――2.ボーイスカウトの日

 敦子がそこに辿り着いたとき、時刻は既に昼近かった。仮眠を取っただけでここまで来たが、眠気は感じない。頭上から照り付ける強い日差しが眩しかった。

 キャンプ地の入り口はゲートが閉まっていたが、その脇から容易く中に入ることが出来た。敦子はそれをすり抜け、中へと踏み込んでいく。人は誰もいない。

 家を出るとき、ヒールの低い靴を履いて来て本当に良かった、と敦子は思う。とはいえ、スカートで来たのは失敗だったかもしれない。草の生えた地面には虫も多くいるが、まあいい。元々、敦子はそこまで気にしない方だ。

 奥の方へと歩いていくと、ひらけた場所に出る。そうだ、あのときはここにテントを張ったんだった。そうすると――

 あたりをぐるっと見回すと、木立の中を抜けていく道があった。そう、あの小路から沢の方に降りて行って。確か、オリエンテーリングみたいなことをして――

 敦子は木立の方に足を向けた。手が震えているのがわかった。

 記憶を辿り、その足跡を辿りながら、敦子は自らの中の恐怖心と戦っていた。子どものころにその目で見てしまった片目の遺体――それが自分の心に深刻な影響を残していることを、敦子は初めて自覚した。なにしろ、その前後の記憶がほとんどないのだ。気が付いたら家に帰っていたことだけを憶えている。

 それでよく、警察の身元不明相談室などに就職したものだと自分でも思う。だけどそれは、もしかしたら無意識に「死」に惹かれていたのかもしれない。実際、死体の写真を見たりすることについて、敦子はまったく抵抗がなかった。あの日、心の一部が麻痺してしまったのだろうか。

 そして今――その心の蓋を、敦子は開こうとしているのだった。

 一歩足を踏み出すたび、心臓が跳ね上がる。鼓動が振動となり、足元が揺れる。もう帰ろう、と語り掛ける自分がいる。しかし――


 ――こっちを見ろ


 語り掛ける何者かの声に、敦子の足は導かれていった。

 あの日以来、蓋をしていた記憶。死体を見てしまったというトラウマによって、自分の心から追い出していたのだろう。木立の間を抜ける小路の先に、出会うものはもしかしたら――それは思い出してはいけない記憶なのだろうか? しかし、今、思い出したその記憶はむしろ、甘美な思い出として敦子には感じられた。だが、本当にそれだけだっただろうか? 例えば、その遺体は――

 がさっ、と草むらが動く音がして、敦子は足を止めた。顔を上げると、目の前をイタチが一匹、駆けていった。

 敦子は息をついた。少し、身体の力を抜く。

 そんなわけはない――と思う。それでも、その可能性は考えずにはいられない。つまり――「その遺体を殺したのは、自分だったのではないか?」ということ。

 遺体が見つかり、騒ぎになったあと、警察がやってきたらしい。だが、いざ警察が駆けつけたとき、その遺体は消え去ってなにも見つからなかったのだという。

 恐らく、遺体ではなく生きていたのだろう、と警察は結論づけた。子どもの見間違いだろうと――その後、警察はその「生きていた遺体」を探し回ったが、結局手掛かりは掴めずじまいだった。

(私が殺して、遺体を隠した……?)

 そんなわけはない。第一、十歳そこそこの女の子にそんなことが出来るわけがない。それでも――敦子は自らのその疑念を、どうしても拭えずにいたのだった。

 木立を抜けたところで、斜面に出会う。山の方へ入っていく道と、沢へと降りる道だ。敦子はあのときと同じように、沢への道を降っていった。

 耳にさらさらという音が聞こえてきた。涼し気な風が坂を上がって来るのを感じる。ああ――と口から声が漏れた。あのときも、こんな涼しい風が吹いていたな。私はとても楽しい気持ちで、笑い合いながらこの坂を降って――

 そこで、敦子は足を止めた。自分の記憶に呼び止められたようだった。

 笑い合っていた――そうだ、あの子と一緒に。

 記憶の扉が次の部屋に繋がるように、開いていく。あのとき私はひとりだけではなかった。考えてみれば当たり前のことだ。ボーイスカウトの活動中に、女の子がひとりだけで山の中を歩くなんてことはない。一緒にいたその相手――その誰かもまた、自分と共に遺体を発見して――

 胃の辺りから、なにかが沸き上がって来るのを感じた。鼓動がまた早くなり、それが頭の中にじんじんと響く。胸が締め付けられるような感覚と、胃液が逆流するような感覚が同時にやってきた。敦子はそれをぐっと抑え、また足を踏み出す。

 そう、あのとき私はと一緒にこの坂を降りた。そして、沢の生き物を捕まえようとして、水辺に踏み込んで――

「ねえ、あれを見て」

 誰かの声が聞こえた。敦子は振り返った。そこには、丸く大きな目が印象的な、がっしりとした体つきの少年がいた。

 ――そうだ、同い年のこの男の子と一緒だった。

 その男の子が指し示す先に、人の脚が見えていた。

「いってみよう」

 男の子がそっちへ歩き出した。敦子はその後を追い、その背中に向かって叫ぶ。

「待って、平良木君」

 ――そう、その男の子はそんな名前だった。確かそのあと、高校生くらいまでボーイスカウトや、その周辺の集まりでちょくちょく会っていたはずだ。結婚してからは連絡を取ることもなかったが、連絡先は知っている。たしか、メッセンジャーアプリのアカウントリストにも登録されていたはずだ。

 敦子は木立の方へといってみた。子どものころよりもずいぶんと小さく感じる。

「ここに……」

 ――あの遺体が、横たわっていた。敦子は平良木と二人で、しばらくそれを見つめていたことを思い出した。そしてそのあと、二人は黙ってキャンプ地に戻り、そこにいた大人に告げたのだ。「あっちで誰か死んでいる」と。

 そのあとのことまで、敦子の脳裏に蘇ってくる。大人たちが騒ぎ、子どもをまず一か所に集合させたこと。その一方で誰かが様子を見に行き、誰かが警察を呼んだこと。そしてキャンプは中止となり、家に帰ったこと――

 敦子は来た道を引き返した。坂道を登り、キャンプ地を通り抜け、ゲートを出る。路肩に停めてあった車に乗り、ドアを閉める。

 ハンドバッグからスマートフォンを取り出して開くと、新規メッセージが着信していることに気が付いた。レイからだ。

『わかりましたー! ぜんぜん大丈夫ですよ! 敦子さんが新しい世界に進むのならそれが一番です! あ、また占いしましょうか?』

 敦子は無表情でそれを眺めた。我ながら、面倒なメッセージを送ってしまったと反省する。反応に困ったレイが、無理に明るい文面を送った様子が手に取るようだ。

「ぜひとも、と……」

 敦子はレイにそう返信を送り、メッセンジャーアプリのトップ画面に戻る。そこに並んだ登録済みアカウントを指でスクロールしていき、その中からひとつのアカウントを見つけ出す。

 ――平良木隆文。

 敦子は少し迷いつつ、そのアカウントにメッセージを送信した。

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