――3.チャイルドの声

 ビルのエントランスに入った敦子を、坊主頭の男が見止めて手を振った。

「敦子ちゃん!」

 その男の顔を見て、敦子は相貌を崩す。

「平良木君、久しぶり」

 そう言って歩み寄り、平良木と向かい合った瞬間、敦子は思わず噴き出した。

「ぜんぜん変わってないね」

 そうだ、その大きな目といい、坊主頭といい、平良木は敦子の記憶の中のままの姿でそこに立っていた。体格は昔よりもさらにがっしりとしただろうか。

「敦子ちゃんはきれいになったね」

「やだ、そういうことは憶えたのね」

 笑い合いながら、平良木は敦子を導いてエスカレーターの方へと歩き出す。

「ありがとうね、久しぶりなのに」

 敦子に上側を譲り、エスカレーターに乗って平良木は言った。敦子は首を振る。

「平良木君が今なにをしてるか、気になったし……それに、こういうの少し、興味もあったから」

 平良木から誘われたセミナーは、いわゆる自己啓発系のものだ。そういうセミナーがあることは知っていたが、参加したことはなかった。もちろん、警察にいた関係上、悪質なものがあることも知っている。だが一方で、それが本人の助けになるのなら別にいいんじゃないか、とも敦子は思っている。警察という組織の文化は絶対的正義の府ではなく、法と秩序と現実的問題のグラデーションの中にある。例え人を騙すものであろうと、道徳に介入するべきではない、というのがその基本的な態度だ。敦子もまた、そうした文化に生きてきた人間だった。

 だからこそ、かもしれない。

 敦子は多目的スペースの入り口に張られた張り紙に目をやった。

「内なるチャイルドの声を聞け――流されず生きる勇気とその思考法」

 流されずに生きる――敦子がこれまでの人生で、考えもしなかったことだ。敦子が選んできたのは、常に正解だけだった。それでなにも問題はなかったのだ。周囲には流されず生きようとする友人たちもいたが、内心では軽蔑していた。でも――大人になった今、レイや悟郎のような人間が生き生きとしているのを見ると、自分が否定されたような気持ちになる。自分は正解を選んだのに、なぜこんなに苦しんでいるのか。ああいう人間と親しくなれば、それがわかるかもしれないと思った。

 平良木とのメッセージのやり取りでも、それは感じたことだった。子ども時代を一緒に過ごした人間が、今は一般的な道を外れ、こうした仕事で他人になにかを届けようとしている――彼が敦子に送ってきた言葉はどれも、深く含蓄に富んでいるように思えた。だとしたら、その答えがここにあるのかもしれないと、敦子は感じた。

 多目的スペースの中には、パイプ椅子が二十脚ほど並べられていた。そのひとつを勧められ、敦子は座る。平良木もその隣に座った。

「やあ、どうもどうもどうも」

 朗らかな声とともに、男が入ってきた。白いジャケットを着た明るい雰囲気の男――張り紙に写真も載っていた男、主宰者の愛河登。実物は写真よりは老けて見える。

 他の人間たちも椅子に座り、三分の二ほどの席が埋まっていた。愛河は正面に置かれた講義台につき、顔を上げる――と、その目が敦子と合った。愛河は敦子に対し、にっこりと笑って会釈をし、声を張り上げて話し出した。

「集まってくれてありがとう。今回のセミナーは特に、意識の高い人たちに向けたものなので、来てくれた人はそれだけでもう勝ってるからね」

 集まった人々がどっと笑う。愛河は自分も笑い、両腕を前に出して握りこぶしを作った。

「それじゃ、今日もやっていこう! チャイルドは?」

「元気!」

 愛河の呼びかけに、会場の皆が声を揃えて答えた。敦子はぽかんと口を開け、その様子を見ていた。

「……セミナーをやるときの挨拶みたいなもんなんだ。いつの間にか定番化しちゃってさ。聞く体制を作るって意味だと結構いいんだけどね」

 隣の平良木がそう囁き、敦子はなるほど、と納得した。

 それから、愛河の話が始まる。その内容は今の時代をシニカルに、かつユーモラスに批判するところから始まり、その時代をどう生きていくか、という具体論に入っていく。この辺りはいつも話していることなのだろう。

「一カ月に数万円でも余計に稼げばそれだけでぜんぜん違う。それが出来るかどうかは本人の意識次第。まあ、これはいつも言ってることだし、実際の内容はみんな電子テキスト買ってるよね? それに従ってもらえばいいんだけど」

 愛河は大げさに身振り手振りを交えながら、話をした。

「でもここにいる人たちはね、もっと大きなものを目指して欲しいわけよ僕はね。なぜならここの人たちは、はみ出してしまった人たちだから。ライ麦畑の捕まえ役を目指して欲しいわけ。大きなものってね、目に見えないんです」

 愛河はそうして、具体的な事例を挙げながら「大きなものを目指す方法」を話し出す。それは現実の社会問題の中で、個人がどう生きるかという思想を説くものだった。きれいごとだ、と敦子は思いつつ、徐々にその話に惹きこまれていく。

「ちゃんと未来を予測すること。これがとても大事。予兆を見逃さないことね」

 例えば、と間を置いて、愛河は話し始める。2001年の9.11同時多発テロ、2008年のリーマン・ショック、さらには2020年のコロナ禍――どれにもすべて、予兆があったのだという。見逃さなければ「勝ち抜け」することが出来た。

 周囲の人々がうんうんと頷いている中、よっぽど不思議そうな顔をしていたのだろうか、愛河は不意に、敦子を見た。

「そこのあなた、今日が初めてですよね?」

「あ、はい……すいません」

 周囲の人たちへの引け目から、反射的に謝ってしまう敦子を、愛河は窘めた。

「いやいや、いいんですよ。新しい方は大歓迎なんだ」

「でも、これってレベルの高いセミナーなんでしょう?」

「だからこそ、なんですよ」

 愛河は他の人々を見回しながら言う。

「これも、何度も言っていることだが……閉じたコミュニティは必ず疲弊する。輪の内に名を持たない来訪者をこそ、受け容れることが重要なのだとね。不完全なものを見つめることでしか、完全性は維持できないからです」

 パイプ椅子に座った人々はみな、敦子のことを振り返っていた。

「それで……あなたはどう思いますか? 予兆とはなんだと思いますか?」

「予兆……」

 敦子は考え込んだ。同時多発テロであればその前の世界情勢、アメリカが中東で行ってきたことへの正確な評価などが挙げられるだろうか。リーマン・ショックだって確かに、サブプライムローンの問題点を指摘する声はあっただろう。コロナ禍は――なんだろう? 予測できたことだったのだろうか?

「……ごめんなさい、よくわかりません」

 敦子は俯いて言った。がっかりされるかと思ったが、予想に反して愛河は笑い、言った。

「そう、それが大事なのです。わからないことが第一歩。大事なことはいつだって、目には見えないんだ」

 敦子は顔を上げた。皆、目をキラキラと輝かせてこちらを見ている。隣を見ると、平良木もまた敦子へにっこりと笑いかけていた。

「わかるつもりというのが一番危ない。目で見たものじゃなく、自分の内なるチャイルドを信じることが大事なんだ。不完全なものの声を聞くのですよ」

 愛河は熱っぽい調子で言った。

「もし、チャイルドの声を聞いたら、その機を逃さないことです。必ずやり遂げなくてはならない」

 そして愛河は、敦子だけでなくそこに集まった全体に向けて言葉を放つ。

「我々は不完全だ。だからこそ、ライ麦畑の捕まえ役になれる。この宇宙の中で、不完全さを見つめることは、完全な宇宙を目指すこと。共に世界を更新していきましょう」

 皆、拍手をした。敦子も拍手した。

(不完全な自分か)

 自分の隙間を埋めるパズルのピースを探していたはずだったのが、自らパズルのピースになったような気がした。きっと、求めていたのはこれだったのだ。

 膝の上に乗せられた手の上に、誰かの手が重なった。隣を見ると、平良木がその大きな目を敦子に向けていた。敦子は頷き、その手を握り返した。


 * * *

 カフェのテラス席に座る敦子を見た小野田は、その変わりように驚いた。髪を後ろにまとめただけの地味な装いだったのが、軽く髪を脱色し、ふんわりと巻き髪を作っている。身につけた服も、上品ながら華やかな印象だ。

「なんていうか、いろんなこだわりを失くしたら楽しくなっちゃって」

 そう言いながら、敦子はコーヒーのカップに口をつけた。鮮やかなピンクがわずかにカップに着く。

「そうなんだ……いや、似合ってるし、いいことだけど」

 敦子は小野田の言葉にふんわりと笑った。その表情に小野田はどぎまぎする。

「この前はごめんな」

「この前……ってなんだっけ?」

 不思議そうな顔をする敦子に、小野田は「会いたいって送ってきただろ」と返す。

「ああ、あれ」

 敦子は本当に今思い出した様子で目を丸くした。

「あのとき、主人と喧嘩してて……それであんなこと、急に。こちらこそごめんなさい」

 敦子はそう言ってまた笑った。

「それよりも、ね、この髪ね、やってもらった美容院がすごい素敵で……」

 今日、小野田を誘ったのも敦子からだった。てっきり小野田は、例の事件についてなにか聞かされるのかと思っていたのだが、敦子はあれこれと楽し気に雑談をするばかりだった。

「なあ、秋山さん」

 雑談が途切れたときに、小野田は迷いつつ話を切り出した。小首を傾げる敦子の顔を、真っすぐに見る。

「その……例のあの事件のことはもう、いいのかい?」

 その一瞬、敦子が元の敦子の顔に戻ったのを、小野田は見逃さなかった。しかしすぐにその表情は元に戻る。

「気にしても仕方ないし……それに、なにか害があるわけでもないし」

 敦子はカップを置き、遠い目になる。

「あのとき、私、おかしかったの。警察を辞めて、ただの一個人として世の中に放り出されて……拠り所にしてたはずの夫とか家庭とかも、自分のものじゃないみたいで。だから、あんな、あり得ない幻想に取り憑かれて」

「……いや、だけど」

 どうにも胸の奥につかえるものを感じて小野田は声をあげる。

「あんなに気にしてたのに。上層部はなにかの間違いだっていうけど、DNAが一致したのは事実だ。しかも殺され方まで、全く同じで……」

「……そうかもしれないけど」

 敦子は少し困ったような顔を見せた。

「でもそういうことって、人生の中にはあることじゃない?」

「え?」

「シンクロニシティ、っていうのかな」

 敦子はほうっ、と息をついた。

「子どものころに見た死体の話、したよね?」

 小野田は以前、敦子から聞いた話を思い出した。

「ああ、確かボーイスカウトのキャンプで、って……」

「そう、それ。そのときの記憶に私、ちゃんと向き合ったの。そうしたらなんか、もうスッキリしちゃって」

「そうか……」

 小野田は考えた。本人が封じていた記憶を無理に思い出させる必要はないが、それを思い出した上で受け入れたのならそれは歓迎すべきことだ。ただ――もし敦子が、そのために歪んだ物語を自分の中にこじづけているのなら、それは健全な姿ではない。そうしてバランスを崩していく姿を、警察の仕事の中で目にしたこともある。

 敦子はまた口を開く。

「あれもきっと、予兆だったのかなって思うの」

「予兆?」

 敦子はゆっくりと頷いた。

「この前、そういうセミナーに行っていろいろ教えてもらったの。友達に誘われてね」

 そうして敦子は、セミナーで聞いた話を小野田に語った。話はあちこちに飛び、要を得なかったが、小野田はそれを聞くうちに、胸の中に不安が広がっていった。

「それ……大丈夫なやつか?」

「……もちろん、全部信じてるわけじゃないけど。非科学的だしね」

 敦子はコーヒーを啜り、「ただ」と付け加える。

「なんていうか……こじつけめいた話でも、人が納得して人生を生きる助けにはなるんだなって。熱心なクリスチャンであることと、科学者であることは矛盾しないというか。日本だったら『縁起が悪い』とか。私これまで、そういうことを全部否定してきたけど」

「それは、そうかもしれないけど」

 小野田は考えた。敦子が騙されてるかどうか、確信はないが――どうも嫌な感じが拭えない。

「そういうのって……例えばなんか、高額なものを買わされたり、するんじゃないの? あとは勧誘をやらされたり」

「ああ、それは大丈夫。私、会員にはならないから」

 敦子は得意げに言う。

「話は面白いし、参考になるの。だからセミナーを聞くだけ。他の人を勧誘したりするつもりもないし、ゲストの立場は崩さないつもり」

「…………」

 小野田は眉を顰めながら、その話を聞いていた。店に来たあの男と同じことを言っている。敦子は言葉を継ぐ。

「今度ね、合宿ってやつにも行くことにしたの。本当はゴールドランク以上じゃないと参加できないみたいなんだけど、ゲスト会員が参加できる枠があるんだって。面白い仕組みよね」

 敦子は心底楽しみだという様子だった。

「さて、と……」

 敦子は飲み干したカップを置き、立ち上がった。

「ね、そろそろ行こう?」

「……え? 行くってどこへ……」

「決まってるでしょ。ホテルに」

 小野田は思わず口を開けた。敦子はそれを見てまたくすくすと笑う。

「言ったでしょ。こだわりをなくしてみるの。自分の内なるチャイルドに従って生きるのよ」

「…………」

 小野田は黙って立ち上がり、テーブルに置かれた伝票を手に取った。

「今日は帰るよ。また今度ね」

 そう言って小野田はレジへと向かう。そのとき、敦子がどんな表情をしていたか、小野田は気が付かなかった。

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