ハルピン・ノワール

うぉーけん

鳥の人


 頭の芯が痺れる、甘い匂い。煙のとばりの向こう側から、艶やかな女の声が聞こえる。

 あの人の帰りを待ちわびる呟き。褥で交わされた愛を信じる囁き。男の身を案じる詩を詠み、目見得めみえする瞬間の喜びを唱えている。幾度も幾多も幾日も。


 でも、希望が叶うことはない。


 ここは哈爾浜ハルピン傅家甸フージョデン地区。西洋建築である、混沌と混錬によって群れ建つ中華バロック街。一角に建つのは、あらゆる権力を撥ねつけてきた最悪の貧民窟にして阿片窟、かつて権勢をふるった満州警察機構をもって「魔窟」と言わしめた空間――大観園ダァクヮンユァン


 貧民たちは意味もなくこの空間で生まれ、毒され、貪られ、剥ぎ取られ、死んでいく。


 扉が軋む。通路の悪臭が部屋に流れ込んでくる。甘い匂いと混じっていく。

 振り返る。ひび割れた寝床に敷かれた敷物アンペラには闇と煙が倦んでいる。


「行ってくるね、母さん」


 女に聞こえるはずもない言葉を残し、ひとり、出ていく。



 女は剣呑な雰囲気を纏っていた。大腿部が覗く、露出過多の支那服。腰から吊るした柳葉刀。染み付いた腐敗と阿片の甘い匂いをもってなお消せない硝煙の臭い。長い流麗な黒髪。石蝋めいた色合いの肌。憎悪を噛みしめている顔つき。赫々と燃えるような視線。

 右肩から手首まで、素肌に描かれるのは、中国の伝説にあらわれる毒鳥・ヂェンの刺青。


 女に親から与えられた名前はない。ただ朽羽シォウイーと呼ばれている。


 シォウイーは優雅に歩く。歩を緩ませない。せせこましい通路に男たちが群がり、業病で息も絶え絶えの女から服を剥いでいたとしても。死にかけた人間はあらゆるものを奪われる。墓標に刻まれる名すら亡くし、屍を曝す。

 大観園ではよくよく見られる光景だった。


 幻視。服を剥がされる女の手の甲には黒子。母と同じ肌。眼をしばたたかせると、見えたのは水分を失いしわがれた幽鬼の右腕。助けを求めるように伸ばされた女の手を躱す。大観園にいる女は、それが誰かの母であれ妻であれ娘であれ、媳婦シーフとは言われない。たいがいが娼婦の類だ。身を売って稼いだわずかばかりの金は、息子であれ夫であれ父であれ、男たちの阿片代に消えていく。

 春をひさぎ、阿片に溺れ、死ぬまで終わらない繰り返しの日々。生き地獄の無限回廊。


 ここで女が生きていくためには、売りをやるか盗みをするかだ。できない者はあっさり死ぬ。


 でも、シォウイーはどちらもしない。

 かわりにやるのは、殺しだ。


 すれ違いざまに横目で見下ろしてみても。そこにいる女はやはり母ではなかった。渇ききり痩せさらばえた死体にすら思える。断末魔のうめき声で助けを求めるさまは、滑稽ですらあった。

 母は、艶やかな声音の持ち主は、いまでも女であった。抗日戦の戦士、八路軍の英雄を待ち続ける白昼夢に溺れているから。男の愛が気まぐれでなかったと、萎びた脳が見せる幻想に浸かっている。


 だから、今でも女なのだ。

 恋する女の、艶やかな声をしているのだ。


 身ぐるみ剥がし終わると、男たちのひとりが女の両脚を掴む。軽い頭陀袋でも運ぶように肩に担ぐ。「あああー」という悲鳴とも、単に空気が器官を抜けていくだけとも聞こえる声だけが尾を引く。

 ただでさえ汚臭と虫たちが漂っているのに、建物の中で死なれては余計に汚くなる。

 阿片か梅毒かは知らないが、頭がおかしくなった哀れな女は通りに投げ捨てられることになるのが常だ。死を弔う者はいない。暗い穴にさようなら。そのまま、万人孔に遺棄されるだけだ。


 中国人街に聳える大観園は本来、大劇場として建設された。


 だが経営難からオーナーは内部を小さく小さく区切り、集合住宅に改装した。行き場のない者たちがそこに住み着いた。貧しい人間たちが狭い空間に千人超ひしめいているのだ。今では大観園は強盗、殺人、麻薬、売春、口に登らせるのがはばかられる犯罪の温床になっている。ここには食堂から床屋もあれば、阿片を精製した違法モルヒネ屋まで、およそ地球上に存在するほぼすべての商売があった。

 あらゆる介入を拒み、行政権も警察力も及ばない、無法の空間。

 ハルピンに生じたひずみ、あるいは無頼者たちの国家そのものであり、同時に揺り籠であり墓場でもある。


 それが大観園だ。


 先の大戦による満州国の消滅により、日本人の阿片王が失脚した。

 以来、木っ端流通ルートを手にした流氓チンピラたちが、どうにかそれを金に換えようと必死だった。当然、古くから商売をしている幇会パンフェがおもしろく思うはずがない。


 シォウイーは扉を幾度も開け、迷路のような内部を進んでいく。


 たっぷり一区画は通り抜けた気がする。

 壁を背に、男が立っていた。うろん気な視線を向けてくる。


「おい、ここから先は」


 答える代わりに柳葉刀を引き抜く。薄暗い廊下に白刃が煌めく。斬撃。鋭い切っ先が男の喉を裂くと、巨躯が斬面から血の泡を流しくずおれる。


 シォウイーのやとい主チァンコィの命令はただひとつ――誅戮せよ。


 扉を蹴破る。薄い板はたいして抵抗もなく開いた。

 同時に扉脇に突っ立っていた護衛役の胸に柳葉刀を叩き込む。肋骨を掠めて心臓を捉える。男が大きく痙攣し、刀を巻き込んだまま斃れた。深く刺さり過ぎた得物は未練なく捨てる。


 甘い香り。深く濃い煙が、霧を思わせ満ちている。

 酩酊感。努めて意識から締め出す。


 部屋の中には男が四人。大観園土着のチンピラが、商売を仕切る黒道ヤクザ者たちになんとか下克上を試みるために、流通ルートを手にした新参者とモルヒネの精製機械を買い付けるための交渉中らしい。

 浮足立っている全員を一瞥する。もっとも危険なのは、左端の固太りした男。履いているのは鳥魯靴ウーロシュと呼ばれる、中国東北部に住む田舎者独特の防寒靴だからだ。


 都市部で履いているとしたら、他には共産党八路軍の兵隊くずれの可能性が高い。

 反応が一段早い。兵隊くずれが桌子テーブルに置かれたコピー・トンプソンに手を伸ばす。もうひとりが、懐から関東軍の置き土産の自動拳銃を取り出そうとする。


 でも間に合わせはしない。シォウイーはスリングで尻に回していた短機関銃を、すでに右手にかまえていた。


 毒鳥に触れた生物はどうなる?

 決まっている。藻掻き苦しんで、死ぬだけだ。


 シォウイーはグリップとハウジングを両の手でそれぞれ把持する。装備品か押収物かは知らないが、満州警察が横流ししたベルグマン短機関銃MP18だ。銃口を彼らに向けると、躊躇いなく引き金に掛けた指に力を入れる。吐き出されたモーゼル弾が、まず最初に兵隊くずれを。ついで拳銃の男を貫き、四人を薙ぎ払った。


 発砲炎。手には反動。煙が吹き散らかされ、弾道が幾筋も生ずる。噴出する血と硝煙。斃れる男たち。

 外の見張りを含めて六人殺した。


 依頼主は七人殺せと言っていた。


 見せられた人相書きに、ひとり足りない。記憶をさぐる。首魁の愛人がいない。

 隣室から気配。殺気。シォウイーは転がるように側面へと避けた。四肢が血に塗れるのは気にしない。けたたましい連射音とともに壁が穴だらけになる。この銃声はトンプソン短機関銃だろうか。隣室との区切りは、無理に増設した安普請の壁。たんなる板にすぎず、遮蔽としては期待できなかった。


 お互い様ではある。


 片膝立ちになり、弾丸の尽きた短機関銃から手を離す。スリングで吊っているので落下はしない。代わりに腰の拳銃用の銃鞘ホルスターからモーゼル・シュネルフォイヤーを抜き出す。聞こえる足音と気配を追う。壁越しに薙射。ロングマガジンから給弾される弾丸を惜しみなくばら撒く。

 くぐもった悲鳴と、何かが斃れる音。


 銃声が途絶えた。耳が痛い。ふいに静寂が訪れていた。


 立ち上がる。拳銃をしまい、短機関銃に持ち変える。予備の弾倉を取り出す。中国大陸の工廠で生産されたベルグマン短機関銃は、亡きドイツ帝国の正規品を示す左側でなく、下側に弾倉が付いている。

 再装填。


 シォウイー自身の手で現出させた血溜まりを踏み込んでいく。どこまでも深みに嵌る錯覚。靴底に、血の糸が数多引かれる感触。赤い指たちが生者に掴みかかっているのだ。死者たちが沼の底へと引き込もうとするかのような感覚だ。

 強引に歩を勧める。


 首魁だと聞いていた髭ずらの男は、蚤よりも浅い呼吸ではあったが、いまだ息があった。男がひしゃげた顔面をニヤリと釣り上げる。


再見ツァイチェン

「二度と会わないよ」


 短機関銃を連射。

 それでぜんぶ終わりだった。


 シォウイーは眉間に皺を寄せる。


 男の手からなにかが零れ落ちていた。黒く丸い塊。転がり、血を纏い、真紅の轍を形作りシォウイーの足元へ来る。

 憑りつかれれば骨まで愛される代物だ。人生を破滅させる毒――精製前の、生阿片。


 銃火の衝撃で雲散していた煙が渦巻き、もういちど立ち込める。さきほどよりも粘度を増し、身体にまとわりつく。重い。不快だ。なにもかも。

 シォウイーは大観園を憎悪してやまない――道徳的観念でなく、ただただ単純に臭いから。硝煙と血の臭いが漂い、広がっていく。そこかしこに撒き散らされた小便と、蚤とネズミを媒介に蔓延する病痾と、多様な死因ながらけっきょくは死という同一の陥穽に嵌り込む人間の体臭と、ここだけでなく建物中にくすぶる阿片の香りとが、混じりあい、なんとも形容しがたい悪臭となっていた。


 果てのない怠惰と絶望が粒子となって流れ込み、鼻腔を突く。神経を巡る。脳を冒す。


 眩暈。臭気の暴力が人間の許容範囲を超えている。あるいは空気そのものが毒素に変じたか。

 シォウイーはかぶりを振り、意識を保つ。倦んだ視線をふと巡らせる。銃撃され、隣室で死んだ人間の腕が見えた。


 しろい肌。滑らかな肌。可憐な肌。

 まただ。また幻視がくる。女の右腕。艶やかで柔らかい。皺ひとつ、しみひとつない――母のかいな。求めても娘を抱きしめてくれたことなぞないのに、裸の男の背中を今でも掻き続ける指先。


 蠢いた。五指がのけぞる。引き戸に手がかけられる。敷居が血にこすれる音を立てながら女が現れる。それは、女である母の顔――破顔一笑。


「血と硝煙の臭い。あなたさまの匂い。おかえりなさい、ずっと待っていました」


 艶やかな女の声。みなまで言わせず、シォウイーは短機関銃の引き金を押し込む。銃口が暴れ狂い、機関部から排出された薬莢が水音を立て血溜まりに沈み込む。

 梅毒と阿片で脳をやられた女の顔は、またたくと、男娼の顔に変じていた。いまだ形を残す右の眼球がシォウイーを映す。男に恋患う女の面影がある女を映す。女に愛を嘯いた男の面影がある女を映す。心を手に入れるために、女を欺き男のふりをし強引に痩身を抱いた女を映す。粘膜は感染する。血中を伝染していく。頭を掻き毟る。刳貫されたように喉から直接迸った叫びをあげる。短機関銃を浴びせかける。

 銃弾に穿たれ、頭蓋が血の風船みたいに爆ぜる。


 喘鳴。


 短機関銃を取り落とす。スリングに吊られ、熱を帯びた銃身が振り子めいて揺れた。


 内臓の痙攣が身を捩る。屈し、前屈みに。右手で口を覆うも、無意味な抵抗だった。臭気に胃の腑まで冒され、シォウイーは吐いた。食道が焼かれ、喉が焦げる。酸の味。どうしようもなく嘔吐く。毒鳥の刺青が、吐瀉物まみれになった。

 泣き笑い。


「母さんさ。行ってくるって、言ったでしょ。どうして待っていてくれないの?」


 滴る血とゲロが足元で混濁していく。

 臭う。ひたすらに臭い。甘酸っぱい香りは、阿片? それとも吐瀉物?


 ううん――大観園の臭い。毒鳥の香気。母さんの死臭。

 渇いて崩れて粉になりいなくなった、でもまだそこにいる、女の艶やかな声が脳に木霊する。未来永劫。死に果てるまで。

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