第3章

――1.敦子の退職

「敦子さん、おつかれさま!」

 友人たちはそう言って手を振り、敦子を送り出して自分たちも去って行った。敦子は左手に花束を抱え、残った右手でその背中に手を振る。

「…………」

 友人たちが角を曲がるまでそのまま見送り、敦子は手を降ろした。終電近い時間に、ひとり取り残されて少し、寂しさがこみ上げる。

(楽しかったな)

 退職祝い、だということで友人たちが集まり、開いてくれた飲み会だった。まあ、実際には敦子の退職にかこつけて集まりたかっただけだろう。飲み会の話題は最近の仕事の愚痴、家庭の愚痴や、最近流行りのテレビや動画などの話題ばかり。敦子の話など全体の一割程度だ。だからこそ楽しいのだけれど。

 それでも友人たちは花束を用意してくれたし、子宝祈願のお守りまで用意してくれた。このご時世に専業主婦になり、出産と子育てに専念する、なんていう話をひとしきり羨ましがられ、夫の彰をやたら持ちあげられたりもした。当然、それに悪い気はしない。

 敦子はぶらぶらと、駅の方へ向かった。ほどなくして繁華街から少し外れ、人通りは少なくなる。昼からも夜からも切り離されたようなその場所で、敦子は独りだった。

(ひと区切りついちゃったな……)

 退職してからもうしばらく経つのだし、別に未練があったわけでもない。朝、寝坊して慌てて出かける準備を始め、出勤しなくていいことに気が付く、というようなことももうない。ただ、これまではなんとなく、自分がまだ警察の人間であると、どこかで思っていたような気がする。それが今日の飲み会で、ふと、切り離されたように感じたのだ。

 駅へと向かい歩く身体が、なんとなく軽いような気がする。しかし――

 風が吹いて、敦子は少し身震いをした。空気はもう完全に秋だ。敦子は立ち止まり、目の前のビルを見上げる。それはどっしりとした威容で敦子を見下ろしていた。

 そして我が身の軽さに、敦子は不安を感じた。

 自分でも意外だった。退職を決めたときには別に、不安など感じなかったのに。それがいざ、慣れ親しんだ文化から離れてみると、心が拠り所を失い、宙に浮いたような気がした。

 ――これからは、家庭こそが自分の居場所だ。

 そう考えて敦子はまた歩き出す。そう、それが自分の行くべき道、あるべき姿なのだ。誰が見たってそれは正しい姿に決まっている。堂々と、胸を張って社会に顔向けできる、自分の新たなアイデンティティだ。

(でも、少なくとも家に着くまでは)

 今、退職祝いによって仕事から切り離され、家に帰るまでのこの時間、敦子は拠り所を失ったままだった。

 また、風が吹いた。その風が胸の隙間に吹き込んで来るような錯覚を、敦子は覚えた。

「……あの」

 ――不意に声をかけられて、敦子は身を堅くする。

「ちょっとすいません……」

 敦子は警戒をしながら、声のした方を横目で確認する。そこにはどうやら、背の高い男の影があった。

「はい……?」

 街の灯りで逆光になってその顔はよく見えなかった。男は敦子に近づくわけでもなく、その場に立ったまま、また言う。

「……こっちを見て」

「…………」

 敦子はその声に釣られ、つい男の顔へと目をやる――その顔は、片目が失われてそこに深い穴が開いていて――

「俺、これから死ぬんだ」

 男がそう言った声が聞こえた。

 ――と、そのとき、近くを通り過ぎる車のヘッドライトが、敦子の視界を白く焼いた。光が過ぎ去り、敦子がまた夜の闇の中に目を開くと、男の姿はどこにもなかった。

「……はぁっ……!」

 敦子は思わずその場に座り込んだ。

 今のはなんだ――幻か、それとも幽霊か。レイのような人間と付き合い、怪談ライブなんかに顔を出していたから、そんな白昼夢を見たのかもしれない。退職祝いが楽しかったからと、酒を飲み過ぎたのだろうか。だが――敦子は先ほど、男が立っていたその場所に目をやる。そこにまだ、片目の男の匂いが残されているような気がした。

 敦子はスマートフォンを取り出し、夫の彰に電話をかけた。が、彰は出ない。電話を閉じ、メッセージを送る。前回送ったメッセージは1カ月以上前だった。

『迎えに来て』

 すぐに既読がついた。しばらくすると、返信がつく。

『なんで』

 敦子は一瞬、なんと送ろうか迷った。これまで、夫に迎えに来て欲しいなどと言ったことはなかった。それが今日に限って、なぜこんなことを送っているのだろう。あの冷たい夫に――

『お願い』

 敦子はそう送った。既読はつくが、返信はない。敦子はもう一度、メッセージを送る。どうしても、どうしても夫に来て欲しかった。自分でもなぜこんなことをしているのかわからない。先ほどの恐怖がそうさせるのか、それとも――

『会いたいの』

 敦子がそう送ると、すぐに既読がついた。それから、しばらく返事はない。敦子がもう一度、なにかを送ろうかと迷いだした時、返信が届いた。

『自分の足で帰っておいで』

 その言葉はそっけないものだったが、敦子は妙に安心した。確かにそうするべきだ、と思い、敦子は立ち上がり、駅へと向かった。

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