第5章

――1.九岡の警告

 燃え盛る火の隙間から、焼け爛れる者が見えた。

 既にその顔は溶けて落ち、片目のあった部分には深く暗闇が覗いている。

 周囲を見回してみる。

 炎の前に跪く自分を、遠巻きに眺める人々がいる。

 その目は炎の先で燃えるあの人ではなく、その前で泣き崩れる自分へと向けられていた。まるで、野良犬でも見るかのように。いかにも迷惑そうに。

「誰か」

 と自分が口にした。その声は確かに自分の口から発せられたが、それが自分の声であったかはわからない。

「助けてくれ」

 そう続けた自分の声も、周囲の人々へは届かないようだ。首をかしげる者もいる。

 同じ場所にいるはずなのに、違う場所にいるみたいだ。

 ああ――自分が声を漏らし、炎を振り返った。焼ける人の影は、いよいよ輪郭を失っている。

 この者は大罪を犯したのだ――誰かが言った。

 大罪とはなんだ、と自分が言った。

 掟に従わなかったことだ、と別の誰かが言った。

 掟とはなんだ、誰が決めた。

 顔も知らぬ誰かの決めた掟にそぐわないことが、斯様に罪深いことなのか。

 別の誰かが口を開いた。

「そこで泣いていたら、あんたも同じだと思われる」

 なぜだ。

 人を悼み、涙を流してはならぬのか。そのような掟があるのか。

「そうではない。しかし、掟を破った者の肩を持つべきではない」

 なぜだ。

 掟を破るのが罪だとしても。

 罪を犯した者が罰せられるとしても。

 人の死を悼んでなにが悪い。

 誰かがまた言った。

「悪いことをした者を悼んでは困る」

 なぜ困るのだ。

 わからない、教えてくれ。

 誰にも言葉が届かないような気がした。

 助けを求め、辺りを見回した。

 ――と、そこに彼がいた。

 黒く塗りつぶされた顔を歪ませて、彼は笑った。

「君は間違ってはいない」

 美しい声で彼は囁いた。

 その声で、彼は自分に、確かに語り掛けたのだ。

 間違っていないと、そう言ってくれるのか。

 この言葉に耳を傾けてくれるのか。

「そうだ、君は間違っていない」

 彼はもう一度そう言った。

 顔を上げ、炎を見た。

 彼も炎を見ていた。

「焼かれる者は幸福だ。焼かれない者よりも」

 そうだ。

 俺はきっと、その言葉が欲しかったのだ。

 自らの手のひらが、炎で焼かれているのが見えた。

 遠巻きにしていた連中が、眼下に見えた。

 柱に釣られ、炎に巻かれる俺の耳元で、彼が囁く。

 さあ、こっちを見ろ――


 * * *

 開く扉の音で、京平は目を覚ました。どうやら、ソファで眠ってしまっていたらしい。

「ジャボー……?」

 身体を起こし、辺りを見回すが、悪魔はそこにはいない。

「またここに泊まってやがったのか」

 低い声がした方を振り向くと、眉間に皴を寄せた九岡が戸口に立っていた。

「まだ内装工事はしてないみたいだったからさ。コンセプトバー、やらないの?」

「業者が飛んだ。不渡りだとさ」

 九岡がカウンターのハイチェアーに座り、コートを脱いだ。京平はそれを聞いて笑う。

「ほら、やっぱり呪われてるんだここは」

「呪いや幽霊が不渡りを出せるか」

 九岡はにこりともせずに言い、そこに置いてあった酒瓶を手に取った。

「それで、まだやってるのか? 例のビジネスサロンとやらの件は」

「ああ、まあね……」

「ほう」

 大して興味もなさそうに九岡は答える。京平はまだジャボーのことを探していた。簡単に消えてしまうわけはないのだけど。

「それで?」

 適当なグラスを見つけ、酒を注いだ九岡が京平に声をかける。京平は振り向き、九岡の顔を見る。

「なにが?」

「なにがじゃねえよ。そのビジネスサロンのことだ」

「ああ……」

 そう言われてなお、心ここにあらずと周囲を見回す京平に、九岡はため息をついた。こういう状態の京平になにを言っても無駄だとわかっているかのようだった。

『我ならここにいるぞ、少年』

 脳裏に声が聞こえ、京平は振り返る。スツールの上に、ジャボーが乗っているのが見えた。

「ああ、なんだそこにいたのか。消えちまったのかと思ったよ」

『そう簡単に消えはせぬ。我はお前の呪いなのだからな』

「ああ、そうだな」

 ほっとした表情を見せた京平の顔を、九岡は覗き込んだ。

「収まったようだな」

「ああ、それでなんだっけ、九岡さん?」

 ふん、と九岡は鼻を鳴らした。


 京平の話を聞いた九岡は、腕を組んでしばらく黙っていた。

「……大紋道、か」

 ようやく、九岡が呟いたそのひと言が含む響きに、京平は肩をすくめる。

「まあ、気に入らないんじゃないかとは思ったよ」

「まあな」

 九岡はグラスに入ったウィスキーをひと口、飲んだ。

「宗教ってやつが悪いとは言わねぇが……どうも俺は気にいらん」

「どうして?」

 京平は九岡が「気に入らない」ということに興味を引かれた。ジャボーにも目配せをする。ジャボーもまた、その様子に興味を惹かれているようだった。

「大紋道といやぁ、意外に古い団体だ。組織と名前は違うが、体裁を変えながらずっとやってるって聞く」

「意外と古い新興宗教ってのも変な話だね」

 京平はそう言って笑ったが、九岡は眉ひとつ動かさずに話を続ける。

「1970年代にそいつらが起こした事件がある。超能力だか透視だかがブームのころでな……人間の潜在能力を目覚めさせるとかそんな触れ込みのセミナーだかで荒稼ぎして、詐欺で幹部がパクられたっていう、ショボい事件だ。終末思想のおまけつきで、本なんかもよく売れたらしいがな」

「……九岡さんだって似たようなことやってるんじゃないの?」

 京平がそう言うと、九岡はじろりとその目を向ける。首をすくめた京平に、九岡はグラスを突きつけるようにして言った。

「やつらがどんなつもりだかは知らねえが、俺がやってるのは商売だ。それも、法律のグレーゾーンを引き受ける類のな。これは誰かがやらないとならねぇ、この世に必要な稼業だ」

 九岡は風俗産業やサラ金といったグレーな事業の他、廃品処理や産業廃棄物処理などの手堅い事業も手掛けている。いずれも、昼間オフィス街で働くような真っ当な仕事の合間に生まれる需要を満たす産業だ。さらには、ビジネス上のトラブルが起きた際に相談役のような立場でそれを引き受けることもあった。時には暴力や、法の網をつくような対処が必要になることもある。

「必要悪などと恰好をつけるつもりはないが、まあ、正道でございと胸を張れるような仕事じゃねえ。だが、日陰者には日陰者の矜持ってものがある。夜を引き受けるやつがいなけりゃ街は回らねぇんだ」

「わかるよ」

 頷く京平に、九岡は言葉を継ぐ。

「だが、やつらはそうじゃねぇ。法律やら慣習やら、そういったもんを出し抜いたつもりで、自分たちこそが正義だってツラをしていやがる。それが気に入らねぇんだ」

 九岡はグラスを飲み干し、音を立ててカウンターに置いた。

「オンラインサロンだの、ベンチャーだの言ってる連中もそうだがな……これまでにあったものは間違いで、自分たちの掲げるものが正しいと言われりゃ、そりゃついていくやつはいるだろう。だが、『間違っている』と言われた古い正しさの裏で、悪を引き受けていた連中はどうなるんだ? 革命が起こったら、真っ先に立場を失うのはそういう連中なのさ」

『複雑な自尊心であることだ』

 ジャボーが顎を撫でながら言った。京平は苦笑する――しかし、京平とて人ごとではない。九岡の言うようなグレーゾーンで生きているのは京平だって同じなのだ。

 九岡は酒瓶からまた酒を注ぎながら言う。

「犯罪者と正義の味方は戦争にはならねえだろ? だが正義と正義がぶつかれば悲惨な戦争になる。巻き込まれるのはいつだって善良な市民と、俺たちのように善良ではない市民だってことだ」

「ふふ……」

 グラスを口に運んでいた九岡は、京平が声を出して笑うのを聞き咎めて手を止めた。

「なにがおかしい」

「いや、九岡さんのことじゃない。こっちの話だよ」

 そう言って京平は立ち上がった。ジャボーもそれに呼応して後を追う。

「戦争か……結構なことだ。悪は常に保守の傘の下に、か」

 京平は自分のバッグを手に取り、戸口へと向かう。

「おい、どこへ行く」

「決まってる。俺は俺の契約を果たしに、ね。どうやら今回の相手は都合がよさそうだ」

 京平は戸口で九岡を振り返り、言った。

「犯罪を犯すのは人間だし、それをそそのかすのは人の欲だ。だけど、戦争を起こすのは悪魔の仕業なんだよ」

 そうだ、だから京平はそれを追うのだ。ジャボーとの契約を果たすために――

「……ま、気をつけろよ」

 そういう九岡に片手を上げて答え、京平はバーを出た。

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