――5.アスカの消息
住宅街からさらに坂を登り、鉄道や大通りの通らない方向へと踏み込んでいく。それは人里を離れた山の中へと分け入っていくのにも似て、周囲が住宅で埋められているのにも関わらず、離れていく街の光と喧噪とに不安が募っていくような感じがする。
すっかり暗くなった住宅街の中を、京平は進んでいった。レイはひたすら、その後を追いかける。マンションや集合住宅の多かった街並みも、古い住宅が混じり始めていく。
「京平くん、本当にこっちにアスカさんが……?」
レイは京平の背中に向かい、問いかけた。警察も馬鹿ではない。現場近くで目撃された「血まみれの女」の足跡は追っているだろうし、聞き込みだってしているはずだ。事件発生からもう数週間が経っているのに、この辺りで見つかっていないということは――
京平それに答えず黙って歩き続けた。曲がり角で足を止め、気配を探るような仕草を見せ――そしてまた、歩き出す。どうも、この辺の道はさっきも通ったような気がする。
レイはスマートフォンを開き、地図アプリを起動した。GPSで自分たちの居場所を確認する。もう三十分以上もうろうろとしているだろうか。
――不意に、京平が立ち止まった。そして、向かいの角に建つ古い二階建ての家を見上げている。
「……あれだ、たぶん」
京平が呟く。レイは訝しんで京平を見た。
「また『色』が見えるってこと?」
「まあ、そんなとこ」
「前にもあの現場を見たんでしょ? そのときにどうして見つけられなかったの?」
「前は情報が足りなかったからね。イメージが明確にならなかったんだ」
京平はそう言ってレイの方を振り返る。
「だけど……どうも急いだ方がよさそうだ」
「え……?」
――と、そのとき、大きな荷物を抱えた男が角の向こうから姿を現した。周りをきょろきょろと見回しながら、家に近づいていく。
「……あれだな」
男は四十代半ばごろ、夜の中でもその肌の青白さがわかった。太ってはいないが首ばかりが長いような印象で、その身のこなしはくたびれたものを感じさせる。男はそのまま、そそくさと家に入ろうとする――と、そこへ京平が近づいた。
「ちょっといいですか?」
「……っ!?」
男が驚き、京平を見返した。京平は微笑を浮かべたまま、間髪入れずに言葉を継ぐ。
「アスカさんの雇い主の九岡ってやつの使いなんだ。そう言ってくれればわかるから、彼女に取り次いでもらえる?」
「……!」
男はその瞬間、血相を変えて京平を突き飛ばし、家の玄関へ走った。
「……待って!」
レイはよろめいた京平を放って、男の後を追う。玄関がしまろうとするその刹那、レイの足がその隙間に入り込んだ。
「お願い、警察じゃないの。私たちはただ、彼女に話を……」
「帰れ! ここには誰もいない!」
男は必死に玄関を閉めようとする。レイは足に痛みを感じながらも、異変に気が付いていた。京平でなくともすぐにそれとわかる、これは異臭――
「……ごめん!」
男がレイの足にさらなる衝撃を与えようと、玄関のドアを一瞬、大きく振りかぶったとき――ドアが引いた瞬間、レイは合気道の呼吸でそこに体重をかけ、身体を滑り込ませた。ドアを掴んだまま、力の方向に身体を崩された男はよろめく。その隙にレイは玄関の中へと駆け込んだ。
家の中に入ると、一層瘴気が濃くなる。まるで空気が重さを持って肌にまとわりつくようだった。レイは不快感をぐっとこらえる。
「二階だ!」
後ろから京平の声が聞こえた。レイはそれを耳にすると、目の前にあった階段を一気に駆け上がった。異臭は強くなる。除菌消臭剤を撒いたような臭いも漂っているが、それでも隠し切れない強い腐乱臭。
「アスカさん!」
レイは叫んだが、元より届かないであろうことはわかっていた。階段を上がり切ったところにある、手前の部屋の襖を開ける――
「……ッ!!」
天井の梁にかけられたロープで首を吊り、そのまま時間の経った女の遺体が、そこにあった。
* * *
「アスカは事件を起こしたあと、常連客のひとりであるあの男に連絡を取り、匿われてたらしいね」
京平が話すことを、九岡は黙って聞いていた。
「間山が言うには、最初はぼうっとした様子で……なにがあったのか聞いても、憶えてないの一点張りだったらしい。本当か嘘か、今となってはわからないけど」
九岡は革張りの椅子のひじ掛けで頬杖をつき、舌打ちをした。この男にも従業員の死を悼む気持ちがあるのだろうか。
「首を吊ったのは、一週間ほど前」
京平が話を続ける。
「その前に動画サイトを見て……それで憔悴していったみたいだ。例の『殺されスミスの恋人』の動画で実名が晒されたから」
ソファに座ってそのやり取りを聞きながら、レイは膝の上で拳を握りしめた。部屋で首を吊っていたアスカの姿が思い浮かぶ――それはレイの胸の内で、怒りとないまぜの吐き気となって重いしこりを作り出していた。
「いきなり殺人犯として全世界に晒されたのだとしたら、死にたくもなるだろうな」
九岡は苦々しく言った。
「自分が殺したのを本当に憶えていないとしたら猶更だ」
「彼女の言うことを信じると?」
「さあね。今となっちゃどっちでもいいことだろうが」
九岡が背もたれに深く身体を埋めた。
京平は首を傾げる。その顔はアスカの死を目の当たりにしても、相変わらずいつもの通り、動じない様子だった。九岡がその顔に向かって言う。
「警察の事情聴取は?」
「こってりと受けたよ。とは言っても、ありのままを話すしかないんだけどな」
レイも京平と共に、第一発見者として警察に聴取を受けていた。一応、店のオーナーである九岡に依頼されてアスカの行方を捜し、常連客を当たっていた、ということにしてある。嘘ではないが、警察は嫌そうな顔をしていた。
「できれば、警察の厄介にならず先に女を抑えたかったが……ま、仕方ねえな」
九岡が言うことに、京平は肩をすくめた。
レイは俯いていた。最悪の事態になってしまった――まだ逮捕すらされていない容疑者の名前がネットで晒され、それが拡散して糾弾され、炎上し、本人が追い詰められる。あの男の話を聞けば、少なくともアスカは動揺し、怯えていたらしい。その状況でさらにネットの炎上を見て、行き所を失ってしまったのだろう。歪んだ物語に、彼女は殺されたのだ。
「どうして、こんなことに……」
口からそう呟きが漏れると、九岡と京平がレイを見た。
レイはアスカを直接知っているわけではないし、この事件に直接関係しているわけでもない。それでも、その物語の歪んでいく様、そしてそのひとつの帰結を目の当たりにしたことで、心の中にドス黒いものが淀むようだった。
「……客の男ってのは?」
九岡が肩を竦め、口を開いた。京平が応じる。
「エンジニアやってる中年男だ。両親は既に亡くなり、あの家に一人で住んでる。そこへアスカが転がり込んで、勝手に死んだ……気の毒といえば、気の毒だけどね」
レイは男の顔を思い出した。あのとき、抱えていた大きな荷物にはのこぎりやら斧やらが入っていた。どうにか遺体を処分するつもりだったらしい。気の弱そうな男だった――アスカが殺人を犯して家に転がり込んできて、その後自ら命を絶ったあと、どうしていいかわからず、ずっとそのままにしていたのだろう。愚かではあるが、それもこの事件の異常さにあてられたものであるようにレイには思えた。
九岡がひとつ大きなため息をついた。
「……わかった。ご苦労だったな」
九岡は京平とレイに向き直る。
「報酬は振り込んでおく。レイには来月の給料に少し色をつけて……」
「待ってよ、九岡さん」
京平が口を挟む。九岡は言葉を切り、方眉をあげた。
レイは京平を見た。京平は相変わらず泰然とした表情を崩さない。
「まだこの事件は終わってないよ?」
「……そうは言っても、アスカは死んじまったじゃねえか」
「アスカがなぜあの事件を起こしたのか、誰を殺したのか……結局、なにもわかっていない。このままだとジャボーも納得しない」
レイは京平の顔を見た。
「京平くん……?」
「レイ、あんたにも手伝ってもらうよ」
普段、京平の顔に浮かんでいる微笑は消えていた。
「……『物語』の決着をつけなくちゃいけないだろう?」
そうだ――このままでは、彼女は歪んだ物語として人々の噂の中で弄ばれるだけの存在になってしまう。一体彼女になにがあったのか、誰かが真実を語らなくては――
「……そうだね。取材を続けなくちゃ……」
そう言ってレイは頷いた。九岡がそこへ訊き返す。
「なにをする気だ? あんまり引っ掻き回されても困るぞ」
京平は九岡に向き直る。
「元の依頼の通り……例のビジネスサロンとやらを調べる。別に構わないだろ?」
「ふうん……」
九岡が鼻を鳴らした。京平はまた、その顔に笑みを浮かべた。
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