどの直感が無ければ決して気付くことは無かっただろう。
このまま、向かえば陽毬と陽毬をさらった何者かはこの施設に居る。そして、もうその施設までは目と鼻の先だった。もう、紅葉の目に映っていた。
しかし、
「このまま向かえば確実に我々の敵はそこに居ます。陽毬さんも。ですが、紅葉さん。そこにはどう足掻いても我々だけで入らなくてはならない。なにせ、街はこの有様です。誰も私たちの応援に来られる状況ではない」
四島は走りながら聞く。つまり、紅葉には四島の言わんとすることが分かった。だから、紅葉は四島が直接聞く前に答えた。
「行くしかないでしょう。我々だけでも。霊鏡が四島さんの話した通りのものなのなら、こんなことをする異常者に渡してはならない。そして、陽毬さんは必ず助けなくてはなりませんから」
紅葉に迷いはなかった。こんな状況を作り出せる術者の元にたったの二人で乗り込まなくてはならない。しかも、相手が周到に準備したであろうテリトリーの中に。
それに伴う危険は計り知れない。本当に死ぬ可能性もある。
いや、死ぬに決まっているのだ。なにせ、あそこに居るのは。あそこに現れるのは。間違いなく正体不明の何者かだけではないのだから。
しかし、紅葉は続けた。
「それに、私の読みが正しかったら勝てるかもしれません」
その言葉に四島は目を丸くした。普段無表情の四島がはっきりと表情を変えたのだ。それほど紅葉の言葉は意外だった。いや、信じられなかったのだ。
あんなものに勝てるなんて、世迷事としか思えないのだから。
「本当に言ってるんですか?」
「ええ、恐らくですが」
強がりも多分に含まれているであろう言葉。これから死地に向かう自分たちを奮い立たせるための空元気でしか無いような言葉。
しかし、四島は紅葉が何者であるかを知っていた。
「そうですね。あなたが言うなら間違いない」
「まぁ、任せておいてください」
紅葉ははっきりと言った。そこに迷いはない。気後れもない。ただ、倒すべきモノに対する意思のみがあった。
紅葉は戦うつもりだった。
敵は間違いなく歴史上でも最悪クラスの相手。紅葉はそこにほんのわずかに存在する勝機を全身全霊でたぐり寄せるつもりなのだ。
果たして人間に可能なのか。しかし、紅葉は出来ると思っているのだ。
「着きましたね」
そして、二人はとうとうたどり着いた。
そこはこの県でも有数のイベント施設。渚市国際会議場だった。上尾河の河口近くにある大型ショッピングモール並の巨大施設だ。3階建てのメインエリアの中央に展望フロア付きの高層エリアもそびえている。まさしく渚市のランドマークのひとつである。
今は防災上の理由で改装工事が行われている。
休日は多くの人で賑わい、毎週様々なイベントが行われる。渚市の経済的な拠点。
その駐車場まで二人は来る。そこではすでに怪異が数体暴れており、怪異狩が戦闘を行っていた。車はもうほとんど居ない。みな、逃げだした後だった。二人は怪異の横を抜けてさらに走る。目指すは当然、国際会議場の中だ。
そして、四島の予想した通りだった。駐車場近辺では怪異が何体も暴れている。しかし、そこを越えると何も居なかった。人間も怪異もなにひとつ居なかった。
この大騒動の中で国際会議場の建物だけは異様な静けさに包まれていた。
「恐らく、怪異の出現に合わせて人払いの符術も使ったんでしょうね」
これなら、中でなにをしても外に漏れる音も衝撃もそうそう気取られることは無いだろう。つまり、中で何事かをしようとしている人間が居るということだった。
ビンゴだった。四島の読みは当たったのだ。
ここに、二人が探していた人間が居る。
「ああ、触れましたね」
「探知用の結界ですね」
ドアを開けた瞬間に二人は感じた。相手が張った結界に触れたのだと。しかし、始めから望んでいるのは直接対決だ。こちらの存在が気取られようが最早関係はない。そもそも、結界に対する策を弄している時間も無い。
二人は構わず中を進んだ。
照明は灯っている。中にも街中で起きている戦闘の音、救急車やパトカー、消防車のサイレンの音が響いていた。
四島は懐から符術札を出し、紅葉はいよいよ刀を抜いて進む。臨戦態勢。いつどこで戦闘が始まるか分かったものではない。
館内にうっすらとただようのは明らかに異質な空気だった。怪異に長年関わるものが感じ取れる微妙な空間の異常。すなわち、怪異が発生するために現実が歪められているという気配。予兆のようなものがこの国際会議場には満ちていた。
二人にはなにかが起きようとしているという確信を持てるほどだった。
「上ですかね」
「はい、恐らく立ち入り禁止になっているエリア、2階の大ホールが怪しいでしょう。白峰の霊鏡の条件。細い通路の先の大きな空間にぴったりと合致してますから」
2階大ホール。この建物の2階と3階の一部をぶち抜いて存在する国際会議場で一番大きなメインホールだ。入り口の張り紙によれば、今は改装工事の兼ね合いで大ホールは一般人は立ち入り禁止になっているようだった。
エレベーターから真っ直ぐ一本道に通路の先に広がっている空間。それはつまり『白峰の霊鏡』の出現条件にぴったりと合致しているのである。
この建物の中で最も霊鏡を出現させるのにぴったりの場所、それが2階大ホールだった。
二人は走る。妨害の怪異のようなものは出現しない。真っ直ぐにエレベーターへと向かう。しかし、二人が警戒するのは襲撃者の怪異などではなかった。あの程度なら、紅葉は倒そうと思えば倒せる。問題なのはそんなものではない。
問題なのは二人がこの三日間ずっと相手にしてきた怪物だ。
―カラン
響いた音が聞こえた瞬間、紅葉は一瞬で体を反転させそちらに向いた。エレベーターは目と鼻の先の場所。自販機などが並ぶエレベーター前のレストスポットだ。
紅葉の瞬時の動きに遅れる形で四島もそちらを向く。符術札を手にその怪物を見た。
「ああ、出ましたね」
怪物が、『刀鬼・蕨平諏訪守綱善』がそこに立っていた。
今まで通りに薄笑いを浮かべ、今まで通りに無駄な力の入っていない楽な姿勢で。
当然のことだ。この怪物は『白峰の霊鏡』を手に入れるために出現していたのだ。この夜に、この場所に出現せずにいつ出現するというのか。
紅葉も四島も始めから分かっていた。襲撃者は二人で連携すれば恐らく対処出来る。
しかし、ここにはこの怪物が、SSレートの最凶最悪のこの怪異が出現する。
二人がこの人数でここに来る上で最も懸念したのは襲撃者ではなく、当然この恐るべき人型怪異のことだった。
「おやおや、今日はお二人だけですか。なんだか寂しいんですね」
蕨平は残念そうに表情を歪めた。対する二人は黙っている。目の前に居るのは人の形をした災害だ。一瞬だって気を緩めることは出来ないのだ。会話をするなどもってのほかで、一瞬一瞬を、ただ生き残るための思考に当てなくてはならない。
そのはずだ。
しかし、紅葉は言った。
「二人じゃありません、あなた程度は私独りで十分ですよ」
大見栄を切って見せたのだ。
「ほう、あなた独りでアタシの相手を? 本当ですか?」
蕨平は嬉しそうに笑った。
「紅葉さん!? なに言ってるんですか!」
本当に珍しく取り乱す四島。
四島は二人でなんとか蕨平を倒すつもりだったのだ。一人きりで紅葉が戦うなどと思ってもいなかった。
しかし、紅葉は取り乱す四島を気にすることはない。ただ、黙って蕨平に向かう。刀は脇に構え、まさに戦闘態勢。
この場で一番動揺しているのは四島だった。紅葉と蕨平は真っ直ぐにお互いを見据えている。
そして、蕨平は突如笑い出した。
「カハ、カハハハハハハハハ! 素晴らしい、素晴らしいですよお嬢さん。あなたはやはり素晴らしい! 一昨日、昨日とアタシと戦って、アタシの人外ぶりをその目で見て、なおアタシと一対一でやり合おうってんですか? まともとは思えませんよ。ですが」
そして、蕨平はその手を柄にかけた。
「ですが、どうやらあなた本気だ。あなた本気でアタシを倒せると思ってる。目がそう言ってる。それはとてもとても素晴らしい。是非見せて欲しい、アタシを倒せるというその剣を。いつかのあの日の彼のようにアタシをぶった切れるというんなら、見せてくださいお嬢さん! アタシは嬉しくて仕方が無い!!!」
蕨平は完全に高揚していた。昨日までこの怪物と戦った人間なら、その圧力だけで逃げだしたくなるような狂気を放っている。しかし、紅葉は身じろぎひとつしなかった。ただ、目の前の怪異を倒す方法、それのみを全力で脳内でシミュレートしている。
しかし、その紅葉の表情が徐々に歪んでいく。浮かぶ表情は怒りだった。紅葉は怒っていた。
そして、紅葉は叫んだ。
「ふざけてるんですよ。今回の事件はなにからなにまでふざけている。お前が出現したことも、陽毬さんの境遇も、そしてそんな陽毬さんをさらったクソ野郎も。そして、助けられなかった私自身も。なにからなにまでふざけている。私は頭に来ています。なにからなにまでぶち切れそうだ。だから、私はお前をさっさとぶった切って、陽毬さんを救い出す!!!」
それが、戦いの合図だった。その時点で蕨平は紅葉をただ一人の敵であると認めた。
SSレートの人型の災害とただの人間の怪異狩の戦いが始まる。
遠くで戦闘の音が聞こえる。パトカーや救急車のサイレンが鳴り響き、街は異常な騒ぎだった。
外は雲が晴れていた。紅葉たちを見下ろすように、鮮やかな月が夜空に煌々と照っていた。
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