第4章

――1.秋山敦子の行く先

 車のシートで、敦子は目を覚ました。

 身体を起こし、狭い車内で縮こまった手足を伸ばす。関節がぱきぱきと乾いた音を立てた。

 エンジンをかけ、窓を開ける。夜の刺すような空気が、車内に流れ込んで来て敦子は首を竦めた。時計を見れば、時刻は午前の三時。

 冷たい空気を胸に大きく吸い込み、一気に吐き出す――身体全体に酸素が染みわたるような気がした。目を開け、夜の空を見上げる。

 どうして、ここにいるんだっけ――と、考えたところで、顔に冷たい風が当たる。その刺激で敦子の頭は覚醒し、その理由を思い出した。夫の彰に「出て行け」と言われ、そのまま車に乗り、高速道路に乗って。ここまで――

 敦子はドアを開け、外に出た。平日のパーキングエリアに停まっている車はまばらで、辺りは暗い。星の光と自動販売機の灯りだけが道しるべのように輝いていて、敦子はそれに誘われ歩き出す。

 自動販売機に辿り着き、コインを入れる。取り出した炭酸水のペットボトルを開け、そのまま口をつけた。空気よりもさらに冷たい流れが、身体の中へ迸る。

 ああ――と敦子は息をついた。喉元を流れ過ぎる炭酸の刺激に、肌が泡立つようだ。目を閉じ、下腹部に沸き上がるようなその快感を楽しんだあと、ゆっくりとまた、目を開く。視界に再び夜のパーキングエリアが戻って来ると共に、かけっぱなしのエンジンの音が聞こえて来た。

 夫とのすれ違いの原因はなんなのだろう――敦子は考える。多分、夫の求めを拒否したことはきっかけに過ぎないのだ。元はと言えば、それは敦子自身の問題だった。例の「殺されスミス」の事件、それにフラッシュバックする過去の記憶によって、敦子は平常心を失っている――それは自覚していた。もう忘れようとしていたところだったのに。それなのに、彰とのすれ違いがさらにストレスになって――

 いや、違うな、と敦子は思った。

 自分が逃げてきたのは夫からじゃない。あの家からだ。

 数年前に購入したマンションの一室。それは夫との愛の巣などではなかった。あの家にいると、常になにかに監視されているような気がして息が詰まり、苛立ちを感じるのだ。一挙手一投足が、なにかに支配されているような気がする。

 夫の彰は鷹揚な性格だった。IT企業に勤め、堅実で稼ぎもよく、人当たりも悪くない。学生時代のサークルでは、常に一歩引いた立場ではあったものの、それなりに魅力的で、容姿は平凡ではあったが、その顔を敦子は好きだった。その顔が自分に向けられる時の胸が高鳴りは、今でも思い出せる。

 夫に対する愛がなくなったわけでもない、と敦子は思う。気詰まりを感じるのは、夫から受けるDVやモラル・ハラスメントの類でもなかった。それなのに、まるであの家には別の誰かが住んでいて、夫との会話を邪魔しているようだ。

 敦子は歩いて車まで戻り、また運転席に座った。そう言えば、この車を運転するのも久しぶりな気がする。つい数か月前までフルタイムで働いていた敦子が、車を運転するとすれば休日、どこかに出かけるときだけだった。そのときは大体、夫が一緒だったような気もするのだけど。

 そう考えると夫との不仲も、もしかして敦子が仕事を辞め、四六時中家にいるようになったせいなのかもしれない。一種の適応障害だ。そう言えば――と敦子は思う。警察の仕事をしていたときは、それはそれでオフィスの中にいる何者かの顔色を窺い、行動を支配されていたような気もする。先日会ったあの京平とかいう妙な男は、それを「なにかに取り憑かれている」と評したっけ。今にして思えば、あれも言い得て妙だったのかもしれない。だとすれば、仕事のときは自分を律していたことが、家庭に入ったら夫に甘えているというだけのこと。やはり自分が悪いのだ――

 そこまで考えて、敦子はまた気詰まりを感じた。ペットボトルの蓋をあけ、また炭酸水を喉に注ぎ込み、そして息を吐く。

 そもそも、警察を退職したのは夫との間に子どもを作り、家庭に入って育てるためだったはずだ。それなのに、夫とは一度も行為に至っていない。その前に険悪になってしまうのだ。

「なんだかなあ……」

 敦子はまたため息をついた。よくよく考えてみれば、「妊活」なんていうものを始めようとしたのだって、社会に漂うなにか大きな力に屈してのことだった気がする。三十代も半ばに差し掛かる敦子に、「今のうちに子どもを産まなければ」と囁いたのは誰だっただろう。数えきれないほどいたような気がするのに、いざ数えてみようとすれば誰一人として思い浮かびはしない。

 敦子はスマートフォンを取り出し、覗き込んだ。メッセンジャーアプリを開き、見る――小野田へ送ったメッセージに、返事が返って来ていた。

「ごめん、今からはちょっと無理」

 ふん、と敦子は鼻で笑う。どうせそんなものだろう――いざ抱いて欲しいときに、男は抱いてくれやしない。小野田との情事だって、やっぱりあの警察という組織の中にあればこそだったのだと思う。間違っても、内から湧き出る情愛からなどではない。

 敦子は小野田からのメッセージを閉じ、別のメッセージを開いた。

『いろいろご迷惑をおかけしていてすいません。もうあの事件のことは忘れようかと思います。きっと勘違いなのでしょう』

 レイに送ったそのメッセージは既読状態になってはいたが、まだ返事はない。そのことに敦子は少しがっかりした。その一方で、自分が彼女に対し抱いている感情について、困惑も感じている。どちらかといえば、根無し草のような生活を送っている彼女や、彼女の兄の悟郎のような人間を、敦子は嫌悪しながら生きてきたはずなのだ。

 レイにこんなメッセージを送ったのは、一時の気の迷いだ――家から逃げ出して支えを求めたのだろう。だが、送った内容自体には嘘はない。もう、あんな事件に頭を悩ませるのはやめよう。そして自分の人生にしっかりと向き合おう――そう、いつも脳裏にちらつくあの片目の顔なんて、もう忘れてしまおう――


 ――無駄なことはよせ


 誰かの声がした。無駄なんかじゃない、と敦子は答える。


 ――どうせお前は逃げられない


 逃げる? どうして? 別に逃げることなんてなにもない。


 ――そうだ、道は既に定められている


 定められた道――敦子はハンドルを握り、まっすぐに車を走らせていた。道路は果てしなく長く伸び、星空へ吸い込まれていくようだ。

 なにかに掻き立てられて、敦子はアクセルを踏む。しかし、どれだけ強く踏んだとしても、大したスピードは出なかった。のろのろと流れていく外の景色に、敦子は苛立つ。だがハンドルの方はしっかりと、敦子を導いて曲がることはない。

 道の先に、なにかがいた。

 はじめ、小さな点だったそれに、車はのろのろと吸い寄せられていく。


 ――こっちを見ろ


 それが言う声が、敦子の頭の中に響いた。


 ――俺はここにいるぞ


 片目の潰れた男の顔が、敦子の瞳の中に飛び込んできた。そして敦子は車ごと、その男へと向かい、走っていく――


 パーキングエリアに入って来た大型トラックのエンジン音で、敦子は目を覚ました。ヘッドライトで瞼が焼かれ、意識が冴える。身体を起こして周りを見れば、それは元のままの停車した車の中だ。カップホルダーに置いた炭酸水のペットボトルも、飲みかけがそのまま残っていた。

 いつの間にか、また眠ってしまっていたらしい。それにしても、嫌な感じの夢――もうたくさんだ。あいつ・・・の顔なんか、もう見たくない。

 敦子は汗をかいているのを自覚した。ハンカチを取り出そうとして、ハンドバッグを開ける――と、そこに何か、入っていることに気が付いた。

「……ピンバッジ?」

 そうだ――と敦子は思い出した。それはずっと昔、子どものころ参加していたボーイスカウトで貰ったものだった。捨てるのも忍びなく、どこかに仕舞い込んでいたはずだ。なにかの拍子にここへ入ってしまったのか。

 敦子はそれを手に取り、眺めた。確かこのピンバッジは、藤沢のキャンプに参加したとき、レクリエーションのゲームに勝った景品として貰ったもので――


 ――こっちを見ろ


 頭の中に声が響き、敦子は振り返った。助手席のシートに、片目の男がいた。


 ――俺は消えてなどいない、ここにいるぞ


 男の口元が歪み、笑った。その瞬間、敦子の脳裏に、なにかが蘇った。

 キャンプ行事の最中に、沢へと降りていって目にしたもの――木立の中からはみ出た人間の脚が一本。そこへ近づいていき、目にした遺体の顔には目がひとつ。はっきりと思い浮かんだのだ――より鮮明に、そこに至るまでの道のりまで。そして、その時一緒にいた男の子。

 敦子は瞬きをした。世界が揺れるような感覚がする――でも意識ははっきりとして、むしろ頭の中は明晰なくらいだ。

 いつの間にか、助手席にはなにもなくなっていた。最初からなにもなかったのかもしれない。

 敦子は車を降りた。時刻は午前四時を過ぎ、空気はより一層冷たさを増していた。冷たい風に首筋を撫でられ、敦子は身震いをする――そしてふと、高速道路の案内板が目に入った。

「藤沢まで30㎞」

 そこにはそう書かれていた。

 敦子は再び、シートに身を埋めてハンドルを握る。思い出したのだ。あの時、ボーイスカウトのキャンプで出会った死体との対面という思い出。大人は誰も信じてくれなかったが、一緒にいた同い年の男の子とは確かに共有した、特別な体験。

 それは敦子の、初恋の思い出でもあったのだ。

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