第八話

雨の匂いが、特に、夜の雨の匂いが苦手だ。

自分の心をコントロールできなくなるような気がして、不安になる。

雨の匂いを嗅ぐと思い出すのは、大学構内のメインストリートだ。

霧雨のようなとても湿度の高い空気の中を、南から北へメインストリートを自転車で走って行くイメージが浮かぶ。

具体的に思い出すのは、大学生時代に少しだけやった家庭教師のアルバイトの帰り道で、信号のない大学構内を走り抜け自宅へ向かっていた時のことだ。

特に印象的なことがあったわけではない。

アルバイトには特別良い思い出もないが、これといった問題もなかった。むしろ空虚だったことが不安感として胸の奥に残っているのかもしれない。


当時はまだ学部生で、毎日数コマの講義を受け、あとは遊び呆けていた。

地元を離れ初めて一人暮らしをする似た境遇の友人が多く、みな時間を持て余していた。

海外旅行に行くためだと必死でアルバイトをしている奴もいたが、僕は目的もなく暇つぶし程度にやっていた。

大学生の本分である勉学の方はといえば、講義はまあまあ面白く、サボることはせず、成績も良かった。

あまりに難解だった物理や数学とは距離を置くことにしたが、宇宙や地球のことを解き明かそうという地学のことは、次第に好きになっていった。

なかでもフィールドワークと称される野外での実習は、退屈な日々を送る大学生にとっては大きな刺激で、ひたすらに川をじゃぶじゃぶと遡る地質図学の実習や、良くわからない石を眺めて鉱物名を覚えるという講義は、およそこれまでおこなってきた勉学とはスタイルが違い、とても楽しかった。

なにより、相手が自然であるため、求められている答えが「事実」ではなく、こうかもしれないとか、今のところこう考えられているという「解釈」であるというのが僕の性質に合っていた。

普通の大学生であれば、そのような楽しい時間は現実世界のそれとは違うということに自然と気が付き、せっせと就職活動を始めるのだが、僕は考えることを放棄し、研究という川の流れに身を任せ、気が付いた時には海に出てしまっていた。

比喩ではなく、本当に海に出た。所属した研究室では、海の仕組みを解明するという研究テーマを選び、研究のための試料を求めて船に乗り海へ出たのだった。

そして、そのテーマが良かったのか運が良かったのか、順調に研究成果が出た。

成果が出れば楽しくなり、周りからももて囃されるようになる。

後で振り返れば、まさに井の中の蛙、大海を知らず、であった。

大学院を卒業し、業界では有名な首都圏にある研究所に就職したまでは良かったが、自分よりもモチベーション高く、研究に没頭する優秀な研究者が大勢いることを知る。

地方大学の気楽さ自由さが体に染み付いてしまった僕は、周囲の実力や熱量に圧倒され、次第に自分の中にある研究への情熱が萎んでいってしまった。

実際のところ、全員が全員、情熱的な研究者ばかりではなかったが、そういった連中は情熱の代わりに的確な判断力や仕事術を身につけていて、結局、僕はどんどん落ちこぼれていった。

しかし、せっせと己を磨いてこなかった僕にできることは他になく、肩身の狭い思いをしながら研究所に通う日々だった。

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