――2.悪魔ジャボーと逢間京平
コンクリートが剥き出しの天井に、開け放した窓から差し込む低い西日が黄色い染みを作っていた。行き場を失った重い光が、だらしなく向かい側の壁にまで伸びている。
夕暮れのこの時間というのはただでさえ、どこか人の心をざわめかせる。前年に起こったコロナウィルスの流行により、店舗の多くがシャッターを下ろした繁華街はそのまま、人の心の隙間であるようだ――そんな風に思わせるのは、湿った夏の風が路地を吹き抜けるせいだろうか。
『季節の巡り、時の循環………そんな巨大な動きには、お前でさえも抗えないのかね?』
スツールの上から、ジャボーが言う声が聞こえた。
「時間の神に魂を売ったことで、人間は文明を手にしたんだ。移ろう時に取り憑かれて心を左右されるのは、その代償のようなものさ」
『認識の相違だな、少年。人の心に取り憑き、その行動を操るというのは、神などではなく悪魔の仕業ではないのかね』
京平はノートPCのディスプレイから顔を上げた。振り返り、部屋の片隅に置かれたローテーブルの方を見る。ソファと並べて置かれたいくつかのスツールのうちのひとつ、その上に黒い大きな身体を折り畳み、しゃがみ込んでいるジャボーがいた。
「悪魔ってのは、お前のような、かい?」
ジャボーはその長い爪の先で顎をかいた。大きく裂けたその口元が、ニヤニヤと笑っている。
『はて……
「操られている方は、大抵それが自分自身の意志だと思い込んでいる。俺もどうだか、わかったものじゃない」
『それがわかっているなら上出来というものだ』
京平は鼻を鳴らした。椅子をカウンターの方へと返し、カップを手に取る――しかし、コーヒーチェーンのロゴが印刷された紙のカップは空だった。京平はため息をつき、いつものモカチップフラペチーノをまた買いに出ようか、と考える。
『いつも言っているが、糖分の摂り過ぎは身体によくないぞ、少年』
ジャボーが言った。
「悪魔らしからぬことを言うじゃないか」
京平はため息をつき、紙のカップを弄んだ。細く色素の薄い髪の毛が揺れる。髪だけではない。京平を見る者は大抵、「あらゆる色素が薄い」という印象を受ける。その肌も、眼も、人と比べて色が薄い。端正な顔立ちではあるが、その存在感の弱さが却って人に強烈な印象を残す――そんな容姿を持っていた。
ジャボーは長い腕を曲げ、額に手をやる。
『お前の身体が健康であることは、我の存在に関わるのでな。利己的動機だ』
「そうかい? ならその宿主が多少の健康を犠牲にして精神的充足を求めることも、できれば許して欲しいな」
『お前の精神が崩壊しようと知らぬ。身体が健康でありさえすればよいのだ。いっそ植物状態でいてくれるのが一番良いかもしれぬな』
「めちゃくちゃ言ってくれるな」
京平は頭を振った。まったく、忌々しいやつだ。
「だけどそれじゃ
『勘違いするな。その契約は元々、お前のものだ。我はお前の求めに応じてここにいるに過ぎんのだからな』
京平は舌打ちをした。だが、ジャボーの存在が京平自身の選択であることは事実だ。それがまた忌々しい。
ジャボーがひくひくとその鼻を動かし、言う。
『それよりも少年、来客があるようだぞ』
「……ああ、知ってるよ。どうせ九岡だろ?」
京平は顔を上げた。営業していないバーの淀んだ空気を、乱す意志――こちらへ向かうその匂いを、ジャボーが感じ取ったのだ。
しかして入り口の扉は開き、その向こうから肩幅の広い男が姿を現す。
「……いらっしゃい」
「なにがいらっしゃいだ」
九岡がその精悍な顔に皴を寄せる。京平とは真逆の濃い顔立ちで、眉間の皴がくっきりとその意志を主張していた。引き締まった身体に吸い付くようなオーダーメイドのスーツにハンドポケットのまま、九岡はローテーブルの方へ向かおうとする。
「あ……」
思わず声を出した京平に、九岡は足を止める。
「……いるのか?」
「ああ、うん……でも構わないよ」
九岡はローテーブルの周りを見回した――その視線が、ジャボーの座り込むスツールの上を通過する。
「……まあいい」
九岡はカウンター席の端に座り、電子タバコを取り出した。その鋭い目が、京平の手元の紙カップを見る。
「自分のゴミは片づけとけよ。来週には業者が入る」
「なに、ここで店をやるの?」
「まあな、コンセプトバーってやつだ」
「あー……」
京平はPCから目を上げた。
「やめた方がいいよ」
九岡はその言葉を聞き、電子タバコを咥えようとする手を止めた。
「
「まあね。ここ、人死んでるでしょ?」
京平は店の中を見回した。カウンターの反対側、テーブル席の並ぶその一角に、その
「もうだいぶ前のことだとは思うけど……それでも、死臭ってのは人間の潜在意識に訴えかける。客が来てどんなに盛り上がっても、死臭ばかりが印象に残る。建物を建て替えでもしない限り、店は流行らないよ」
そこに浮かぶ色の感じからすると、女のような気はする。しかしそれが誰で、どうしてそこで死んだのか、その辺りはわからない。ただ、そこに残った様々な匂いや、わずかな床の色や、音や――意識の上では気付きさえしないような、微細なものたちが輪郭を形作り、脳がその情報を
「やるんだったら風俗とかがいいよ。死臭とかそういうのは男を興奮させるからさ」
「なるほど、参考にするわ」
九岡は電子タバコを咥え、スイッチを入れた。LEDの青い光が薄暗い部屋に浮かぶ。
「ここ、禁煙じゃなかったっけ?」
「電子タバコはいいんだ」
九岡は煙を吐き出した。改造された電子タバコから大量の煙が吐き出される。京平は少し眉間に皴を寄せ、テーブル席の方を見た。先ほどの
「とりあえず、お前も今日でここは出て行け」
「別の寝ぐら、ある? ……九岡さんの家とかは勘弁ね」
「少しの間、泊めてくれる女ぐらいはいるだろう?」
「んー、あんまりしがらみを作りたくないんだよな」
「寝ぐらはなんとかしてやる。その代わり、その能力を俺の役に立てろよ」
九岡はまた電子タバコを咥え、煙を吐いた。そして、眉間に皴を寄せ、京平の方に向き直る。
「店の女がいなくなった」
「どこの店?」
「『エイペックス』の裏」
「ああ」
DJバー「エイペックス」の裏にあって、九岡が経営する店は確か、「ドキドキアイドル学園」とかいうピンサロ――いわゆる店舗型性風俗店だ。九岡のような男がその店名を口にするのを避けたのが、京平には少しおかしかった。
「店の女の子が
「まあな。ただ問題は、警察がアスカを探してるってことだ」
「……へえ?」
九岡は電子タバコを口から離し、大げさにため息をつく。
「なにかの事件の重要参考人になったらしいな。それだけでも忌々しいんだが……話はそれだけじゃない。アスカは最近、妙なビジネスに手を出してたとかでな」
「ビジネス……って言うと」
それもよくある話ではあった。つまり――
「……ネズミ講的な?」
「投資だとかビジネスサロンだとか謳ってるらしいが、まあ似たようなもんだな。同じ店の女が何人か、アスカからその手のパーティに誘われたらしい。変に明るくなったとも言ってた」
「それがその警察沙汰と関係あると……?」
「断定はできないが、いずれにしろ放ってはおけねえ」
九岡は手の中で電子タバコを弄びながら、形のいい眉を動かした。芝居がかった仕草は元ホストゆえのクセだろうか、などと京平は思う。
「どうも最近、この辺りにそういう妙な連中が入り込んでいる……ガキどもが起業だ情報ビジネスだと、騒ぎ立てるのは構わねぇが、この町に持ち込まれるとなれば話は別だ」
「シマを荒らすやつは許さない、と」
「……京平、これは
九岡は電子タバコを置き、カウンターに肘をついて京平の方へ向き直った。
「水商売ってのは世の中の鏡なんだ。ベンチャーだイノベーションだと騒いでる連中にはわからないだろうが、俺らのやってるホストクラブやら風俗店ってのは、業態こそ違えどやってることは昔から変わらねえ。新しいことも要求されねえ。激しく変わる世の中からドロップアウトした連中が営業し、そういう世の中から離れたい連中をもてなすんだ」
「まぁ、それはそうだね」
「この街にはヤクザもマフィアもいる。半グレのガキ共が攻めてきたこともある。だけど、ほとんどはそんな積極的な反社じゃねえんだ。ただ社会の本流からはみ出して生きてるだけの連中だよ。そこへオンラインサロンだなんだ、意識の高ぇモノを持ち込まれちゃ困るってもんだ」
なるほど――と京平は納得した。実際のところ、そのアスカとかいう風俗嬢のことはどうでもいいのだろう。要は、警察沙汰にかこつけてその連中を追い払いたいのだ。
この町でいくつもの店を手掛ける九岡は、昨年のコロナ禍でも街の顔役として行政や警察と交渉し、店が閉店せずに済むよう大きな役割を果たした男だ。反社会勢力の干渉を極力避け、白に近いグレーの状態を保つよう尽力してきた人物でもある。だからその九岡が、そのビジネスとやらを警戒するのは理解できた。
『少年、これはいい匂いがするな』
ジャボーの声が聞こえた。どうやら喜んでいるらしい。まあそうだろうな――と京平は感じ、ため息をついて頭を振った。ならば仕方ない、それは京平の意志でもあるのだ。
「……わかったよ。ジャボーもやる気みたいだ」
京平がそう答えて振り返ると、九岡もローテーブルの方を見た。ジャボーは相変わらず、スツールの上にしゃがみ込んで顎に手をやり、笑みを浮かべていたが、その姿が九岡に見えることはない。
「……まあ、頼んだ。お前の頭の中の悪魔野郎にもよろしくな」
九岡はそう言って立ち上がる。京平には、ジャボーが身をよじってその顔を覗き込んでいるのが見えていた。
「さて、そうと決まれば飯でも行くか」
「デザートもつけてよ」
京平は立ち上がり、九岡の後について店を出た。
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