第11話

 走って走って走っていた。陽毬は紅葉から逃げるようにひたすら走っていた。通りを進み、川を越え、離れたところにある運動公園までやってきた。その、芝生広場にあるベンチまで来ると陽毬はそれにすがるように座り込んだ。

 呼吸は荒い。走ったことだけではない。精神的に不安定だからだ。

 紅葉は陽毬に自分の身を優先しろと言った。誰が目の前で倒れていっても決して手を出すなと。ただ、自分を守って逃げろと。

 しかし、陽毬はそんなことは出来そうになかった。したくないではなく、出来ないのだ。

 陽毬はその感覚に行き当たった時に自分の過去を回想していた。

 ずっと、どうでも良いことにしていた過去を思い出していた。

 もう諦めたことにしていた出来事を思い出していた。

 そして、ずっと思わないようにしていたのに思ってしまったのだ。

 どうして、こうなったのか、こうなってしまったのかと。

 そう思ったとき、陽毬はいてもたってもいられなくなってしまった。どこへ行っても逃げられないのに、どこかへ逃げたくてたまらなくなってしまった。

 だから、自分が『白峰の霊鏡』で下手な行動をするべきではないというのに、紅葉の元を離れ走り出してしまったのだ。

 少し一人になりたかった。

 一人になって、頭を落ち着ける時間が欲しかった。ほんの少しだけで良いからその時間が欲しかった。

 陽毬は荒い呼吸のままベンチに前のめりに座り込んでいる。視線はただ前を見ている。前方の虚空を。そして、呼吸と心が落ち着くのを待っていた。

 落ち着かせて、それから紅葉の元に戻るのだ。

 そして、突然取り乱したことを謝らなくてはならない。紅葉はなにがなにやらワケが分からないはずだからだ。

 それでも深くまで話すことは出来なかった。それは陽毬の過去にあまりに関わりすぎていて、またきっとこうなってしまうから。

 だから、逃げたことも話せないことも両方謝らなくてはならない。

 そして、やっぱり他人が倒れていくのを見過ごせないことに関して紅葉と妥協点を探さなくてはならない。

 そうすれば、今夜の戦いにちゃんと臨める。

 そして、勝利すればこの問題はこれで終わりなのだ。

 陽毬の呼吸は段々と落ち着いてきた。

 ただ、宙を見ていただけの眼差しにも色が戻り、景色を見て取れるようになる。

 平日の運動公園には何人かの親子連れが居るだけで静かなものだった。

 曇り空から弱々しい日射しが差しこんでいる。向こうに見える川を遊覧船が走っていた。カラスが汚い声を上げながら飛び去っていく。

 昨日の騒動からは想像出来ない、穏やかな正午だった。

 陽毬は少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。

 そんな時だった。陽毬に声がかけられたのは。

「おや、あなたは昨日の」

 取り乱している陽毬にはその言葉は良く聴き取れなかった。しかし、足音が自分に近づいてくるのは聴き取ることが出来た。なので、今聞こえた人の声が自分に向けられたものだとようやく気付いたのだ。

 陽毬が力なく顔を上げると、そこに居たのは昨日金甲警備を引き連れていた男だった。高そうなビジネススーツを身につけ、いかにもデキる人といった快活な雰囲気の男。金甲警備警備部部長、天淵桐也だった。

「こんにちは、覚えてますかね。金甲警備の」

「天淵さんだったっけか」

「おや、ありがたい。一度顔を会わせただけなのに名前を覚えて貰えるなんて」

「あんたは印象に残りまくったからな」

 陽毬はか細い声で言う。そんな陽毬の様子に天淵は異変を感じ取ったようだった。さすがに、今の陽毬が普通の状態で無いということは見知った仲で無くとも分かる。

「どうしました? 体の具合が悪いんですか? なんなら医者まで送りますが」

「いや、良いよ。さっきまで悪くて今落ち着いてきたところだからさ。あんたこそ、なんだってこんなところに。お偉いさんなんだろ?」

「ああ、この辺の顧客に用がありまして。それが終わって休憩がてらに散歩してたんですよ」

 ぶしつけなもの言いの陽毬に天淵はまったく動じる様子は無かった。大人の対応なのか、懐が広いのか。それは、天淵の人柄を良く見せていた。陽毬の警戒を薄める程度には。なので、陽毬はそのまま気兼ねすることもなく会話を続けた。

「そうか、忙しいんだな。昨日あんなことがあった次の日だってのに」

「ええ、昨日は申し訳ありませんでした。こちらから協力を申し出ておきながらまるで役に立てず」

「仕方ないさ。あんな化け物相手じゃ。あんたらだって頑張ったしあんたらだって被害者だ」

「そう言って貰えるとありがたいですね。でも、私は後方から見ていただけです。最前線で戦った部下は全員病院ですし」

 天淵はどことなく気落ちした様子で言った。倒れていった部下を思って、戦えない自分に罪悪感を持ってのことのようだった。

 そんな様子を見て陽毬は悪いやつではなさそうだ、と思うのだった。

「というか、あなたはなぜここに? 今日の準備などは?」

「ああ、そうなんだ。やれやれ、ありがとうよ。あんたと話してたらすっかり気分も落ち着いたよ。そろそろ、戻らねぇと」

「ああ、そうでしたか」

 そう言って陽毬は立ち上がる。いい加減に紅葉のところへ戻らなくてはならない。きっと、半ギレになりながら陽毬を探し回っているだろう。説教を受けて、仲直りをしなくてはならない。

 天淵の声色と雰囲気のせいだろうか。陽毬の心も呼吸もすっかり元の通りになっていた。

 陽毬は手を上げ、後ろの天淵に感謝しつつ運動公園を後にする。

 しかし、

砡囲ぎょくい

 次の瞬間、金色の柵が陽毬を取り囲む。それらは人の背丈を越える高さで、外と内を遮断する。明らかに符術。完全に陽毬を閉じ込めるための。

 が、

「逃れたか。勘は一級品だな」

 その中に陽毬の姿は無かった。柵が現れた瞬間に陽毬は動物的な直感でその範囲から脱出

していたのである。

 陽毬は範囲外に飛び退き、自分を攻撃した人間を睨み付けた。

 そこに居たのは陽毬が知らない人間だった。いや、知らないはずは無かった。立っている場所もさっきと同じ。服装も同じビジネススーツ。髪型も同じ、顔も同じ。あらゆる外見の情報が間違いなく今までそこに居た、今まで自分が話していた人間と同じであることを示していた。

 だが、どうしても陽毬にはこの人間が今まで接していた人間と同じだとは思えなかった。

 どうしても、陽毬にはこの人間が天淵桐也だとは思えなかった。

 今、陽毬の目の前に居る人間はさっきまで天淵とは別人だった。

 陰険な表情だった。地獄のように暗い雰囲気だった。この世の『負』という概念を人型にしたような人間だった。いや、人間というより無機物に見えるような、そんな男だった。

 陽毬は見た瞬間に目の前の人間がろくでもない存在であることを理解した。

 その彫像はゆらりと動いて陽毬を見ていた。

「なるべく穏便に済ませようと思ったが。そう簡単にはいかんな」

 男は懐から本を取り出した。古い紙の表紙の本。古文書かなにかのような書物。男はそれを右手に持ち何ページか開いた。戦闘態勢、おそらくは符術の一種。

 この男は、天淵桐也は明らかに陽毬と戦闘を行い、そして拘束しようとしていた。

「なんだてめぇ! なんのつもりだ!」

 陽毬は叫ぶ。しかし、天淵はそのまま次の術を行使した。

碧帳あおとばり

 天淵が言うと、薄い水のようなヴェールが二人を中心にした半径20mほどの円となって立ち上った。しかし、周りの景色はそのままだ。なんの術なのか、陽毬には判別出来ない。

 なにもかも分からない。さっきまで気さくに会話していた男がいきなり別人のように豹変したのも、いきなり戦闘を始めたのも。しかし、男の動機に関してだけは陽毬は思い至っていた。

「てめぇ、まさか俺を、『白峰の霊鏡』を狙ってんのか!」

「その通りだ。お前を捕らえて蕨平に差し出す」

「なんのためだ!」

「我が社のためだ」

 陽毬の質問に男はまるで言いよどむこともなく淡々と答えた。隠すことなどなにも無いというように。

 あまりに当たり前のように話すので陽毬の方が動揺するぐらいだった。

「なんだってんだ。あいつが霊鏡を手にしたらどうなるか分かってんのか!」

「ああ。蕨平は人間に戻る。その副作用で時空が歪んで少なくとも数百人が消失するだろう。そしてあいつは手当たり次第に斬り合いを始める」

「な、なんだと? なんだ、なんなんだてめぇは。どれだけのことをどこまで知ってんだ!」

「少なくとも霊鏡に関してはお前たち以上に知っている。調べたからな」

 調べた、その一言ですませられる程度の努力で『白峰の霊鏡』に関することを知れるとは陽毬には思えなかった。四島でさえ全容を把握出来ていないのだ。いよいよ、この天淵という男は得体が知れなかった。

 天淵はまたページをめくる。もはや、戦いは避けられないようだった。思わぬところから信じられない形で伏兵が現れたということだった。天淵の行動も目的もてんで意味不明だったが戦うしか無い。そうしなくては陽毬は捕まってしまう。こんなところで今までの色んな人々の努力を無駄にするわけにはいかなかった。

 陽毬は懐から畳んだ巻布を取り出して一気に両手を巻き上げた。

 これが、陽毬の武器。肉体強化をかなりの域まで高める符術のひとつだった。

「なにがなんだか分かりゃしねぇけど、俺を捕まえようってんならぶっ飛ばす!」

 先手必勝。陽毬の戦い方はいわばただの喧嘩拳法だ。型もクソもありはしない。陽毬はなんの小細工も無しに真っ正面から殴りかかる。人間より大きい怪異をも吹っ飛ばす、渾身の右ストレートだ。

赤金蟒蛇あかがねうわばみ

 天淵の前に紋様の入った赤い壁が現れる。陽毬の攻撃はそれにぶつかった瞬間完全に止められてしまった。

「マジか!」

 傷一つ入っていない。陽毬にとって最高クラスの攻撃はこの壁にまるで通用していない。

 陽毬は勢いそのままに嵐のように殴りつけ、蹴りも入れるが壁はびくともしなかった。

「のたうて」

 そして、その壁はぐにゃりとねじれた。そして、そのまま陽毬を絡め取るように襲いかかる。

 陽毬は瞬時にその範囲から逃れる。壁は空を巻き、そのまま元のように天淵の前に戻った。

「大したものだ。速度だけなら『朱の紅葉』にも退けを取らんか」

「バカ言うな。姉さんに比べたら全然だ」

 そのまま陽毬はまた真正面から全力で攻撃を仕掛けた。全力の拳、全力の蹴り。それらを壁に浴びせていく。しかし壁に傷は付かない。守りは絶対だった。かといって飛んで越えようとしようものなら壁に瞬時に捕まってしまうだろう。

「撥ねろ」

 と、陽毬の蹴り。それがぶつかる瞬間に合わせて手前に壁がたわんだのだ。陽毬の足には予期せず強い衝撃が加わる。

「いってぇ!」

 陽毬は思わず飛び退く。壁から離れて天淵を警戒しつつ蹴りつけた右足の調子を確かめた。骨まではいっていないようだがそれでもジンジンと痛みがあった。

 そして、

「逆巻け」

「ちっ。厄介な壁だな」

 壁はまるで蛇のようにのたうち、大きくなり、陽毬に襲いかかった。これ一個が怪異なのだろう。少なくともCレート以上、下手すればBレート並の厄介さ。それが、陽毬を捕らえようと迫る。

「なにモンだてめぇ! ただの会社員じゃねぇな!」

「いや、ただの会社員だ。ただの会社に尽くす普通の会社員だ」

 こんな芸当が出来る人間はどう考えても普通では無い。しかし、天淵の言葉にはなんの含みも無かった。ただ当然の事実だとでも言いたいようだ。

「クソッタレ!」

 陽毬は壁の攻撃を避けつつ攻撃を加えてみるがやはり傷ひとつ付かなかった。動きそのものはさほどではないが、この壁の防御力は相当なものだ。少なくとも今の陽毬の攻撃力では絶対に倒すことは出来ない。

 壁は体を伸ばしながらもご丁寧に天淵は守っている。怪異も倒せず、それを使役する術者も倒せない。つまり、陽毬は現状で天淵を倒すことは出来ないということだ。ついでに右足も万全とは言えない状態になっている。

 陽毬は頭は良くないと自覚しているが、戦闘の状況を把握することぐらいは出来る。

 戦っても勝てない。ならばやることはひとつだけだ。

「付き合ってられねぇ、ズラかるぜ!」

 陽毬は壁の攻撃を避けつつ、水のヴェールのようなものの外へと向かう。戦っても勝てない。ならば、取る手段は逃走のみだ。

 陽毬がすべきことはとにかく捕まらないことだ。戦って勝つことでは無い。逃げることさえ出来れば応援を呼ぶなりなんなり、方法はいくらでもある。

 しかし、天淵がそれを黙って見逃すはずはない。

黒蝙蝠くろこうもり

 天淵が言うと、その周囲に黒い翼だけの怪異が出現し、陽毬に向かった。すさまじい速度だ。まるで弾丸。

「ちっ!!」

 陽毬は飛んでくるそれを拳を振るって倒そうとする。しかし、当たらない。怪異の速度が陽毬の拳を遙かに上回っているのだ。怪異からすれば陽毬の拳など止まっているも同然なのだろう。

 そして、そのまま怪異は陽毬にその体をぶつけた。

「いってぇ!!!」

 怪異は小さい。しかし、そのすさまじい速度でかまされる体当たりは人の拳で殴りつけられるよりも遙かに強い衝撃だった。陽毬は吹っ飛んでヴェールの中へと戻される。

 そのまま、陽毬にうねる壁が襲いかかる。

「くそ! ひでぇ状況だぜ!!」

 陽毬は間一髪それをかわすが、翼の怪異たちの応酬は止まない。陽毬は両腕でガードしてなんとかしのぐがかなりの重さだ。当たり所が悪ければそれだけで腕を折られかねない。

 壁の怪異と翼の怪異。それらの動きは噛み合い、陽毬を翻弄する。このままではまずい。

「このまま詰めさせてもらおう」

 天淵はさらに翼の怪異を2体増やす。このまま陽毬を戦闘不能にしてゆっくり拘束するつもりのようだ。

 陽毬はそれらの猛攻を受ける。しかし、

「その水の幕は外から中を見えなくする効果か。ついでに、出ようとした瞬間に怪異を増やしたってことは、拘束力はねぇみてぇだな」

 そう言って、陽毬は懐から切り札を取り出す。握られているのは符術の札。

「姉さんから使い方習っといて正解だったぜ! 『懸巣』!」

 陽毬はそれを一気に6枚破り捨てた。それは紅葉が良く使う怪異の動きを鈍らせる符術。怪異たちの動きが鈍る。その瞬間に陽毬はその包囲を突破する。

「土蜘蛛」

 しかし、天淵は新たな怪異を呼び出し、陽毬の前に立ち塞がらせた。巨大な石で出来た蜘蛛のような怪異。後ろの怪異たちの拘束も解ける。全てが陽毬に向かって襲いかかった。が、

「侮りすぎていたか」

 天淵が漏らす。

 それと同時に陽毬の姿は陽炎のように揺らぎ、消えてしまった。

「偏光か。光をずらす符術だな。本体は出たか。しっかり頭を使うじゃないか、敷島陽毬」

 光をズラし、本来と離れた所に姿の幻影を映す符術。陽毬は怪異の動きを奪う術と共にそれを使ったのだ。そして、天淵の怪異たちはまったく見当違いのところに集まり、その間に陽毬はこのヴェールの内側から脱出したということだった。

 陽毬はもう突っ走ってどんどん離れているところだろう。

「思いのほか手間取る。ここで捕獲できると思っていたが」

 天淵は手元の本のページをめくった。すると、出現していた全ての怪異、そしてヴェールが姿を消した。思った通り、陽毬は運動公園を出て遙か向こうまで行っていた。人間の足では到底追いつけない。

 天淵はめくるページを止める。

栂鷲つがわし

 それと同時に、天淵の足下からメキメキと音を立て、木が育っていった。それは天淵の頭上まで梢を広げ、そして梢は根を幹を吸い取るようにどんどん巨大化していく。そして、それはやがて、翼長20mはあろうかという怪鳥の姿となった。

 それは翼を大きく広げる。

「追え」

 天淵の言葉と同時に怪鳥は舞い上がった。向かうはやはり、陽毬だった。怪鳥は翼で空気を叩きながら飛んでいく。早くも辺りは騒ぎが起きていた。

 そして、天淵はその後を追ってゆっくり歩き始めた。

「夕方までに済ませなくてはな」

 その表情に変化は無く、地獄のように陰気なままだ。


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