――1.反復殺人

 一晩中明るいまま揺らめき続けるその街を、覆うようにして蠢く人間たちの、その隙間に死があった。

 表通りの喧噪と足音、酒の匂いと白い光。それらから離れたところにある暗い小さな緑地。木々に囲まれた静寂と暗闇は、世界の中にこびりついた染みのようでもあり、または完成された秩序の中から、排泄されたなにかのようでもある。

 街の灯りが木の葉で遮られ、暗く沈んだ剥き出しの地面。その上に、寄り添って座り込む男女の影。片方は半裸の上に、薄いパーカーを羽織っただけの若い女で、細い手足を折りたたむようにして身体を丸め、手に持ったスマートフォンを弄んでいた。

 その女の肩に首を預けているのは若い男で、三本の手足があった。一般的に左足と呼ばれるその内の一本の、膝から下が失われている。片方の目は抉り取られ、そこに開いた深い穴が虚空を睨んでいた。

 二人が座り込んだその場所を中心に、広がる血の池の赤。それは暗闇の中にあって周囲よりもさらに黒く、地の底へと誘う穴のようだ。

 女は指でスマホを弄りながら、その目は虚ろに宙を彷徨う。それがふと、宙の一点に視線を止めた。なにもないその空間に向かい、ふらふらと立ちあがる。形のいい唇がわずかに震え、なにかの音を発しようとしていたが、それは静けさにかき消され、暗闇の中に圧し潰されていった。

 女は虚空に導かれるようにして、その足を踏み出した。もし、その場に別の誰かがいたなら、殺された男の片目が、立ち去る女の姿を追ったように見えたかもしれない。


 * * *

 秋山敦子はPCの画面から顔を上げた。係長がオフィスに入って来て自分の席に座ったからだ。敦子は立ち上がり、オフィスの一画に設えられた小さなスペースへと向かった。係長の湯呑を手にし、ポットからお湯を入れて温める。

 ――係長の好みはわずかに濃い目。

 急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ。一分よりもわずかに長く、蒸らす。そして茶を注ぎ、湯呑を盆に乗せ、係長の席へ。

「どうぞ」

「ん」

 自動的に出てくる自分好みのお茶に対し、お礼のひと言さえもなく、係長はそれを手にする。敦子もまた、それにイラついたりはしない。お茶が減れば、また汲む。令和の時代になろうと、ここではそれが当たり前の情景だ。

「あ、秋山君」

 自席に戻ろうとした敦子を、係長が呼び止めた。

「報告書、読んだよ。だいたい問題はないが、身元情報の照合のところはもう少し詳しく頼む」

「わかりました」

 敦子はそれだけ言って、自席に戻る。別に悔しくもなければ反省もしない。提出した報告書は必ず一度戻され、修正するものなのだ。別にルールがあるわけではないが、それは暗黙の了解。この組織を構成する数々の儀式・・の一部。

 非効率的ではあるかもしれない。だが、それは効率や善悪の領域ではないのだ、と敦子は理解している。それはこの警察という組織が、人間の集合体ではなく、警察という一種の「人格」を持って機能するためのものだ。その構成員は船の櫂を漕ぐかのようにして、儀式を通じその「人格」を表現する。

 敦子はやりかけの作業ウィンドウを一旦最小化し、報告書のファイルを開いた。係長に言われた箇所を手早く直しつつ、他の箇所にも修正を入れ、係長や組織上層部の好む言い回しを随所に挿入する。

 仕事というのは、完璧な結果を出せばいいというわけではない。敦子のような末端の構成員はむしろ、求められる欠陥を持っているべきなのだ。ある観点の典礼プロトコルにおいて係長よりは無能でなければならず、そして係長もまた、その上長から見て欠けた存在でなければならないのだ。

 ――こっちを見ろ

 頭の中で、誰かの声が聞こえた気がした。敦子はふと手を止め、デスクの隅に置いた資料を見る――いや、今はいい。とりあえずこの仕事を終わらせよう。敦子はPCの画面に向き直り、細かい言い回しを仕上げた。提出は明日がいい。すぐに提出すると却って、仕事に対して不誠実だと見なされる。

 ひとつ、仕事を終えて敦子は息をついた。組織という巨大な儀式の一環を担い、目に見えない大きな存在の一部となって役割をこなす。まるでパズルを解くかのように、求められることの先を完璧に演じてみせる。それは、連綿と伝えられてきた形なきものを受け取る、ときに甘美な体験でさえある。自分が正しい道を歩んでいると、そう感じられるのだ。

 ――俺はここにいるぞ

 報告書のファイルを閉じたとき、再びその声を聞いたと感じた。デスクの隅に置いていた資料がまた目に入る。敦子は何気なくそれを手に取り、開いてみた。

 それは先日、渋谷区神泉で起きた殺人事件の捜査資料だった。被害者の身元が不明のため、刑事課の方から身元照合で回って来たものだ。すでに、分析されたDNA情報もデータベースに登録されている。

 敦子はぱらぱらと資料に目を通した。被害者の身元がわからない、という点を差し引いても、それは異常な事件だといえた。死因は失血死――左の目を抉られ、左足を切断されたことによる大量出血が原因だ。だが、切られたはずの左足の先が、どこにも見つかっていない。遺体が発見された前後、血まみれの小柄な女が付近で目撃されており、目下のところ捜査員はその行方を追っている。

 敦子は再びPCに向かい、ショートカットをダブルクリックした。警察の管理する身元不明遺体のデータベースがウィンドウに展開する。それが、敦子の主な仕事場だった。PCを操作し、検索を開始する。

 身元不明の遺体が発見される件数は、全国で三万近い数になる。東京だけでも三千。そして年々、その数は積み上がっていく。警視庁は2014年に、捜索願の出された行方不明者のDNA情報をデータベースに登録することを決めた。検挙や任意聴取などによって採取されたものとあわせ、データベースには五十万件超のDNA情報が記録されている。敦子たちは身元不明の遺体から採取したDNA情報をここに照合し、一致する情報を探すのだ。

「……ね、秋山さん」

 ――と、突然に声をかけられ、敦子は思わず肩を竦める。

「秋山さん、今日までだよね」

 敦子は小野田の方を見た。浅黒い顔の上で髪をしっかりとセットした、三十絡みの陽気な男だ。

「ええ、お世話になりました」

「勿体ないなぁ、こんなにきっちり仕事してくれる人、なかなかいないのに……」

「そうですね、私も慣れた仕事なので、辞めるのは勿体ないなっておもうんですけれど」

 敦子の退職は夫の意向でもあった。これから子どもを産み、育てていくことに専念してほしいという――いわゆる「妊活」とか言うあれだ。年齢を考えれば、そろそろそうするのがあるべき姿ではある。まあ、どの道――敦子はお茶を飲んでいる係長を横目で見た。このままこの職場に残っても、出世の目があるわけでもない。

「名残惜しいよ」

 小野田は声を落とし、敦子に流し目を送った。

 嫌らしい男だ、と敦子は思う。別に不快ではない。小野田とは月に一回程度、関係を持つ仲でもあった。要は、退職しても関係を続けたいということだろう。

(たぶん、自然消滅するだろうな)

 敦子はそう思った。小野田との関係は、不倫と呼べるようなものでさえない。それは、完全な秩序を保った組織の中で、敦子たちが引き受けるべき「穢れ」のようなものなのだと思う。敦子が組織を離れれば、その必要はなくなる。穢れはその社会の中にあるからこそ穢れなのだから。

 ――こっちを見ろ

 また、声が聞こえた気がした。敦子は目の前の男の顔を見る。しかしそれは小野田の声ではないし、また小野田には聞こえてもいないようだ。

「どうしたの?」

「なんでも」

 敦子は軽く首を傾げて見せ、自分のPCへと向き直った。

「……あれ?」

 先ほどの検索結果が出ているようだった。一致するDNA情報が一件。マウスのカーソルをそこに合わせる。どうしてか、指が震えている。胸のざわめきを抑えながら、その検索結果を、開く――

「……小野田君、これ」

「なに?」

 隣の席から、小野田がディスプレイを覗き込む。

 敦子は無言で検索結果を示した。データベースに登録された日付は2011年。そして、その身元は――不明。

「どういうこと?」

 小野田がそれに気が付き、眉を寄せて言った。

「これ、先週殺された身元不明の遺体……ですよね?」

「そのはず、だけど……」

 敦子は何度も、照合元と情報を見比べる。しかし――

「……それがどうして、十年前にも死んでるの?」

 2021年、渋谷区の緑地に現れた片足、片目の遺体から採取したDNA情報は、2011年に駒込の雑居ビルで何者かに殺された遺体と一致していた。

 敦子は捜査資料にもう一度目をやった。そこに添付されている、被害者遺体の写真――片目を抉られた陰惨なその顔が、目に入る。

 そのとき、敦子の脳裏でその写真の顔がなにかに重なった。遠い記憶の中にある姿――片足を切られ、片目を抉られて、山の中に倒れていた男の遺体。

 ――俺は、ここにいるぞ――

 記憶の中の男が、口を動かしてそう言いながら敦子を見た。その声は先ほどよりも明朗な響きで頭の中に響いた。

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