――4.響谷レイが秋山敦子を占うのこと
トークライブが終わったあと、会場となった「ミドル・サード」では二次会と銘打った賑やかな酒盛りが始まっていた。レイと敦子はその会場を離れ、近くのファミレスでドリンクバーを頼み、向かい合う。
「なにについて視ますか?」
レイは自分の鞄から布を取り出して広げ、その真ん中にポーチから取り出したタロットカードを置いた。敦子はその様子を見ながら口を開く。
「私、もうすぐ仕事辞めて、専業主婦って形になるんですけど、ちょっと不安で……夫との関係とか」
「うーん、それじゃ敦子さんが家庭の中で今後、どんな風になっていくのかっていう切り口で視てみましょうか。環境と、その変化、そしてその中の役割……」
カードの束を崩して広げ、混ぜながらレイは言った。
占いを始めたのはレイにとって、研究の一環だった。魔術やオカルト、民間伝承を一種の身体文化として捉えるというレイの基本スタンスの中で、実践にちょうどいい素材だったのだ。もっとも、大学の研究室を辞めた今となっては、こうして知人を占ったり、悟郎の主宰するイベントに占いのブースを出したり、占い自体がコンテンツとして求められることの方が多い。
「過去のカード、現在のカード、そして未来のカード……」
ケルト十字の
「……けっこう面白い暗示ですね。運命的というか、あるべき姿に行き着くというか……」
占いは決して、霊的な領域から届くメッセージなどではないとレイは思う。どんなカードが現れるかはプロセスに過ぎない。ダンスによって表現された形のない言葉のように、占う側と占われる側が共同作業で儀式を紡ぎあげ、自分でも気が付いていない深層の意識に近づこうとする――座禅や瞑想に近いものだとレイは考えている。
「今、抱えてる不安……こう、ボタンの掛け違いみたいな感覚ってあります?」
「ああ、あるかもしれないです……」
「でもそれってもしかすると、自分の役割に落ち着くための過程なのかもしれないです。なにか、大きな流れの中にある感じはします。それに逆らうのも、身を任せるのもいいと思うんですけれど」
レイは敦子と、カードと、それらが作り出す空気を身体で感じながら、解釈を加えていく。しかし――
開いたカードの一枚に、レイは引っ掛かりを感じた。「悪魔」の正位置。欲望や誘惑、裏切りや怠惰を示すカード。
「……これ、よくない暗示ですか?」
敦子もまた、そのカードを見ながら言った。
「カードそのものに良い・悪いの意味はないんです。状況は状況、そこに良し悪しを見出すのは人間の勝手ですから」
レイは並べたカードを眺め、少し考えて言った。
「悪魔のカードには『覚醒』とか『解放』とか……悪い流れを断ち切るような意味合いもあります。今、置かれた状況……というか、自分の心の迷いが突き抜ける結果が待ってるかもしれませんよ」
「なるほど……」
敦子は頷いたが、釈然とはしていない様子だった。
「タロットで視えるのはせいぜい三ヶ月くらい先だと言われてます。その頃に状況が変われば、また違う結果になりますから」
そう言ったあと、レイは付け加える。
「それに所詮、占いですからね」
「ふふ、わかりました。ありがとう」
敦子は笑い、カップを口に運んだ。レイはカードをまとめながら、呟く。
「そもそもわたし、結婚とかしたことないからなあ。その辺占ってもいいものなのかどうか」
「しようとしたことはないんですか? レイさん男性からモテるでしょう?」
「いやいやいやいや」
レイは思わず顔を堅くし、ストローを咥えてコーラを飲んだ。容姿を褒められるのに慣れていないのだ。
「結婚なんかするつもりもない……とまで言うほどの覚悟もないんですけど。でも今は自分のことで精いっぱいかな」
「ご活躍ですもんね。この前、怪談専門サイトに書いてた都市伝説の考察記事も読みましたよ。理論的で興味深かったです」
敦子はにこにこと笑いながら言った。
「あはは……霊感とかないし、心霊体験もしたことないからああなりますね」
「レイさんみたいな健康的な人には幽霊も寄って来ないでしょ。合気道かなにかもやってたんでしたっけ」
敦子は眩しそうにレイを見た。
「……いいなあレイさん。フリーランスであちこちに原稿を書いて、たまに悟郎さんの配信にも出たり、占いもやったり。自立してて羨ましい」
「自立って、そんな……あんまり稼げてないですよ、わたし」
レイは苦笑しながら言った。先月、残高不足でインターネットを止められたなんて言えたものじゃない。
「敦子さんの方がよっぽど自立してるじゃないですか。しっかりした仕事をして、結婚もして、家庭のこともしっかり考えて……」
「……それは、なんていうか、自分の意志とは言えない気がして」
「そう……なんですか?」
敦子はカップを手に持ったまま言う。
「これくらいの年齢なら、こうあるべきだ、女はこうだ、この職場ではこうだ……そういうのを丁寧に踏まえて生きてきただけって、そう思うんですよね……なにを学生みたいなことを言ってるんだと思いますけど」
「そんな……! わたしだって似たようなもんですよ。めっちゃ周りの目気にしますもん」
「ふふ、レイさんがそう言うとちょっと安心かな」
敦子はカップの中を飲み干し、テーブルの上に置いた。その目がどこか虚空を見ているようで、レイはそれが気にかかった。
* * *
終電近い時刻になって、敦子は自宅へと帰って来た。
郊外に立つマンションは古いが、広さと立地の割りに家賃も安い。夫婦が二人で暮らすには充分すぎる物件だった。居心地がよく、気が付けばもう十年近く住んでいる。
エントランスを抜け、エレベーターでフロアを上がり、玄関の前に立つ――と、外廊下の片隅に、鳩の死骸が落ちているのが目に入った。またか――と、敦子は眉をしかめる。管理人に連絡して片づけてもらおう、などと思いながら、玄関の鍵を開けて家に入る。
「ただいま。遅くなっちゃった」
そう声を張って居間を覗くが、そこに夫の姿はなかった。テーブルの上には、食事をしたあとの食器がそのままで、その横にサリンジャーの文庫本が伏せて置いてある。
「……彰?」
夫の部屋の方へと行く――と、デスクに向かいPCのディスプレイを覗き込んでいる夫・彰の姿がそこにあった。
「起きてるんじゃない。返事くらいしてよ」
「……ん? ああ、そうだな」
彰はPCを見つめたまま生返事を返す。その様子に敦子は苛つきを覚えた。
「お皿、洗ってくれてもいいじゃない。せめて流しに入れておいてくれても……」
「え? なんで? だって片づける順番があるから自分でやるって言ってたじゃん」
彰が振り返り、不満げな表情を敦子に向ける。
「それはワイングラスの話でしょ?」
「わかんねえよそんなの」
彰は露骨に嫌そうな顔をし、ディスプレイに目を戻した。動画サイトでなにかを見ているらしい。
「……あ、あと風呂のシャンプー切れてたぞ。ストック買っておけっていつも言ってるだろう」
彰がディスプレイを見たまま、背中で敦子に言う。
「買って来てくれたらよかったじゃない」
「俺が勝手にやったらお前、怒るだろ?」
「それはひと声かけて、って意味で……!」
抗議の声をあげようとして、敦子は諦め、息を吐いた。まったく話が噛み合わない。最近はいつもこうだ。
敦子はそこで会話を打ち切り、踵を返した。おい、待て、こっちを見ろよ、などという彰の声が背後から聞こえてくるが、無視してバスルームの方へと向かう。
彰とは大学のボランティアサークルで知り合い、卒業後にそのまま結婚した仲だった。昔はあの顔を思い浮かべるだけで胸が締め付けられるほど恋焦がれたはずだったのだけれど。お互いの気持ちが言葉にせずともわかったように感じていたはずが――いつの頃からか、お互いの言葉や行為がすれ違いを起こし、家庭内には苛立ちばかりが募るようになった。まるで、間に誰かを挟んで言葉を伝えているみたいだ。
敦子は警察での仕事の様子を思い出す。ああした組織の中には、「こうあるべき」だという常識や、定められた方向性のようなものが存在する。個人の意思の集合体ではなく、より大きな意図の中に皆、身を預けているのだ。その大きな意図を誰が作り出しているのかはわからない。彰と作り上げて来たこの家庭の様子も同じだった。敦子がどうにかしようとしても、夫がなにを考えているとしても、お互いの言葉はどこにも届かず、ただその間に立っている誰かの意図する形へと流されていくような、そんな不安を敦子は抱かずにいられない。
子供はいないし、離婚するという選択もあるかもしれない。だが、敦子にはその発想がない。このまま、不仲な夫婦のままで過ごしていくのだろうなあ、という漠然とした予感だけがあり、その中に安住していた。子どもを作り、育てていくという夫との合意事項も、なんだか他人事のようだ。その未来は自分の意志ではない――ならば、いったい誰の意志なのだろう?
敦子はバスルームに行き、服を脱いだ。洗い場の戸の上に、飾ってあるひょっとこのお面と目が合う――これも彰のよくわからない趣味だ。こうした小さな違和感にぶつかるたび、心がさざめく。この家の中で自分だけが違う時を刻んでいるかのようだ。
シャワーを浴びながら、鏡に映る自分の身体を敦子は見た。自らの手で、その肌に触れてみる。もう若くはない肌だ――三十も半ばに差し掛かっているのだし、「妊活」をして子を産み、育てなくてはという思いは強い。だけど――
敦子は下腹部に手のひらを当ててみた。夫に愛情がないわけではない。だが、相手のすべてを受け容れ、その命を受けて新たな命をこの身に宿し、身の危険を冒してそれを産むという行為を、なんの抵抗もなく行えるほどの狂気を宿してもいない。本当にこれでいいのだろうか――と敦子は思う。
顔を上げ、鏡を見る――と、背後になにかが見えた。それは、片目のない男の顔――
「……っ!」
敦子は息を呑み、振り返った。が、そこにはなにもない。恐る恐る、鏡の方に目を戻す――そこには自分の姿以外、なにも映ってはいなかった。敦子はため息をついた。
部屋着に着替え、自分の寝室に行きベッドの上に寝ころぶ。ようやくまた、ひとりの時間だった。
布団を被らないまま、今日の出来事を思い出す。ああいったイベントに出かけて悟郎やレイと話すのは楽しい。この家や職場の重い空気から逃れ、自由を感じられる時間だった。
特別、怪談や都市伝説が好きというわけではない。だが、警視庁の身元不明相談室勤務という職業柄、出会う陰惨な事件、不思議な噂などを少しだけ、脚色して話す。それがとても喜ばれた。それは敦子の自尊心をくすぐり、次第に敦子はそこにのめり込んでいったのだ。
話は少し変えて出所を伏せているし、秘密保持義務に違反してはいない。自分はただ、噂話をしているだけだ。しかし――
敦子は今日、レイと悟郎に話したことを思い返した。神泉の惨殺遺体遺棄事件――片足と片目を失った被害者の身元が不明で、敦子のところに照会が回って来た件だ。十年前に死んだ人間のものと、DNA情報が一致した遺体――一応、上司には報告したが、恐らくは「古いシステムで登録されたデータの不整合」とか、なにもなかったことにされるのだろう。それがあの組織の「あるべき姿」の流れだ。
いつもなら敦子も、「そういうものだ」と思って忘れてしまうだろう。だが、今回はそうもいかなかった。なぜなら――
敦子は寝返りを打った。身体を横向きにし、部屋の隅を見る――闇に沈んだその場所に、先ほど鏡の中に浮かんだ片目の男の顔が浮かぶ。
『こっちを見ろ。俺はここにいるぞ』
敦子の頭の中に声が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます