第2章

――1.第一の死

 カフェの入り口が開き、ベルの音がして敦子は振り返った。

「いらっしゃいませー」

 店員の空虚な挨拶に対し、律儀に手を挙げて答えながら、小野田が店に入って来る。

「や、久しぶり」

 小野田はすぐに敦子の姿を見止め、テーブルの向かい側に座った。近寄って来る店員にアイスコーヒーを注文し、ハンカチで汗を拭う。

「その後、仕事はどう?」

 敦子がそう尋ねると、小野田は大げさに手を広げてみせた。

「いやもう、秋山さんが辞めてから大変だよ。新しい人は入ったけど、仕事を憶えるのには時間がかかるし、まだまだ君の代わりにはならないね」

「そりゃそうでしょうね」

 特に感情も込めず率直に言ったのだが、小野田は敦子のその返事に大笑いした。

「そういう感じも懐かしいなあ」

「そんなに昔じゃないでしょう?」

「いやいや、そうは言ってもさ」

 小野田はねぶるような視線を向けた。敦子は肩を竦める。仕事を辞めてから、小野田とは関係を持っていない。

 敦子がその視線に反応せずにいると、小野田は黙って鞄の中からファイルを取り出した。

「わかってると思うけど……これ、ヤバいんだからね?」

「うん、わかってます。ありがとう」

 敦子はそのファイルを受け取り、開いてみる。それは2011年に駒込で起こった殺人事件の資料だった。

「DNA情報の一致……まだ気にしてるの?」

 小野田が言う声に敦子は答えず、資料の内容に目を通す。

 2011年1月、駒込の雑居ビルで若い男の遺体が見つかった。事件現場は空きテナントになっているフロアで、被害者は片足を切り取られて失血死していた――

「……この事件も、足と目が?」

 小野田は黙って頷いた。敦子は背筋に寒気を感じる。そんな偶然があるだろうか? 例えDNAの一致がなにかの間違いだったとしても、たまたま一致した遺体同士が、同じ死に方をしているなんて――

「加害者とされたのは川原充瑠みちるという大学生で、近くで首を吊っているのが発見された。手についた血痕や、現場に落ちていた凶器の斧などの証拠と併せて、この女が加害者で間違いない、と結論付けられたらしい。目をナイフでひと突き、そのあとで足を切り落とした、と……」

 異常な犯行だといえた。殺すつもりなら心臓を狙うとか、最初から毒物を飲ませるとかすればいい。これではまるで、殺すのではなく足を切るのが目的だったみたいだ。

「秋山さんの報告は一応、捜査班の方にも共有されたらしい。神泉の事件はまだ犯人が捕まってないけど、こっちの事件との関連性も検討に入ったって。それで……」

 小野田は身を乗り出し、資料のひとつを指し示した。

「この被害者も、身元が不明のままなんだ」

「……え?」

 敦子は顔を上げた。心なしか、小野田の顔が少し、青ざめているようだった。

「この頃はまだ、DNAデータベースは本格運用されていなかったにしろ……結局、どこの何者かわからないままだ。どこに住んでいたのか、どこで働いていたのか、捜査班もかなり調べたようなんだが、結局わからずじまい。まるで……」

 小野田は椅子に身体をもたれ、「死ぬためにこの世に現れたみたいだ」と付け加えた。

 敦子はまた資料に目を落とす。被害者と加害者の関係性や動機も判然としないまま、加害者が死んだことで捜査が打ち切りとなったようだ。

「加害者の方は、漫画かなにかに影響されたんじゃないかって話だけどね。大学にもあまり顔を見せていなかったみたいだし」

「…………」

 敦子は自分の唇が震えているのを感じた。胸の奥に渦巻く嫌な感覚を抑えようと、カップを手に取り、口をつける。温くなった紅茶が胃の中に落ちる。しかしそれは敦子の身体を落ち着けるどころか、沸騰した油に水を注いだように胃の中で爆ぜ、全身をかき乱した。

 この事件は異常だ――その殺し方だけではない。なにかがあまりにも異常だということだけが、敦子には理解できた。

「……それと、もうひとつ」

 小野田は鞄から別のファイルを取り出した。

「捜すの苦労したよ。たぶん、これのことだと思うけど……でもなんでこれ?」

 敦子は小野田から受け取ったファイルを開く。そこには先ほどと違い、一枚だけ資料が挟まっていた。


 通報記録

 2001年3月25日

 藤沢のキャンプ地を訪れていたボーイスカウトの一団から、山中で男性の遺体を発見したとの通報あり。所管の巡査が現場に赴くも、報告された場所に遺体は見つからず。

 遺体ではなく生きた人間で在る可能性を考慮し、捜索を行うもそれらしき人物、または物体は発見できなかった。


「……うん、これで間違いないと思います」

 敦子はそれだけ言ってファイルを閉じた。小野田は訝し気な顔をしつつも、それ以上なにも訊かず、アイスコーヒーを啜った。

「……一応、これも言っておいた方がいいと思うんだけど」

 しばらくストローを噛んでいた小野田が、口を開いた。敦子はカップを置いて小野田を見る。小野田はスマートフォンを取り出し、敦子に見せた。

「この動画、知ってる?」

 小野田が見せたのは動画サイトにアップロードされた動画のひとつだった。

「……『殺されスミスの恋人』……?」

 それは先日、悟郎がトークライブの中で話題に出した動画だった。表示されたページのタイトルには「都市伝説・殺されスミスの恋人 その8」とある。そこから続くサブタイトルには、「神泉の惨殺遺体事件を追え」とあった。

「この事件って、もしかして……」

「……そう。ネットで噂になってるんだ」

 敦子はその動画を再生してみた。音量を小さく抑え、動画の言うことに耳を澄ます。

 「スミスの恋人」――それ自体はよくある現代怪談や都市伝説の類だ。謎の男に魅入られた女が、その男を殺す。死んだはずの男は再び女の前に現れ、女はそれをまた殺す――そして女は、ずっとそれを繰り返しているのだという。「十年以内に忘れないと、男が現れて自分が『スミスの恋人』になってしまう」というオチがつくあたりも、如何にも都市伝説的だ。もともとはチェーンメールで流行った話なのかもしれない。

 投稿主の名前は「スミスの隣人」――どうやら、古今東西の未解決事件や身元不明遺体、神隠しといった事象をこの「殺されスミス」に結び付け、動画を投稿し続けているらしい。

 最新の投稿である「その8」では、神泉で見つかった片目、片足の遺体について語られていた。その遺体も「スミス」のひとつである、というのだ。

「その動画を作ったやつが、例のDNAの一致のことを知っているかどうかはわからないが……」

 小野田が言う言葉を聞き流しながら、敦子は動画に見入っていた。そして動画は最後に、神泉の事件の加害者と目される女について言及した。

「野上あす香(24)、風俗店勤務……事件以降、姿を消したこの女性こそが、今現在、『スミスの恋人』を継ぐ者であるに違いない」

 思わず敦子は声をあげる。

「これ……これって……!」

 小野田は頷いた。

「警視庁は野上あす香を手配してる。そもそも、事件現場近くで血まみれの女を目撃した者が多数いるから……情報が漏れたとかではないだろうけど」

「だからって、こんな、名指しで動画で……」

「今は怖い時代だな」

 小野田はそう言ってまたアイスコーヒーを啜った。すでにコーヒーはなくなり、氷の溶けた水を啜っているようなものだ。

「とにかく、秋山さんがこの事件をなんで気に掛けてるか、わからないけど……こうやって妙なことにもなってるし、あまり気にしすぎない方が……」

 小野田はきっと、元同僚を純粋に心配してそう言っているのだろう。しかし、敦子の耳にはその言葉は入らなかった。頭の中に、誰か別の声が響いていた。

 ――俺はここにいるぞ

 敦子は口元を抑えた。なにかが胃の中から逆流しそうだった。

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